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戒名に「変な漢字」が使われている本当の意味

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戒名に「変な漢字」が使われている本当の意味

墓石に刻まれた故人の名前、戒名
その戒名を見て、
あれ? なんでこんな漢字が使われているんだろう?
と不思議に思ったことはないだろうか。


そもそも戒名は亡くなられた方に授けられる名前ではなく、僧侶となった者に授けられる名前
つまり戒名を授けられた故人は、立場上は僧侶となっているということ。
葬儀のなかで故人は僧侶になるのである。
葬儀については下の記事をどうぞ。
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戒名は必ず師匠から授けられる。
だから自分で戒名を考えることは、通常ではありえない。
自分で自分に戒名をつけるという話をたまに聞くが、それは死者の名前にはなっても、戒名にはなりえない。


亡くなられた方の師匠にあたるのは、ほとんどの場合において戒名を授けた僧侶。
つまり一般的には、菩提寺の住職が亡き人の師匠となる。


師匠から授けられる名前であるから、故人の戒名にどのような文字が使われているかは実際に授けられるまでわからない。
俗名(生前の名前)の一文字を戒名に入れるといったことはよく行われるが、やはり全体の名前はその時までわからないのである。


それだけに、いざ故人に授けられた戒名を見て、
なぜこの漢字を入れたのだろう?
と、遺族が疑問に思うケースというのは、じつはそれほど珍しくない。
一見すると名前に用いるには不適切なように思える漢字でも、仏教的には至極ふさわしい漢字というものがいくつもあるのである。


そこで今回は、「一般的には疑問に思われるけど、戒名によく用いられる漢字」をいくつか紹介し、遺族の方々の「もやもや」の解消を目指したい。
もちろん、戒名を考えた菩提寺の僧侶に名前の意味を訊ねるのが一番的確ではあるが、仏教においてどのような意味を持った漢字であるかは概ね共通しているため、名前を考えた僧侶でなくても一般的な解釈に当てはめて理解することは難しくないのだ。


それでは戒名に比較的用いられやすく、かつ一般的には疑問に思える具体的な漢字を挙げて、その意味を確認していこう!


諦(たい)

」の字を見た人がイメージする言葉は、ほぼ「諦める」ではないだろうか。
おそらくほとんどの方が、挑戦を諦めるとか、何かを断念する、リタイヤする、というイメージを想起することと思う。
こうした「諦める」イメージに良い印象を抱く人はまずおらず、したがって名前に用いるには不適切であると思われやすい。


しかしそんな印象とは裏腹に、「諦」の字は戒名でよく用いられる。
もちろん「断念」という意味で用いられているのではなく、きちんとした仏教的な意味があってのこと。


じつは「諦める」という言葉は、仏教において「明らかにする」ことを意味している。
つまり「明らめる」という意味なのだが、発音が同じで文字が異なる「諦める」のほうの漢字を用いているのだ。


そんな紛らわしい話なら「明」の字にすればいいじゃないかと思われるかもしれないが、もちろん「明」の字も戒名でよく用いられる漢字の1つ。
しかしながら、仏教では昔から「明らかにする」ことを「諦」の字を用いて表記した仏教用語がいくつもあり、「諦」は仏教的に非常に馴染みの深い言葉であるため、やはり僧侶としては「明」ではなく「諦」の字を授けたいという思いが強いのだ。


くれぐれも、何かを断念するという意味の漢字ではなく、「真理を明らかにした」という優れた人物を指す意味の漢字として受け取っていただきたい。

妙(みょう)

年配の女性の方には「たえ」という名前は珍しくなく、その場合には戒名にも「妙」の字が使われることが多い。
そうした方々にとっては自明のことだろうが、「妙」とは「たえなる」の意であり、「きわめて素晴らしい」ことを意味している。


しかしながら若者の解釈はそうではない。
キラキラネームが普及した現代において「たえ」という名前をあまり聞いたことがないためか、「妙」という漢字を見てイメージするのは「奇妙」が大半。
つまり「変わっている」ことを意味する言葉として「妙」の字を解釈してしまうため、名前に用いるには不適切ではないかという印象を抱くというわけだ。


妙なる音楽。妙なる景色。
少し古風で雅な言葉である「妙」という言葉を、どうか「奇妙」な言葉として受け取らず、「言葉にできないほど優れた」様子をあらわす文字として受け取っていただきたい。
「妙」は、発音は「みょう」だが、意味は「たえなる」だ。

寂(じゃく)

寂しい。淋しい。さみしい。
どう読んでも「寂しい」以外に解釈できない文字をつけないでほしいと思われるかもしれないが、「寂」という文字に対する仏教的な解釈は、やはりちょっと違う。


仏教では「寂」という漢字を「じゃく」と読む場合がほとんんど。
「寂滅(じゃくめつ)」とか「示寂(じじゃく)」というように。
寂滅も示寂も人が亡くなることを意味する仏教用語であり、それならやっぱりあんまり良いイメージの文字ではないじゃないかと思われるかもしれないが、事はそう単純なのでもない。


寂滅の本義は「亡くなる」ことではなく、「煩悩が消え去った状態」を指す。
しかしながら、生きているあいだに煩悩を消し去ることは容易なことではない。
生きるとは食欲や睡眠欲を満たし続けることと同義であり、したがって生きている限り人には必ず欲や煩悩がつきまとう。


では、煩悩が完全に消え去るのはいつかと言えば、これはもう亡くなった時をおいて他にない。
そのため、「寂滅」→「煩悩が消えた状態」→「死亡」という関係が成り立ち、やがて中間を飛ばして寂滅が死亡を意味するようになっていった。


本来、もっとも重要であるはずの中間部分「煩悩が消えた状態」の存在を知る人は今やほとんどおらず、「寂」と言えば単に「さみしい」を意味するか、もしくは「亡くなる」ことのどちらかと思われがちだが、そうではないのだ。
戒名に「寂」を用いるとき、それは故人が「煩悩を離れた少欲知足の人」であることを示している真実をどうか知っていただきたい。


黙(もく)

雄弁は銀、沈黙は金」という格言を残したイギリスの思想家カーライルの功績によってか、「黙」の字が100%マイナスイメージとして受け取られているわけではない。
雄弁であることもいいが、黙すべき時をわきまえていることはもっと重要なこと。
それはある程度共通した認識として社会にあるように思える。


しかしながら、そんなプラスイメージばかりが想起されるわけではなく、やはり「黙」の字にマイナスの印象を持つ方は少なくない
「黙っていろ」というほどの解釈でなくても、寡黙であることがすでにマイナスイメージとして感じられる人にとって、「黙」の字は名前に用いるには疑問となる漢字の1つと言えるだろう。


沈黙をどう受け取るかという話になるかもしれないが、禅においてはそもそも、言葉でもって真理そのものを言い表すことはできないと考える。
そのために、沈黙でもって真理を示す回答とすることがある。
何か質問をされても、一言もしゃべらず沈黙で返すというわけだ。
つまり「黙」とは、言葉でもって言い表すことのできないところを説いた、奥の手ということである。


禅の流れを受け継ぐ曹洞宗は「黙照禅(もくしょうぜん)」と呼ばれることがあり、静かに坐禅することを非常に大切にしている。
言語を超えた修行を行う際に言葉は不要であり、そこでは「黙」こそが尊ばれる。
曹洞宗の修行と沈黙は切っても切り離せないようなところがあり、したがって戒名に「黙」の字を用いる場合も多い。
もちろん、「言語を超えた境地」としての「黙」である。
こうした修行観を理解してもらえればありがたいのだが、はたして、どうだろうか……。

戒(かい)

「戒める(いましめる)」と読めてしまうだけに、あまり良いイメージを持たれることのない「戒」の文字。
戒名という言葉にも「戒」の字は用いられているが、一言で「戒」という言葉を説明するならば、これは「自分で自分を律する」ことを意味している。


戒とは本来、僧侶が守るべき徳目のこと。
殺生をしない。嘘をつかない。盗みをしない。といったことを守るのが戒であり、こうした戒を授かることで故人は僧侶となる。
そしてその証しとして授けられるのが戒名にほかならない。


したがって戒名に「戒」の文字を入れるということは、自分で自分を律することのできる自制心を持った人であり、正しく行動できる人であることを意味していると考えることができる。
しかしながら、説明もなしにこのように理解してもらうことは、やはりちょっと難しい。


戒に則して生きることは人として正しく生きることを意味しており、戒名に「戒」の文字があれば、その故人は正しく人生を生きたということ。
そのように受け取っていただければ幸いである。

無(む)

「お金は無いよりも有ったほうがいい」と言う人は多いが、お金でなくても「無い」よりかは「有る」ほうがプラスのイメージを持たれるようだ。
「無」は「無駄」とか「無理」といった言葉の印象も関係しているようで、どちらかといえば否定的な言葉に感じられるらしい。


もちろんその感覚はわかるのだが、禅における「無」の文字の位置付けはまったく違う。
たとえば、「無学」といった言葉が禅にはあるが、これは「学がない」という意味ではなく、「これ以上学ぶものがない」という意味。
つまり「すべてを学んだ」ことを意味している。


同じように、「無上」といえば「この上ない」の意で、最上級を意味しているように、「無」とはいわば「無敵」な存在としてあるのだ。


ただしこれは少し俗っぽい解釈で、禅の立場から言えば、有無や高低や増減といった相対的な考え方を超越した、比較の存在しない「絶対の無」として「無」を用いていると考えたほうが適切といえるかもしれない。
単純に「無い」ことを意味しているのではなく、「有る」とか「無い」とかを意に介さない境地を指して「無」と表現しているということである。


強引な解釈に聞えるかもしれないが、こうしたことは禅においてよく説かれることであって、特殊な解釈ではまったくない。
だから故人の戒名に「無」の文字があった際には、相対的な世界から抜け出した絶対の境地に立つ人であったのだと、故人の遺徳をぜひ偲んでいただきたい。


※この他に疑問に感じられる漢字がありましたら、コメントなどいただければ記事に追加させていただきます。