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色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう

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色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう

般若心経のなかに「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉がでてくる。
掛軸や色紙などに揮毫される言葉として用いられたり、禅語として紹介されたりすることもあって、比較的世によく知られた言葉となっている。
意味は知らずとも、色即是空という言葉を耳にしたことがあるという方は少なくないことと思う。
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ただ、そこで説かれている事柄や「空(くう)」といった概念は難解であるという先入観が強いようで、色即是空という言葉の意味まで知っているという方は少ない。
「(色即是空という)言葉は聞いたことあるけど、それだけ」
そんなふうに、意味の理解まで踏み込むことはしないというのが大方の現実ではないだろうか。
しかし、それではいかにももったいない。


理解には智解と体解がある

色即是空も、般若心経の内容も、理知的に頭で理解するということはまったく難しいことではない
強固なのは内容の理解ではなくて、「難解なんだろうな」と理解を遠ざけてしまう先入観の壁のほう。
この壁はぜひとも粉々に砕きたい。


ただまあ、簡単に理解できると言ってしまうのもやや問題で、たしかに般若心経には少々特別な難しさがある。
先に「頭で理解することは難しくない」と書いたが、般若心経の難しさとは内容を理解することにあるのではなくて、そこで説かれている「空」という真理を実生活のなかで感じながら生きるという実践にこそある。
智解(頭での理解)は易いが、体解(体験を通して腑に落ちる)は難い、とでもいえばいいだろうか。


頭で理解するだけなら何も難しいことはない。が、それではそもそも空を理解したとはいえない。
とはいえ、まずは理知的に頭で理解しなければ、空の世界を感じながら生きるということは一層難しい
体解を重視するあまり智解を軽視してしまうというのは、それはそれでまた非常に危ういことだと思う。
禅の常套句である「不立文字」も、文字や智解を軽視することではなくて、理知的な理解が理解のすべてではないという意味である。
このことを履き違えないようにして、智解と体解の両立をはかっていきたい。


ということで、ここでは「空」を頭で理解していただくことに焦点をしぼり、次のステップである実生活のなかで「空」を味わって生きるというのは、個々人の人生の在りように委ねたい
重ねて、世に溢れる般若心経に関する数多の文章は、大概においてそのような性質のもの、つまりは智解のための文字にすぎないことも知っておいていただきたい。
体験なしに、文字を読んですべてを理解しようというは、一度も泳いだことがないのに泳ぎをマスターしようとするくらい無謀なことなのだ。

般若心経と色即是空

般若心経は「空(くう)」という真理にのっとって、存在がどのように存在しているのかを説いた経典である。※以下、「空」の字はすべて「くう」の意であり「そら」としては用いない。
色即是空という言葉は、「あらゆるものは空である」といった意味の言葉であり、つまりが般若心経の中核を突く言葉であるといえる。
色即是空を説きたいがために般若心経が存在している、と言ってしまってはやや大袈裟かもしれないが、筋としてはそのようなものであるとの予備知識を持っておいても間違いではないだろう。


それで、主題である色即是空という言葉であるが、この漢文を訓読文にすると、
色はすなわちこれ空
となる。
平たく訳せば、
色というのは、空なんだよ
ということである。


つまり、ここで用いられている「色」と「空」の意味さえ理解できれば、色即是空という言葉の意味がわかるというわけだ


色とは何か

「色」の原語は「ルーパ」という言葉で、これは「物質的なもの」「形あるもの」を意味している。人間でいうところの肉体を指す。精神的なものではない。


紀元後、経典がシルクロードを経由して中国に伝わった際、インドの古代言語であるサンスクリット語やパーリ語で書かれた経典はほとんどの中国人には読めなかった。
そこで自分たちの言語である漢字に訳すという経典の漢訳作業が行われたわけだが、そのなかでルーパという言葉は「色」と訳された。


これはよく考えてみれば、なかなか的を射た訳と言えるかもしれない。
石でも木でも人間でも、物質的なものというのはたいてい色がついているから、「物質的なもの」を漢字1文字で訳す際に「色」を当てたのは、なるほど不思議なことではない。


現代でこそ透明なプラスチックやガラス製品が当たり前のように身近に存在しているが、当時は透明なものなどあまりなかったのだろう。
物といえば色が付いている。
だから物質的なものと精神的なものとを分ける際、物質的なものには「色」の1字を当てた。うんうん、納得できる。


つまり色即是空とは「物質的なものは空である」と言っているわけだ。
したがって残る問題は、「空」である。

空とは何か

「空」の原語は「シューニャ」という。意味は「何もない」といったふうなもの。
ちなみにシューニャは数字の0「ゼロ」も意味する。
「0」と「何もない」。たしかに共通するところがある。


ただ、この「何もない」という訳には語弊があるというか、少々補足が必要な言葉なので注意しておかなくてはいけない。
「空」という言葉が指す「何もない」とは、単に何もないことを意味しているのではないのだ。
たまに、「空とは、からっぽということ」で説明を終えてしまう文章を見かけることがあるが、それでは何も説明したことにはならない。
ここに肉体を持った人間が確かにいるのに、それが「ない」とはどういうことなのか
物体が存在しないといっているわけではない。
物質的なものが、すなわち「ない」と主張するところの真意は、きちんと説明する必要がある。


「空」が指し示す「何もない」とは、次のような意味である。
まず、下の画像のような、1台の車をイメージしていただきたい。
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見ればわかるが、車というのは多くの部品が集まり組み合わさることによってできている
エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドル……。
ネジやナットや電球などの細かな部品まで挙げてしまえばきりがないほど、とにかく膨大な量の部品が集まってできている。


車というのはそれらの部品の集合体に付けられた名前であって、厳密には「車」という物があるわけではない。
部品が「車という状態として集まっている」というか、車という物体があるわけではないというか、とにかく私たちは、車という概念に合致するものを車と呼んでいるにすぎないのであって、車という固有の物体が存在しているわけではない。


これは車をバラバラに分解してみるとわかりやすいかもしれない。
車を成り立たせていた各部品を、一度単体の部品の状態に戻すのである。
エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドルも、ネジ1本にいたるまですべてバラバラに戻す。
すると、車を成り立たせていたものはすべて残っているにも関わらず、車の形をしていないがために、我々はそれらの部品群を車とは認識しなくなる
人によっては、ガラクタや鉄屑と認識するかもしれない。
車とまったく同じものが揃っていながら、形が違うと車と認識しないのである。


これは、改めて考えてみればじつに不思議なことではないだろうか。
その車を成り立たせていたものが1つ残らずすべて存在しているにも関わらず、それは車でないと頭が判断するのだから。
このことが何を意味するかというと、それはつまり、車とは「状態」にすぎないのだという真実だ。


世にある様々な物質が集まって、車は車という状態を保っている。
それが保たれているあいだは車であるが、ひとたびバラバラになれば車ではなくなる。
最初から車があったわけではなく、真実は車という状態に物体が保たれていたということなのだ。


したがって目の前に車があっても、それは「車」という物体なのではなく、「車」という状態に集まった物質群にすぎない。
この真理はもちろん車に限らず、人も含めたあらゆる存在に共通する。
あらゆる存在は、状態として存在しているだけで、固定的な存在ではない。
どのようなものでも、そこに不変の本体は存在しない。
必ず物質が集まって形を為しているのであって、本体自体が不変の物質というものはどこにも存在しない
今は中学校で物体は原子が集まって成り立っていることを常識として学ぶから、この真理は割とすんなり理解していただけるのではないか。


つまり、「空」という言葉が示す「何もない」とは、すべての物体は物質が集まってできた「状態」にすぎず、そこに不変の本体とでもよぶべき固定的な自性は「ない」ということである
車は車という状態で存在しているが、人がそれを車と認識するから車と認識されるのであって、車自体が車なのではない。
車は総体に付けられたただの名前にすぎない。
世界に固定的な「車」という物体があるわけではないという意味が、少しややこしいかもしれないが、理解していただけるだろうか。


色即是空の意味

以上のことを念頭に、もう一度「色即是空」という言葉を眺めてみたい。


色はすなわちこれ空。
物体は空である。
すべての物は集合体で、物の名前は集合体に付けられた総称としての名前であって、その名前自体の物体が存在するわけではない
車は車であるが、車という自性の物体なのではない。
つまり、車は存在しえない。
だから、色はすなわち空なのである
あらゆる存在には自性がなく、すべて無自性なのだ。


したがってあらゆる存在は、固定的な物体としては存在していない。
状態としてのみ存在している。
存在は有るように見えるが、固定的にあるのではない。
しかしそれは単に何もないのでもない。
あるようで、ない。
ないようで、ある。
それが、存在が存在するということの意味であり、存在の在り方の真理であり、色即是空の意味なのである

空の別名「仮和合」

空という言葉は、仮和合(けわごう)という言葉で表現されることもある。
私は断然この仮和合という名前のほうが訳として適切で、わかりやすいと思っている。
空では掴み所がない。


仮和合という言葉の意味はズバリ言葉どおりで、あらゆるものは仮に和合した(集まった)ものだということ。
空が言いたいことを的確にとらえた別名なので、シューニャの訳としては断然こちらのほうがわかりやすいと思いはしないだろうか。
すべての物体は、仮の姿なのである。
そこに不変の自性は存在しない。


人であっても、自分を自分と認識する頭の働きがあるから自分を「有る」と思うだけであって、その認識さえなくなれば「自分」という認識はなくなる。
自と他との境がなくなる。
それはある意味で、存在の真理に近づく在り方といえるのかもしれない。

空は虚無か

このような「物体に自性はない」という話をすると、ちょっと悲しい気持ちになる人もいる。
虚無的であるといって受け入れたくない人もいる。
無常という言葉も同じで、それが真実だったとして、それを知って何がどう幸せになるのかと疑問を抱く人もいる。
既存の価値観が崩れてしまいかねないから、仏教はニヒリズム(虚無主義)だと主張する人もいる。


たしかに「何もない」という言葉で終わってしまえば、虚無であると思われてもしかたない。
しかしそれは色即是空の全体を知らないがための勇み足というか、少々早計な考えである。
般若心経でも、色即是空のすぐあとに空即是色と続いている。これが重要なのだ。
じつは色即是空は、空という真理の半分しかあらわしていないのである。そしてもう半分を補うのが、空即是色。


色は空であるという事実は了解していただけたことと思う。
あらゆる存在に自性はないから、すべての存在は空という流動的な存在のしかたで世界に存在している。
これは自然の摂理というか、普遍的な事実である。だからこそ真理と呼ばれるに値する。
ここにもう1つの重要な事実、「空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加えたい。
そうでなければ空の理解は不完全なものとなってしまうからである。


空即是色という逆の視点

あらゆるものは空であり自性がない。それが色即是空。
しかしこれを逆に考えると、自性がないからこそ世界にはあらゆる姿をした物体が存在できているとみることができる
もし固定的なものが存在していたら、それは変化をしないものとなってしまう。
しかし世の中にそのようなものはない。
すべてのものが「変化する」という理のなかにある。
だからあらゆるものが生まれることができる。


固定的なものがないからこそ、あらゆる存在は流動的に変化をして、その結果万物として存在することができる。
つまり、存在には自性のような固定性はないが、固定性がないからこそ万物に姿を変えて生まれ変わることができる柔軟性を持っているのである。
これが空即是色の視点。
空だからこそ、物体が存在することができるのである


色即是空が「存在が滅する真理」を説いた言葉だとすれば、空即是色は「存在が生まれる真理」を説いた言葉といえるだろう。
この2つでもって空なのであって、色即是空だけが空のすべてではない。
無常という言葉も、滅する側面だけが声高々に説かれ、生まれることの側面はほとんど触れられない。それが私には不思議でしょうがない。
空即是色という後半を説かずに存在の有り様は絶対に説ききれないのに、なぜ生まれる側を説かないのか。
前半の色即是空ばかり説いてしまえば、あらゆるものは変化し滅する、というだけの話になってしまいかねない。


空が言いたいのはそうではない。無常という言葉の意味もそうではない。
空も無常も、物体が滅する悲しい真理を説いているのではなく、ニュートラルな、プラスでもマイナスでもないただの存在の真理を真正面から説いた言葉である。


東日本大震災のとき、津波によって破壊された町の様子を目の当たりにして、多くの人が無常を痛感したことと思う。
しかし、無常だからこそ町は再び復興するのだと希望を掲げる人もいた。
その無常観はある雑誌で「明るい無常観」と賞賛された。
空即是色の視点とは、いわばこの明るい無常観のことなのである。
色即是空は、どちらかと言えば暗い無常観。
けれども両者はどちらも真理で、どちらかのみでは完全な円にならずに半円で終わってしまう。
空を理解しようと思うなら、円満な満月のような理解でなくては正しくない。
明るい無常観を掲げた人のように、存在を生みだす真理もまた空であることを忘れてはいけない。


円満な空とは、もちろん「色即是空 空即是色」の空である。


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