法話(説法)って何? 仏教の話の専門家「布教師」にインタビュー
僧侶のなかには、話をすることで仏法を伝えようと、布教・伝道に特に尽力される方がいる。
そのような「仏教の教えを説く話」を法話とか、説法とか、あるいは説教などと呼ぶ。
また、そういった話をされる方々は、布教師や説教師と呼ばれてもいる。
寺院の檀家さんであれば、こうした法話というものを耳にする機会も多少なりあるだろうが、おそらくは法話というものを聴いたことがないという方も大勢いらっしゃることと思われる。
そこで今回は仏法を伝える話「法話」がどういうものなのか、仏教の話の専門家である布教師にインタビューをお願いしてみた。
インタビューに答えていただいたのは、岐阜県智照院住職の宮崎誠道(みやざき・じょうどう)師。
話によって仏法を伝えることに尽力し、日々研鑽と努力を重ねている布教師である。
そもそも、法話って何?
誠道さん、今日は法話についていろいろと質問させていただいたいと思います。
よろしくお願いいたします。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
法話というものを聴いたことのない方も大勢いらっしゃることと思いますので、まずは、そもそも法話って何なのかということをお訊きしたいのですが。
誠道さんは法話というものをどのようなものと考えていますか?
ご本尊さまであるお釈迦様、道元禅師様、瑩山禅師様の教えを、わかりやすく、興味深く、時にドラマチックに説いていく。
一言でいえば、このあたりではないかと思います。
わかりやすく、というところに力が入っていましたね(笑)
そう。
聴く人の立場に寄り添って、難しい言葉を噛み砕いて、仏教用語・専門用語を使わずに、どれだけわかりやすく、その法の本質を伝えていくか。
伝える、という点に尽きると思います。
なるほど。
お坊さんの話というと小難しいようなイメージが定着してしまっていますが、そうではないということでしょうか。
ええ。
だから法話にはいろいろな手法や切り口があっていいんだと思います。堅苦しい話をする必要はありません。
たとえば、法話の最中に、自分が話をしたい法に関連する御詠歌(梅花流詠讃歌)を聞法者(聴衆)と一緒に唱えて、理解を染み入るように伝えるとか。様々な方法を考えることができます。
このことについてはまだまだ実践できていないことが多いですが、今後ぜひ取り入れていきたい活動の一つです。
仏法を伝えようと志した理由
誠道さんはどうして布教師という道を目指そうと思われたのですか?
法話に力を入れはじめたきっかけがあったのでしょうか?
はじめは法話に特化していたわけではありません。
御詠歌をやってみたり、写経をやってみたり、参禅会をやってみたり、ヨガをやってみたり、いろんな方法で仏法を伝える方法を模索していました。
何が自分に向いているのか、自分は何が好きなのかもわからなかったので。
そんななかで法話の勉強もしていましたが、ある時、法話の研修会で講師老師の話を聴いて、ものすごく腑に落ちる法話を聴いたことがありました。
ストンっと。
その話を聴いてから、
「ああ、あんなふうに伝えることができたらいいなぁ」
という憧れのようなものを抱くようになりましてね。
それが最初のきっかけです。
そのときの話、聴いてみたい……。
それまで、僧侶としての勤めを、ただ漫然とこなしているような時期があったんです。
意味もわからずにただ淡々と、というか。
けれどもその話を聴いてから、仏法を伝えることが僧侶として必ず勤めていかなければいけないことなんだと思うようになって。
僧侶としての根幹を見つけたということでしょうか。
「私たち僧侶が勤めなきゃいけないことって、これなんだ!」
と素直に感じることができたという感じでした。
やはり僧侶はどこまでいっても、仏法を伝えることが一番の勤め。
これを差し置いて、ほかにはないと、今では思っています。
仏法を伝える。大切な勤めですよね。
そうでしょ?
だって、そうやって2500有余年も伝わってきたんだから。
確かに。伝えられてきたのは仏法ですもんね。
もちろん実際には、お寺の事務的な仕事も含めて、やらなければいけない日々の仕事は沢山あります。先祖供養も大切です。
けれどもいろいろあっても、仏法を伝えることを忘れてしまってはいけないと思うんです。
なるほど。
そのようなきっかけで、法話の道に進まれようと思ったのでしたか。
いえ、その時はまだ「仏法を伝える」ということをしなければいけないとわかっただけで、その方法として法話を選択するまでには至りませんでした。
あ、そうなんですか?
伝える方法にしてもいろいろありますからね。
文章を書いて伝えるとか?
そう。
ほかにも御詠歌のように親しみやすい曲にのせて法を伝えるでもいいし、その人の生き方や実践のようなもので伝えるのでももちろんいいと思います。
そのようないくつもの手法のなかに法話という1つの伝え方があるのだと思います。
なぜ、法話の道に?
それでは、仏法を伝えることが大切だと思うようになったきっかけとは別に、伝える方法として法話を選択したきっかけというものがあったのですか?
ええ。
あれは、ある研修会で僧侶方の前で法話実演をしなければならない日のことでした。
当時はまだ法話についてほとんど勉強もしたことなかったんだけど、自分なりに頑張って何とか法話のようなものを話しました。
内心ではやりたくなかったんだけど、役に当たってしまったものだから仕方なく(笑)
どうでしたか?
散々。
講師陣から厳しい指摘をバンバンいただきました。
それはそれは。大変でしたね。
それで、法話実演が終わったあと、まったく面識のない御寺院さんから声をかけられて。
アドバイスでも?
「さっきの話、あんまりよくわからなかった」
って言われた(笑)
でも、
「あなた、一度話すことをきちんと原稿に書いてみて、論旨を明確にして、人権感覚とか、いろいろな角度から自分の法話を第三者的に確認して、もうちょっと真剣に勉強してみたら? きっと格段に法話が良くなるよ」
って言ってもらえて。
それで最後に
「続けたほうがいい」
とはっきりと言われたんです。法話を。
向いているから、きちんと勉強をしてみたほうがいいって。
私のような若僧に対してわざわざ声をかけていただいて、将来を示唆するような言葉をかけてもらえて……。
ありがたかった。
なんという、いい話……。
菩薩のような僧侶ですね。
それで、単純な私はその言葉にのせられて、しっかりと法話の勉強をはじめるようになったというわけです(笑)
それが、仏法を伝える方法として法話を選択したきっかけかな。
もとから話が好きだった?
誠道さんって、端的に、話が上手ですよね。
詰まることもないですし、すらすらと冷静に的確に話をされますし。
昔から話をすることが得意だったんですか?
いえ、まったく。
まったくダメ?
まったくもってダメ。
昔、總持寺に檀信徒の方々と一緒に研修に行ったとき、ある先輩僧侶の方から「富士山が見えるまで話をして」と言われたことがあって。
岐阜から富士山まで?
3~4時間でしょうか。そりゃまた随分と長いですね(笑)
長すぎるよ! 何時間話すんだよって思った。
それでとにかく話をはじめたんだけど、恥ずかしながら、自分の名前とお寺と、あとは高校生のときにやっていたスポーツの話をちょこっとしただけで、富士山どころか各務原インターまでしか話せなかった。
だから数分かな、話をした時間(笑)
短っ!
岐阜を出てもいないじゃないですか。
あれは今でもしっかり覚えている。本当に恥ずかしかった。
それくらい話下手であがり症だったし、話をするのも全然好きじゃなかった。
意外ですね。
咄嗟の場面でもすらすらと話をされる今の姿からは想像もつかない。
訓練とか練習という要素が大きいということだと思います。話の上達というのは。
練習も含めた準備段階によって、もうある程度、法話の良し悪しは左右されていると言えるかもしれません。
才能よりも努力ということでしょうか?
ええ、間違いなく。
必ず伝えたいという気持ちとたゆまぬ努力が物を言います。
法話を続けてきてよかったこと
法話実演の後で1人の僧侶から声をかけていただき、本気で法話の勉強をはじめられたということでしたが、そうして人前で話をするようになってから、法話を志してよかったと思うような出来事というのはありましたか?
まだまだたまにしかありませんけど、私が伝えたいと思って話した内容に共感してもらえた瞬間でしょうか。
「そうだねえっ」っていうふうに頷いてもらえたときとか。
話をしていると、たまにですけど、話を聴いていらっしゃる方々と一体感を感じる瞬間があるんです。
「伝わった」という感覚を抱く時に、法話を続けてきてよかったと思うということでしょうか。
そうですね。一体感を感じることができたときは、続けてきてよかったと思うくらいうれしいです。
一体感ですか。理想的な雰囲気ですね。
それともう1つ。
人前で仏法の話をするということは、話をする自分自身の在り方を振り返っている必要があるので、常に自分をチェックできるということ。
……それって「良かったこと」に入るんですか?
え、まあ、「良かったこと」に入れてもよくない?
常に振り返っているということは、常に反省し続けなければいけないような……。
でも実際そうじゃない?
話をしている自分自身がどうなのか。ちゃんとできているのか。今のままでいいのか。この生き方でいいのか。この伝え方でいいのか。
そういったことを常に振り返って意識していないと、仏の教えを説くことなんてできなくない?
だから、法話を続けていると、あまねく人にお伝えしたいと願う自分自身は本当に今の自分でいいのかということを、常に振り返りながらチェックをすることができる。否応なく。
それは、法話を続けきた上でよかったと思っていることの1つです。
……厳しいですなぁ。
しかしまあ、たしかに話をする自分自身がきちんとしていなければ、ただの綺麗事になってしまいますもんね。
法話の難しさ
ちょっと誠道さんの弱点というか苦手なところもお訊きしたいですね。
法話をする上で難しさを感じていることなどはありますか?
これはもう、独りよがりになっていないか。これはいつも思う。
自分の話に自分だけが満足して、実際はぜんぜん話が届いていない。
これは本当におそろしいことだけど、けっこう起こりうることです。注意していないと。
楽しい話でも、感動した話でも、自分はそう思っているだけで相手はそうは受け取らないということも普通にありえます。
それ、なんかちょっとわかりますね。
聴く人にとっては自慢話に聞える話とか、ありますね。
どれだけ一生懸命に話をしても、その一生懸命さと、真意が伝わったかどうかというのは別の話。
本当に聞く側に寄り添って話しているか。
自分が話したいことを一方的に伝えていないか。
ここを意識しないと本当に危ないことになります。
言葉の受け取り方は人によって様々ですから、難しいですね。
「八万四千の教え」という言葉があるくらい、いろいろな導き方があるでしょうし、またいろいろな受け取り方があるのだと思います。
あとは「いい話だったな」と思ってもらえたとしても、思っただけで終わってしまったら、それは本当の意味ではあんまり伝わっていないということだとも思います。
思うだけじゃなくて、「よし、今日からこうしてみよう」と、実際に行動するというところまでいってはじめて、本当の意味で伝わったと言えるんだと。
人の生き方に影響を与えて、はじめて伝わったことになるということですか。
これは相当難しい話のように思いますが。
もちろん難しいことです。
けど、そこを目指して話をするのではないと、いけないのかなと。
「いい話」で終わってしまったら、法話としては不完全だと思うようにしています。
どんな練習をしているのか
法話に限ったことではないのですが、話をする上でどんな練習というか、普段から気を付けていることというのは何かありますか。人前で話すことに苦手意識を持っていらっしゃる方に対するアドバイスなど。
メモをとること。
誠道さんってメモ魔だったんですか。
話材を集めるのは話をする上でけっこう重要ですよ。
だから常にメモをとる。どんな些細なことも書き留める。書くことができなければ妻にLINEで送る。
LINEをメモとして使うんですか。奥様もビックリですね。いきなり意味不明な覚え書きが届くと。
もう慣れてると思う(笑)
でもまあ、そこまでやって、仮に100の話材がたまったとしても、実際に使えるのは多くても2~3こぐらいですけどね。
少ないですね。残りの98こを分けていただきたい。
少ないんですけど、でもこの話材がなければ適切な例話を話すこともできないんです。
例話は理解の助けになるので重要なんですけど、説きたい話にぴったりの例話ってなかなかありませんから。
なるほど。
他にも何かありますか?
原稿に起こすのは必須です。それも話し言葉で原稿に起こす。
それは原稿を覚えるためではなくて、話の論理が合っているか、本当に仏法が説けているのか、人権感覚はどうなのか、といったことを確認するためです。
それからセンテンスはなるべく短いほうがいいですね。
長い文章は耳で聞いているとよくわからなくなることがあります。
文字にしてみないと、整合性がとれているのかわかりにくいですもんね。
ええ。
それで、原稿が整ったら、一度実際に話してみて、それを録音します。
その録音した話を聞くと、細かな部分で辻褄が合わない所や違和感のようなものが見えてきます。
録音したものを聞いてチェックするんですか……。
恥ずかしくなって布団に潜り込んでしまいたくなりそう。
録音のチェックが済んだら、次に話をする自分の姿勢を録画します。
うそ……。動画で撮るんですか?
これが大事なんですよ。
話をする自分の姿って見たことありますか?
自分の仕草、癖、表情などは、録画をして自分の目で見てみないことには絶対にわかりません。
楽しい話なのに顔が怒っているとか、悲しい話なのに顔が笑っているとか、そういうことも聴く側にとっては大いに違和感を抱かれます。
それに、たとえば坐禅を説いているのに自分の姿勢が悪かったら、話にならないでしょ(笑)
これはもう、恥ずかしさを通り越して熱が出そう。
それで、ここまできたら次に身近な人に話を聞いてもらいます。
家族とか。
……家族の前で真面目な顔で話をすると、照れませんか?
まあ確かに少しは恥ずかしいですし、妻に聞いてもらうと議論が勃発することもあります(笑)
でも指摘されたことを素直に受け止めないと、そういう謙虚さがないと成長はないです。
家族に話を聞いてもらうことが難しいようであれば、布教を志す仲間に聞いてもらうとか。
とにかく本音でアドバイスしてくれる人に聞いてもらうことです。
……わかりました。
話が上手という裏には、見た目にまで気を配る細かな配慮があったんですね。
見た目はやっぱり疎かにはできません。
話す姿によって、清潔感、信頼感、親近感が生まれます。
せっかくいい法話を準備しても、着物の襟が歪んでいたり、姿勢が曲がっていると、そこが気になって話しに頷けなくなるものです。
メラビアンの法則というものがあって、人間は話をする他人の第一印象をだいたい6秒くらいで判断するそうです。
しかも判断する情報は、視覚情報が55%、聴覚情報が38%、あとは内容が7%なのだそう。
そんな法則が言われるくらいですから、見た目を軽視することはできません。
内容少なっ!
まあしかし、確かにそうかもしれませんね。
話の内容以前に、話し方が気に入らないとか、語尾が気になるとか、仕草が気になるとか、そういったことで話の内容が頭に入ってこないということは起こりうるように思います。
これは誰にでも言えることですね。私も気をつけないと。
法話を聴いたことのない方へ
では最後に、法話というものを聴いたことのない方へ、一言何かメッセージをお願いできますか?
そうですね。
法話というものはお釈迦様の考えを伝えるということですから、その法話を聴くということは、今は亡きお釈迦様と出会うことのできる場と言えるかもしれません。
お釈迦様の身は滅しても、その教えは悠久の時をこえ、連綿と受け継がれて現在にまで受け嗣がれています。法話という形で。
誰でも、いつども、どこにいても、お釈迦様の話を聴こうと思えば聴きに行くことができるわけですので、ぜひ法話との出会いをお勧めいたします。
ぜひ、人生を変えるような法話に出会っていただきたいと思います。
誠道さん、今日はどうもありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。