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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part③

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part③

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳3回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、初回を未読の方は下の記事からどうぞ。
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ここでは、中国における4祖大医道心禅師と5祖大満弘忍禅師の問答をとりあげ、仏性とは何であるかを示そうとしている。
特に、道元禅師が強く伝えようとしているのは「無仏性」という言葉。
仏性について学ぼうとするものに、仏性とは「無」であると道元禅師は言う。
「無」が指し示すものとは一体何なのか。


その答えを探るべく、さっそく続きへと入っていきたい。
道元禅師が言葉を尽くして説こうとしている「仏性」とは何なのかについて。


10節

五祖大満禅師は、蘄州黄梅の人なり。父無くして生る、童児にして道を得たり。乃ち栽松道者なり。初め蘄州の西山に在りて松を栽ゑしに、四祖の出遊に遇ふ。道者に告ぐ、吾れ汝に伝法せんと欲へば、汝已に年邁ぎたり。若し汝が再来を待たば、吾れ尚汝を遅つべし。師、諾す。遂に周氏家の女に往いて托生す。因みに濁港の中に抛つ。神物護持して七日損せず。因みに收りて養へり。七歳に至るまで童児たり、黄梅路上に四祖大醫禅師に逢ふ。祖、師を見るに、是れ小児なりと雖も、骨相奇秀、常の童に異なり。
祖見問曰、「汝何なる姓ぞ」
師答曰、「姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず」
祖曰、「是れ何なる姓ぞ」
師答曰、「是れ仏性」
祖曰、「汝に仏性無し」
師答曰、「仏性空なる故に、所以に無と言ふ」
祖、其の法器なるを識つて、侍者たらしめて、後に正法眼藏を付す。黄梅東山に居して、大きに玄風を振ふ。

現代語訳

お釈迦様の教えを受け継いだ仏法伝承の系譜における中国の5代目の祖、大満弘忍(だいまん・こうにん)禅師は、蘄州の黄梅県(現在の湖北省)の出身であった。
父親はいなかったと伝わっている。
幼い頃から聡明で、仏道の要諦を理解していたという。


その大満禅師には次のような不思議な話が残されている。


大満禅師の前世は松の植木職人で、蘄州の西山で松を植えて暮らしていたそうだ。
そしてある日その植木職人は、中国における4代目の祖、つまり後に自分の師匠となる大医道信(だいいどうしん)禅師と偶然に出会った。


大医道信禅師は植木職人にこう言った。

「私はあなたに仏法を伝えたいと思うのだが、あなたはすでに年を取り過ぎている。
もしあなたが生まれ変わってもう一度私の前に現れるというのなら、私はあなたと再び出会う日を待っていようと思う


植木職人は大医禅師の意を了解した。
そして遂には周氏の家の娘の腹に宿り、再びこの世界に生を受けた。


しかし娘は、生まれてきたばかりの赤子を入江に棄ててしまった。
赤子は当然生きていけないはずなのだが、神の類いが加護したのか、七日を経ても無事だった。
それを知った娘は驚いて赤子を取り戻して育てた。


そうして成長して7歳になった頃、幼い大満禅師は黄梅県の路上で大医禅師と再び出会った。
大医禅師はその子供を見て、まだ幼いながら非常に優れた素質を持つ子であることを見抜いた。
並の子供ではないと。


そこで大医禅師はその子に話しかけた。
「君、姓は何という?


子供は答えた。
「姓は有です。けれど、これは世間でいうところの普通の姓ではありません」


「普通の姓ではないというと、それは一体何という姓なのだろうか?」
仏性という姓です」
「仏性などというものは無いぞ」
「あらゆる存在は『空』ですから、仏性を『無』と言うこともできるでしょう」


大医禅師は子供である大満禅師の受け答えを聞いて、思った通り仏法を伝えるにふさわしい素質を持った人物であることを知った。
そしてお付きの僧をその子の家に向かわせ、両親に出家をさせるよう促した。
両親は、突然の話ではあったが、尊い仏縁によるものであるのならと思い、ことさらに難色を示すことなく子供を出家させた。


こうして大満禅師は大医禅師の弟子となり、後に大医禅師の法を受け嗣いで中国における禅宗の5祖となった。
その後、大満禅師は黄梅県の東山で暮らすようになり、大いに禅の教えを広めて多くの弟子を育てあげた。


以上が、今に伝わる大満禅師の話である。

11節

しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、四祖いはく、汝何性は、その宗旨あり。むかしは何国人の人あり、何姓の姓あり。なんぢは何姓と為説するなり。たとへば吾亦如是、汝亦如是と道取するがごとし。

現代語訳

それでは4祖大医禅師と5祖大満禅師との逸話から、それぞれの言葉を考察してみたい。
まず大医禅師はこう言った。
君の姓は何か?
と。


この問いには重要な意味がある。
禅では昔から、相対する人物の根幹を問う質問として、「あなたは誰か?」という意味の問いを投げ掛けてきた。
「あなたはどこの国の人か?」「あなたの姓は何か?」という質問も、真に問うているのは畢竟「あなたは誰か」に尽きる。


姓は何かと問われて、世間でいうところの姓を答えても、それは「自分」に付けられた姓であって「自分」自身ではない。
同様に国の名を答えたとしても、それは「自分」の出身国であって「自分」そのものではない。


ここで問題となっているのは、姓が付く以前の「自分」そのもの
姓の主体であり、また出身の主体となっている「自分」そのものとは一体何者なのか。
姓や出身は「自分」に付属するものであって、それら付属するすべてのものを取り去った素の「自分」とは何なのか。
大医禅師が問うているのは、まさに「この自分という存在とは何なのか」であると言えるだろう。


12節

五祖いはく、姓即有、不是常姓。
いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。
四祖いはく、是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也、何也なり。これを蒿湯にも點ず、茶湯にも點ず、家常の茶飯ともするなり。

現代語訳

それで、大医禅師に「君の姓は何か?」と問われた大満禅師はこう答えた。
「姓即有、不是常姓」
姓を問われたので「有」という姓を答えたが、それは世間でいうところの名前とは別物であると。


「有」とは、姓が「ある」という意味ではない。
「有」という名前なのでもない。


「有」とは、今ここに「自分」が存在しているという真実の絶対性のこと
しかし真実であるところの「自分」を言葉で説明しようとすれば、一言でも発した途端に「自分」を外すことになってしまうため、自分を説明するためには「是の如し」などと言うよりほかに言いようはない。


大満禅師も「常の姓ではない」と言い、単なる「名付け」に過ぎない世間の名前によって、私の絶対性を示すことは不可能だと言っている。
名前は「自分」に付けられた名前であって、自分そのものでは決してない。


このような大満禅師の受け答えに対し、大医禅師はさらに問いを重ねた。
「是れ何なる姓ぞ」


「有」というが、それは畢竟、何なのだ。あなたは誰なのだ。
姓を問うことで存在を問うた。
しかしその真実は、今ここにいるまぎれもない「自分」という存在によってすでに答えられている。
あなたを問い、あなたが答えなのである
これこそが仏性の本質なのだ。


存在の絶対の真理とは、どこにも隠されてはいない
むしろ目の前に存在するあらゆる事実によって、真理は常にあらわれてる。
真理を見、事実を見るところに、仏性もまた見ると言えるだろう。


このようにして、真理を眼前にとらえて生きるところに仏道の日常がある。
ヨモギを煮出したり、茶を点てたり、そういった何気ない毎日の暮らしのすべてに仏性を見出すということである。

13節

五祖いはく、是仏性。
いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき仏性なり。しかあればすなはち是は何なり、仏なりといへども、 落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏に相似ならず、傍観に齊肩ならんや。

現代語訳

5祖大満禅師は、「是れ何なる姓ぞ」という問いに対して「是れ仏性」と答えた。
存在とは仏性そのものであると。
真理とは仏性そのものであると。


あるがままの事実は、なにもそこにある存在を問うことだけにとどまるものではない。
見えるものだけが仏性なのではなく、見えなくとも、それもまた仏性なのである。
真理は隠れているわけではないが、それでは見えるものだけが真理かと言えば、そうではない。
結局、捉われるなということだ。見えるものにも、見えざるものにも


仏性だの、真理だのを求め考えることを忘れ去ったとき、目の前にある存在は、それでもやはり仏性としか言いようがない。
この世界、ことごとく全て、仏性でないものはない


姓を問われて、大満禅師は「仏性」と答えた。
私の姓は仏性であると。
その姓は存在そのものを示す姓であって、父から受け継いだ姓ではなく、先祖の姓でもなく、母方の姓でもない。
つまりが、「自分」を示す答えとして仏性と答えたわけである。


存在の真理を摑むのに、第三者のように自分を見ていては不可能である。
「自分」とは、自分とは何だろうかと考えているこの「自分」にほかならないのだから、これはまさしく「自分」こそが当事者なのだ。
くれぐれも、「自分」を他人事のように考えてはいけない


14節

四祖いはく、汝無仏性。
いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。七通を逼塞することなかれ、八達を摸索することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習することもあり。仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。

現代語訳

自らの姓を「仏性」と答えた大満禅師であったが、興味深いことに、大医禅師は次のように問い返した。
仏性などというものはない

この言葉についても考察してみよう。


まず、「あなた」が誰であるか、つまりは「自分」を問う命題はひとまず「あなた」に任せておこう。
大医禅師はここでは「無仏性」の教えを示した。
言葉の表面で「仏性はない」と言うと同時に、無もまた仏性であることを伝えようとする言葉である。


さて、我々はこの無仏性という言葉に真正面から取り組み、この言葉に学ばなくてはならない。
一体いつどのような時に無仏性ということが起こるのだろうか
悟りを開いて仏となったとき、無仏性となるのか。
修行の上に修行を重ねて、無仏性となるのか。


仏性のはたらきは自由自在であって、それを塞ぐような考えを持つべきではない。
裏に何があるのかなどと手探りするべきでもない。


無仏性は、今この瞬間の坐禅に学ぶものだという教えもある。
それならば仏性が仏となるとき、無仏性となるのか。
それとも仏性が仏の心を起こすとき、無仏性となるのか。


仏性に問いかけ、そして、仏性を摑みなさい。
本堂の柱にも仏性を問いかけなさい。
本堂の柱に仏性とは何かと問いかけられてみなさい。
あるいは、仏性そのものに仏性について問いかけられてみなさい

15節

しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に挙揚す。無仏性の道、かならず精進すべし、 することなかれ。無仏性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり。

現代語訳

このようにして、無仏性の教えは4祖大医禅師のもとから広がっていった。
5祖大満禅師が学び、趙州禅師のもとへも伝わり、潙山禅師も無仏性の教えを説いた。
だから我々もまた無仏性を明らかにしなければならない。
自分には分かりえないものだと、参究する心を失ってはならない


誰もがこの無仏性というものに対峙したとき、戸惑い悩むものなのだ
そんなときは、眼前に広がる仏性の世界を見なさい。
「自分」が何者であるかを問いなさい。
師が指し示す真実に学びなさい。
常に仏性とともにあり、仏性であることを思いだしなさい。

16節

五祖いはく、仏性空故、所以言無。
あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片片は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強為して空とするにあらず、空をわかちて色を作家せるにあらず。空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。

現代語訳

5祖大満禅師は言った。
「あらゆる存在は『空』ですから、仏性を『無』と言うこともできるでしょう」


この言葉は真実を見事に言い得ている。
まず、空は無ではない。
仏性が空であることを言葉で表現するのに、半斤だとか八両だとかいった具体的な説明は不要である。
これはもう「無」と表現してしまうよりほかに方法はない


空だから空だと言うのではなく、無だから無だというのでもなく、仏性が空であるから無であると言う。
そうであるから、無は空を表現する目印のようなものであり、空は無を表現するだけの力を持っている。


ここで言っている空は、『般若心経』などで述べられている「色即是空」と同じではない。
「色即是空」のように、あらゆる存在が空であることを示したいわけではなく、空であるからあらゆる存在が形成されることを示したいのでもない。


ここで言っている空は、「空是空」の空である。
「空是空」の空とは、空は空以外の何物でもなく、空は空であるという事実を真っ直ぐに指し示した言葉である。


このようにして4祖大医禅師と5祖大満禅師は、「仏性は無である」「仏性は空である」「仏性は有である」といった表現を用い、言葉を交わして、仏性が何であるかを互いに示そうとしたのだった。


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