【禅語】不立文字 ~文字で真理は悟れない~
禅の教義を端的にあらわす禅語として、不立文字(ふりゅうもんじ)という有名な言葉がある。
「文字を立てない」と読むことができるが、字義からすれば「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」と読むことができるだろう。
ただ、そう言ってしまうと文字の軽視と受け取られるかもしれないが、全面的に文字を否定しているわけでは決してない。
不立文字とは「言葉にとらわれるな」「経典のなかに悟りの答えがあると思うな」と解釈すべきもので、要するにブッダの坐禅を自らも行うことを求める、実体験を重視せよという言葉である。
そんな不立文字を標榜する禅・曹洞宗の開祖である道元禅師は、『正法眼蔵』という一大書物を文字で書き著している。
『正法眼蔵』は20年以上もの長きにわたる歳月をかけて書き著わされた、曹洞禅の集大成のような書物である。
分類の仕方によって75巻、95巻など種々あるが、どちらにしてもその量は膨大なものにのぼる。
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また道元禅師は、禅の境地を詠んだ多くの道歌も残している。
しかもそれらは文学的にとても美しい。
文字に真理はないとしながらも、文字を書き連ねてきたのはなぜなのか。
文字とは何なのか。
これは昔から現代にいたるまで変わらずに、禅の根幹を問う重要な問いとなっている。
不立文字とは、文字を軽視することとは違う。
文字が非常に有意義なものであることを知った上で、しかし文字に頼りきるな、必ず自らの体でもって体験するのでなければ本当に知ることなどできないのだと説く言葉である。文字を認め、文字の不完全さも認めた言葉なのだ。
この不立文字という言葉を考える上で非常に参考になる逸話があるのでぜひともご紹介したい。
1965年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者、ファインマンの幼少時代の逸話である。
ファインマンの逸話
ファインマンはノーベル物理学賞を受賞したくらいなのだからさぞかし頭の良い人物なのだろうが、意外なことに子どもの頃は同年代の子たちから「頭の悪い子」と言われていたという。
なぜそう言われていたのかというと、ファインマンはいろいろな物の名前を知らなかったのだ。
しかしそれには訳があって、じつは父親があえて名前を教えなかったという事情がある。
なぜ父親はものの名前を教えなかったのか。
……なぜ文字を立てなかったのか。
ファインマンの父親は、もし自分に男の子が生まれてきたら、息子を科学者にしたいと考えていた。
だから生まれてきた男の子のファインマンをとても可愛がり、休みの日には親子でよく森に遊びに行った。
しかし父親はただ森で遊ぶのではなく、なるべく自然科学の面白さを伝えようと考えた。
たとえば、こんなふうに。
「ちょっとこっちに来て、あそこの木の枝にとまっている鳥を見てみなさい。
あの鳥の名前は、アメリカでは〇〇と呼んでいる。
けれども国が違えば名前なんてものはいくらでも変わってしまう。
それぞれの言語で呼ばれるだけだ。
だから名前なんてものをいくら覚えたって大した役には立たない。
それよりも、あの鳥が何をしているかをよく見ようじゃないか」
そこでファインマンは鳥をじっと観察した。
すると鳥は、ときどき思い出したかのように自分の羽をくちばしでつついていた。
しかし幼いファインマンはそれが何を意味する行動なのかという知識は持ち合わせていない。
「お父さん、あの鳥はさっきから羽をくちばしでつついているよ」
「確かにつついているな。何をしているのだと思う?」
「うーん」
答えを知らないファインマンは考えるしかなかった。
「空を飛んできたから、羽がグチャグチャになったのかなあ」
「なるほど、ありえるな。もしそれが正しいとしたら、長い時間枝にとまっている鳥はもう羽を整え終わっているはずだから、羽をつつくことはないはずだ」
そこで親子は長く枝にとまっている鳥を観察した。
すると、じっと休んでいるような鳥も、時折くちばしで羽をつついていた。
「ずっとつついているということは、羽を整えてるんじゃあないのもしれんなぁ」
「うーん、じゃあ、羽の中にいる虫を食べてるとか?」
「なるほど、ありえるな。でもそれはここから観察していても確認できないから、家に帰って鳥類学の本を読んでみるしかないな」
「じゃあ帰ったら調べてみよっと」
そして親子は家に帰ると、本で鳥の行動を調べた。
ファインマンは父親の助言を受けて、まずよく観察し、観察に基づいて仮説を立て、仮説が正しいか検証し、確かめきれないことは先人の見識を紐解いて確認するという体験を深めていった。
こうしてファインマンは科学的思考を身につけていったのだが、名前を覚えるというような勉強はしなかったのである。
ファインマンはこのような幼少時代を過ごし、鳥の名前も知らないバカな子どもと言われながら優れた科学者に成長していった。
これは記憶重視型の授業を展開する日本の教育界に、痛烈な一撃を見舞うエピソードと言えるのではないだろうか。
ちなみに、鳥が羽を繕うのは、いつでもすぐに飛び立つことができるようにするための準備と考えられている。
もし他の動物に襲われそうになり緊急に飛び立つ必要が出た際、ゴミや乱れがあって飛ぶことの邪魔になったら命に関わる失態である。
だから鳥は手入れを欠かさないのだと。
ファインマンも、鳥類学の本を父親と一緒に読んで先人の見解を知っただろうか。
知る、とは何か
成長の過程で名前なんてものはいくらでも覚える。
ファインマンだって特に意識せずとも、やがては名前を覚えたはずである。
しかし本当に重要な「考え方」や「学び方」というものは、子ども一人の力ではなかなか身につかない。
いや、大人だって身につけようと考えない限りは身につかないだろう。
父親が息子に伝えたかったものは、文字にとらわれることなく真実を見抜いていく、正しいものの考え方のほうであった。
それは禅が標榜する不立文字の考え方とよく似ている。
我々は、たとえば禅という概念を知りたいと思ったとき、それについて書かれた本を読もうとする。
あるいはそれについて語れる人の言葉を聞こうとする。
しかしそこで知ることができるのは、結局のところ文字による情報でしかない。
もし水泳を知りたいと思って、水泳について書かれた本を読む人がいるだろうか。
登山を知りたいと思って、登山を題材にした小説を読んで満足できるだろうか。
それを知りたいと思えば、必ずそれを自分自身で体験しようと思うはずだ。
そうでなければ、人はそれについて何も知ることはできないからである。
しかしこの単純な事実も、対象が「概念」となるとなかなか体験でそれを知ろうとは思わなくなる。
ここに「知る」ことの落とし穴がある。
私たちは往々にして情報として知っただけで満足し、あたかもそれを体験したかのごとくに知った気になることがある。
しかしそれは重大な誤りなのだ。
知るとは、体験を通して自分自身の体で知ることでなければ偽ものであるというのが禅の基本的立場である。
それが不立文字という禅語が指し示す一面でもある。
しかし、このことを説明するには文字に頼らなければいけない。
ファインマンも、わからないことは本を読んで学んでいた。
文字が有用であることも、文字が不完全であることも認める。
認めた上で、文字を超えていこうとする。
それが不立文字という禅語の意味である。
ファインマンの幼少時代の逸話は、現代の記憶偏重の詰め込み教育に対する軽妙な皮肉のようにも感じられる。
あるいは、学習の本質にある「問うことの大切さ」を示唆した話とも受け取れる。
つまり頭が良いとは何なのかという話。
少なくとも名詞を記憶することが学習なのではないと考えたファインマンの父親に、多大な共感を覚える人はきっと大勢いることだろう。