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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑥

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑥

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の6回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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前回に引き続いて龍樹(りゅうじゅ)尊者に焦点をあてて仏性の話を進める道元禅師であるが、今回問題となるのは仏性の描き方
龍樹尊者が坐禅によって仏性を示したというエピソードをもとに、その様子を画に描いて残そうとした人物が中国には大勢いたらしい。
しかしそこで描かれたものは、鏡のような円い形、つまりは一円相ばかりだった
一円相
       ⇧ 一円相

円満で欠くことのない真理を表現するものとして、禅では一円相がしばしば好まれるが、興味深いことに道元禅師は「仏性」の巻でこれを否定した
よくよく考えてみれば、たしかに諸法実相(しょほうじっそう)という考え方、あらゆるものはそのままの姿で真理を説き尽くしているという考え方からすれば、真理そのものではなく真理を表現する一円相を描くことに疑問を感じないわけではない。


一円相を用いて真理を描くことによって、真理というものが言語化することのできないものであるという印象を植え付けるばかりか、まるで見ることも聞くことも認識することもできないものであるかのような印象を与えてしまう可能性はたしかにある。
それは禅という立場から考えれば、危うい手法と考えられる。
真理とは眼前や足元にあるものであって、特別なものではないというのが禅の立位置だからである。


一円相に対して禅師の痛烈な一撃が見舞われる今回の話を、それでは読み進めていこう。


30節

尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに満月相を識此し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。入室瀉缾の衆たとひおほしといへども、提婆と斉肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆会の導師なり、全座の分座なり。正法眼蔵無上大法を正伝せること、霊山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。龍樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼蔵を正伝す。これ無上仏道の単伝なり。しかあるに、僭偽の邪群、ままに自称すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり。論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の、人天を惑乱するなり。仏弟子はひとすぢに、提婆の所伝にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるべきなり。これ正信得及なり。しかあるに、偽なりとしりながら稟受するものおほかり。謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。

現代語訳

後に、龍樹尊者の法を嗣いだのは、群衆のなかにいた迦那提婆(かなだいば)だった。
迦那提婆は龍樹尊者の一番弟子となり、龍樹尊者が現した坐禅の姿の意味を識ることができるほどの人物となった。
この身こそが真実を現す仏性にほかならないこと伝えようとする龍樹尊者の意図をはっきりと識り、仏性を識り、仏をも識ったのだった。


龍樹尊者の教えを受けた者は大勢いたが、この迦那提婆に肩を並べるほどの人物はほかにはいない。
迦那提婆は龍樹尊者と座を分けた尊者となり、人々を導く力量を有し、仏法を伝える仏祖の中の1人となった。
龍樹尊者が迦那提婆に仏法を伝えたのは、昔ブッダが霊鷲山で摩訶迦葉尊者に仏法を伝えたのと同等のことと考えるべきである。


龍樹尊者は仏道と出会うまで、仏教以外の教えを学んでいた。
そのころにも大勢の弟子がいたが、龍樹尊者はその弟子たちをすべて自分のもとから去らせ、一人仏道へと入っていった。
そして仏法を得たあとには、迦那提婆を法を嗣ぐに相応しい人物と認め、そのすべてを託した。
これこそ、師から弟子へと相承される仏法の正しい在り方といえるだろう。


しかしながら、僧のなかには「私もまた龍樹尊者の教えを嗣ぐ者の1人である」と、自称する偽者が少なからずいる。
そういった者たちの手によって、仏法を記した論書なども数多く著されてきた。
それらは龍樹尊者によって書かれたものだと言われているが、実際はそうではない。
書いたのは、龍樹尊者が仏道に入る以前に教えを受けていた弟子たちで、今その論書は人々を惑わす原因となってしまっている


龍樹尊者の法を嗣いだのは迦那提婆尊者ただ一人だけだ。
だから仏道を学ぼうとする今の僧たちは、迦那提婆尊者が伝えた仏法の系譜でない教えは、龍樹尊者が示した道ではないことを知るべきである。
そうした正しい信念によって、仏道を正しく歩むことができるだろう。


しかしながら、偽りの教えであると知ってか知らずか、それらの論書から仏法を学ぼうとする者は依然として多くいる。
仏教の智慧を冒涜するかのごとき愚行に、哀れみと悲しみを感じずにはいられない。

31節

迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会につげていはく、
「此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は、廓然として虚明なり」

現代語訳

迦那提婆尊者は、龍樹尊者が坐禅によって現した真実について、人々にこう言った。
この尊者の姿は、仏性の姿にほかならない
坐禅でもって私たちに真実を説いているのである。


どうしてそのようなことがわかるのかと言えば、「真実の姿」などという概念に捉らわれることがなくなった姿こそ、ただの姿にして、真実を現す姿だからである。
龍樹尊者の姿は、何も知らない者が考える「仏性という捉われ」から離れているからこそ、仏性そのものを現している姿なのであり、それは大空のようにどこまでも透き通るかのごとく明らかなものである」

32節

いま天上人間、大千法界に流布せる仏法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、「身現相は仏性なり」と。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。余者はただ、仏性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は仏性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、「目未所覩」なり。「仏性之義、廓然虚明」なり。

現代語訳

世の中は広い。
これまでにどれほどの人間が仏法を学んできたことだろう。
しかしながら、仏法を見聞きし仏法を学んできた者は大勢いたが、一体そのなかの何人が「身に仏性が現われている」と言い得ることができただろうか。
龍樹尊者の弟子のなかでは、提婆尊者ただ一人だけであった。


その他の者たちはみな、「仏性とは眼で見たり耳で聞いたり心で認識することではない」としか言えなかった。
仏性とは見ることも聞くことも認識することもできないものであると思い込み、龍樹尊者の姿そのものが仏性の現れであることがわからなかったがために、真実を言い得ることができなかったのである。


龍樹尊者は決して仏性について教えようとしなかったわけではない。
仏性が何であるかをいつもかも伝えようとしたのだが、眼も耳もふさいでしまい真実を見ようともせず真実を聞こうともしない者は、龍樹尊者が現す真実を受け取ることができなかったのだ。
頭で思い込むだけで、自分の体でもって真実を知ろうとしない者が、ついに真実を知ることができないのは、残念だがあたりまえのことと言えるだろう


姿や形に捉われることのない坐禅の姿は、満月のごとく欠くところのない真実の姿。
その姿を見て礼拝しているにもかかわらず、彼らには本当に見るべき仏性が見えていなかった
仏性とは、大空のようにどこまでも透き通るかのごとく明らかなものであるのに。


33節

しかあれば身現の説仏性なる、虚明なり、廓然なり。説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり。四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり。一切の功徳、この功徳なり。仏功徳はこの身現を究尽し、嚢括するなり。一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり。

現代語訳

自身の坐禅の姿でもって仏性を説くという手法は、じつに明らかで少しもあやふやなところがない。
仏性を説くその坐禅の姿は、まぎれもなく諸仏の姿そのものだったことだろう。
どのような仏であっても、仏の姿をあらわさない仏というのはいない。
仏の姿とはこの身にあらわれるものであり、だからこそこの身こそが仏性なのだ


人間の体は、地・水・火・風の四つの要素(四大)から成り立つものであり、物質的な肉体と、非物質である精神的なもの(五蘊)とでつくられている。
したがって存在するものは、さまざまな要素が仮に和合して存在しているのであり、そうした四大や五蘊が仏性であると説いた仏もいた。


それはそれで当然のことと言える。
四大の一大一大が仏性のあらわれであり、五蘊の一蘊一蘊も仏性のあらわれだからである。


もちろん、四大や五蘊だけが仏性なのではない。
この世界に存在するものすべて、どれ一つとってみても仏性でないものなどどこにもない
すべてが仏性であるこの真実の世界を、龍樹尊者は生きていた。
だから龍樹尊者が坐禅によって現した仏性とは、世界の一部を示したにすぎない。
ただ仏性が仏性を示したということだ。

34節

しかあるに、龍樹提婆師資よりのち、三国の諸方にある前代後代、ままに仏学する人物、いまだ龍樹提婆のごとく道取せず。いくばくの経師論師等か、仏祖の道を蹉過する。大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身に画し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり。すでに数百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、万事の蹉跎たることかくのごときなる。もし身現円月相は一輪相なりと会取せば、真箇の画餠一枚なり。弄他せん、笑也笑殺人なるべし。かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。円月にくらし、満月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。古仏新仏、さらに真箇の身現にあうて、画餠を賞翫することなかれ。

現代語訳

龍樹尊者と迦那提婆尊者の師弟関係は尊ぶべきものである。
インド、中国、そして日本において、これまでにも仏道を学ぶ者は大勢いたが、この二人のような優れた師弟はほかにいなかった。
経典から仏道を学ぼうとしたり、思考でもって仏法を説き明かそうとしたりして、仏の道を歩み損ねた者がいただけだ。


中国では昔から龍樹尊者はとても尊ばれており、迦那提婆尊者とのエピソード、つまりは坐禅によって仏性を示したというエピソードを絵に描いて後世に残そうとする動きがあった。
そこで描き手は法座の上に鏡のような円を描き、それでもって龍樹尊者が示した仏性の真理を表そうとした
龍樹尊者の身や心を描くのではなく、一円相でもって龍樹尊者の満月のごとく欠くことのない坐禅を表現しようとしたのである。


龍樹尊者が世に現れてからすでに数百年の月日が流れた。
その間、描かれた一円相は多くの人々の目に映るところとなったが、それは眼に塵が入ったようなものである
眼を損なわせるばかりであるこの画を、しかし誰一人として誤りであると指摘する者はいなかった。
哀しいことだ。
人々をつまずかせるだけの画でしかないのに。


龍樹尊者の坐禅の姿を一円相として描いたなら、これぞまさしく「画に描いた餅」にほかならない。
それがわからずに喜んで餅を描くのなら、それはもはや人を笑わせるためか、あるいは人を損なわせることにしかならないだろう。


こんなにも哀しい話があるだろうか。
あれほど広い中国に、あれほど大勢の人々がいながら、誰も龍樹尊者の示すところを理解せず、迦那提婆尊者の説くところを理解していないのだ。
身に仏性が現れるという意味を、まったくわかっていないのである。


どうやら人々の眼には、満月のように欠くことのない龍樹尊者の姿に雲がかかって見えているようで、月は欠けてしまっているようだ。
昔から説かれてきた仏法をよくよく参究してこなかったがための結果であり、古を慕う心もなかったのだろう。


古き仏たちよ、またこれからを生きる仏たちよ。
今後、仏性を身に現す真理と出会ったとき、くれぐれも画に描いた餅を味わうような愚かな行いはしないでほしい。

35節

しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髓正法眼蔵、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作仏作祖するがゆゑに。この画いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、声色なし、用弁なきなり。もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆゑに。円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現すべし。しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餠一枚を図す、用て什麼にか作ん。これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は円形なり、円は身現なり。円を学するに一枚錢のごとく学することなかれ、一枚餠に相似することなかれ。身相円月身なり、形如満月形なり。一枚錢、一枚餠は、円に学習すべし。

現代語訳

必ず知っておかねばならない。
龍樹尊者がその身に現した真実の姿を描こうと思うのなら、法座の上には、龍樹尊者の身に現れた真理それ自体が描かれていなくてはならない
眉があり、眼があり、端正に真っ直ぐ坐禅をする姿、すなわち龍樹尊者の姿が描かれていなくては誤りである


昔ブッダが霊鷲山で摩訶迦葉尊者に仏法を伝えたときも、坐禅をする姿のままに破顔微笑(はがんみしょう)と呼ばれる以心伝心が行われた。
仏祖の姿というのはいつでも坐禅の姿だった


坐禅をする姿が描かれない間は、法座の上には何の姿も描かれていないのと同じであり、その画は何も説かず、何を聞くことも何を見ることもない。
そのような画に用はない。


もし身に現れた仏性を描こうと思うのなら、仏性それ自体を描くべきである
それ自体を描くために、それ自体を描くのは、至極当然のことではないだろうか。
その身に現れたのは、現れたそれ自体なのだから。


仏性それ自体を描くのだから、仏性を少しも欠いてはならない
満月のように、欠くことのない姿を描かなくてはならない。


それにも関わらず、身に現れたものを描かず、真実を描かず、欠くことのない姿を描かず、仏の姿を描かず、説法を描かず、誤って1枚の餅を描こうとする
そのようなことをして何がどうなるというのだ。


今一度、はっきりとその画に描かれた餅を見よ。
その画に描かれている餅によって、腹が満たされることがあるだろうか。
少しでも飢えをしのぐ足しになるだろうか。
何ら人を助ける働きを有していないのは明らかだろう。


人々が一円相を描くという過ちを犯したのは、「円月相」や「満月相」といった言葉によるものかもしれない。
龍樹尊者が現した坐禅の姿は、円満で欠くところがなかったからそのような言葉で呼ばれることがあった。


たしかに月は丸い。
そのような丸い月の姿が現れたと聞けば、1枚の銭のような丸いものを想像してしまうのも無理はないかもしれない。
しかしながら円月相や満月相を、ただ丸いというだけで銭のような姿と理解するようなことがあってよいはずがない


よいか、くれぐれも仏性を画に描いた餅にしてはならない。
身に円月相が現れたとか、満月のごとき姿が現れたとか、どのような言葉で表現されようとも、龍樹尊者の姿は1枚の銭ではなく餅でもない。
龍樹尊者自身の姿が円月相であり満月相なのである
「円」とは何なのか、よくよく参究しておきなさい。