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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑦

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑦

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の7回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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今回は道元禅師が中国に渡ったばかりのころに訪れた阿育王山の広利禅寺での話からはじまる。
この寺で道元禅師はちょっと変な人物画を目にするのだが、まだ悟りにいたっていなかった禅師はその画の誤りに気付くことができなかったと振り返る。
このあたりの謙虚な回想には朗らかな人間味を感じてしまい、道元門下の私としてはちょっと印象的な部分に感じられる。


後半は、これまでに幾度となく問題になっている「仏性」をめぐる題材として、斉安国師の話が用いられる。
一切衆生有仏性」と説く斉安国師に対し、道元禅師がどう思索を深めていくのか。


「衆生」と「仏性」という言葉は、異なるものではない。
しかしながら、衆生がそのまま仏性なのでもない――。
このあたりの感覚が摑めそうで摑めないという、ジレンマのようなものを感じながら読み進めていただければと思う。
ジレンマが強ければ強いほど、悟ったときの喜びは大きいはずだから。


36節

予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覽なし。のちに寶慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、
予、知客にとふ。這箇は是れ什麼の変相ぞ。
知客いはく、龍樹の身現円月相なり。
かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。
予いはく、真箇に是れ一枚の画餠に相似せり。
ときに知客、大笑すといへども、笑裏に刀無く、画餠を破すること不得なり。
すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。
予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。
知客いはく、他は鼻孔無し、對へ得じ。如何でか知ることを得ん。
ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。

現代語訳

私(道元)は仏法を求めて旅を続け、1223年に中国へ渡った。
そうして阿育王山の広利禅寺を訪ねた。
寺の西の回廊を歩いていると、壁にインドから中国にかけての歴代の祖師方33名が、さまざまな姿で描かれているのを見た。
しかしそのときは、その変な人物画を見ても誤りに気付くことができなかった


その後、1225年に再び同寺を訪れる機会があり、そこで成桂という案内役の僧侶につれられて廊下を歩いていた。
するとまたあの画と出会った。


私は成桂和尚に質問をしてみた。
「これは誰を描いたものですか?」
と。


成桂和尚はこう答えた。
「龍樹尊者が身に円月相を現した姿を描いたものです」


しかし成桂和尚の言葉は、まるで顔を描いたのに鼻が欠けているように、上っ面の言葉だけがあって、画の意味を真に知った上での言葉とはとても思えなかった。


そこで私はもう一歩踏み込んでこう言ってみた。
「この画はまるで、画に描いた餅ですね」


すると成桂和尚は大笑いをした。
しかしその笑いは、ただ力なく笑っただけで、私が発した皮肉を吹き飛ばすほどの内容をともなう笑いではなかった。
画に描いた餅と言われても、それを覆すような言葉は何も返ってこなかったのである。


それから舎利殿など、寺院各所の名所を巡る案内をしてもらったので、その間に何度か例の龍樹尊者の画について問題提起をしてみた。
しかし成桂和尚は私の言葉に何の疑問も抱かないらしく、とても問答にまで及ぶことはなかった。
たまには同行の別の僧侶が意見を言うこともあったが、画餅を打破するような言葉は聞けなかった


「それではこの広利禅寺の住職に、龍樹尊者の画について質問をしてみることにしましょう」
私はそう提案してみた。
広利禅寺の住職は大光禅師である。


すると成桂和尚は、
住職にそのような知識はない、問いに答えられるとはとても思えない。
だから訊ねたところであなたが満足するような答えは得られない」
と言って、私を思い留まらせた。


それならば仕方がないが、そう言う成桂和尚も理解があるとはとても思えない。
同行の僧も同じである。
歴代の住職も、この画に疑問をもつことがなかったのだから、おそらくは何も知らないのだろう。
もし画餅であることに気付いたなら、必ず書き改めさせていたはずだ


描くべきものを描くことができないのなら、いっそ何も描かないほうがまだよい。
描くならば、端正実直にありのままの真実を描くべきである。
これまでに龍樹尊者の円月相を描いた者は何人もいたが、描かれた画は一枚の銭や鏡に似た一円相であり、円月相そのものを描いた者はいなかった。

37節

おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔儻の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。

現代語訳

古来、仏性というものを特殊な覚知能力のようなものだろうと考える者は多い。
その考えから抜け出すことができないため、有仏性という言葉にも、無仏性という言葉にも、仏性を知る糸口を見いだせないでいる。
仏性を学ばなければならないと考える者さえ、今では稀である。
この怠慢は、仏道における大病といえるだろう。


この広利禅寺にいる者たちばかりではない。
各寺の住職であっても、一生のなかでただの一度も仏性について弟子に示すことなく生涯を終えた者もいたことだろう。


ある者はこんな妄言も吐いた。
「仏性については、経の講義を聴いて教えを受けた者たちが論議することであって、坐禅に打ち込む禅僧が口をはさむことではない」
と。


このようなことを言う輩は、本当に人間なのだろうか。
なんという悪魔の徒が我が師ブッダの道に入り込み、仏道を汚そうとしているのだろうか。
教えを聴くというだけの仏道などどこにもない。
坐禅と仏性を切り離す仏道などどこにもない。
だいたい、仏道は一本であって、教えを聴く道と坐禅をする道とに分けて考えることがそもそも誤りである。


38節

杭州鹽官縣斉安国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有仏性。
いはゆる一切衆生の言、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。凡夫外道、三乗五乗等、おのおのなるべし。いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。国師の道取する有仏性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。
いま国師の道取する宗旨は、一切衆生有仏性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、一切諸仏、有仏性なりや也無や。かくのごとく問取し、試驗すべきなり。一切衆生即仏性といはず、一切衆生、有仏性といふと参学すべし。有仏性の有、まさに脱落すべし。脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道なり。しかあれば、一切衆生有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、仏性をも説透するなり。国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会得せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髓もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。

現代語訳

杭州の塩官県の斉安国師は、馬祖道一禅師の門下の尊ぶべき僧である。
この斉安国師があるとき、弟子たちに次の言葉を示した。
一切衆生有仏性
ここで言われる「一切衆生」という言葉を、ただちに参究しなければいけない。


何を行うかによって受ける報いが異なるように、人はそれぞれの生き方によってそれぞれの見識を具えていく
仏道に出会うことのなかった者、仏道以外の教えを学んだ者、あるいは仏道を学んだ者でも、その説くところは宗派によって異なっている。
したがって「一切衆生」という言葉についても、人によって考えることは異なる。


今、仏道が示す「一切衆生」とは、仏心を指して衆生と呼んでいる
仏心が衆生というわけだ。
では仏心のない者は衆生ではないかというと、それは違う。
そうではなくて、衆生こそが仏心なのである。


衆生を指して仏心と呼び、仏心を指して衆生と呼び、衆生を指して有仏性と呼んでいるのである。
草木も仏心である。したがって草木という仏心を指して衆生と呼び、衆生を指してやはり有仏性と呼ぶ。
空に輝く星もまた仏心である。
仏心でないものはない。
だからすべてを指して仏心と呼び、仏心を指して衆生と呼び、衆生をさして有仏性と呼ぶ


斉安国師が言うところの有仏性とは、つまりはそういうことだ。
もしそうでなければ、それは仏道でいうところの有仏性ではない。

39節

いま国師の道取する宗旨は、一切衆生有仏性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、一切諸仏、有仏性なりや也無や。かくのごとく問取し、試驗すべきなり。一切衆生即仏性といはず、一切衆生、有仏性といふと参学すべし。有仏性の有、まさに脱落すべし。脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道なり。しかあれば、一切仏性有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、仏性をも説透するなり。国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会得せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髓もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。

現代語訳

斉安国師が示しているのは「一切衆生有仏性」の言葉だけである。
では衆生でなければ有仏性ではないのだろうか。
試しに国師に問うてみるのもいいかもしれない。
「一切諸仏は有仏性なのかどうか」
と。


また、「一切衆生仏性」と言わず、「一切衆生仏性」と示した理由を考えてみるのもよい。
即仏性であるなら、人は凡夫のままにして仏性となる。
しかしそうは言わない。


だから有仏性と言うのだが、この「有」を「有る無し」の「有」と受け取ってしまったら、それもまた凡夫の考えに引き戻ってしまったことになる。
したがって「有」とは「全て」であると理解し、「有る無し」といった相対の思考から脱却しなければならない。


相対から離れれば、あとはもう一本道だけが残る。
衆生と仏性とが別ものでなくなった一本道は、跡を濁すものが何もない鳥の道である。
そしてまた、別物でないから「一切仏性有衆生」でもよいわけだ。
ここまでくれば、もはや「衆生」や「仏性」といった言葉に捉われることもなくなり、言葉の壁を通り抜けたその奥へと進むことができるだろう。


斉安国師は「一切衆生有仏性」という言葉以外を示さなかった。
しかしそれは、その他の言葉に気が付かなかったということではない。
「一切諸仏有仏性」も「一切仏性有衆生」も「一切衆生有衆生」も、衆生や仏性や有や無といったことをすべて了じていたが、ただそれを説明する機会がなかっただけである。
だから言い得ていないということではまったくない。


自分自身に具わっている道理、たとえばとても小さな物質が関係し合って人間の体が構築されている事実や、そこに五蘊というさまざまな精神作用が加わっているという事実を知らなくても、人間にはそうした道理がちゃんと具わっている。
皮膚の中には肉があり、肉のなかには骨があり、骨の中には髄があるが、そのようなことを知らなくても、体はちゃんとそのように出来上がっている。


人間の体がそうであるように、どのような言葉も斉安国師のなかにはすべて具わっていた。
そうした上で、一生のなかで用いられる言葉があり、様々な期に応じて様々に用いられる言葉があるというだけのことである。