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正法眼蔵第二「摩訶般若波羅蜜」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,摩訶般若波羅蜜

「摩訶般若波羅蜜」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵』第二に位置付けられる「摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」の巻。
この巻が書かれたのは1233年。道元禅師33歳の頃のこと。
道元禅師は1200年ちょうどに生まれているため、西暦がわかれば禅師が何歳のときのことだったのかはすぐにわかる。年齢と西暦の下二桁が同じだから。


この「摩訶般若波羅蜜」の巻は、その文章の主たる構成を『般若心経』などからの引用文が担っている。
そのため『正法眼蔵』第一の「現成公案」に比べて、道元禅師自身の言葉が述べられている箇所は少ない。


巻題の「摩訶般若波羅蜜」であるが、「摩訶」はサンスクリット語の「マハー」の音訳で「偉大」を意味し、「般若」は「プラジュニャー」の音訳で「智慧」を意味し、「波羅蜜多」は「パーラミター」の音訳で「完成」を意味している。


総合して「偉大なる智慧の完成」となるわけだが、はたしてそこで述べられる智慧とは何なのか。
『般若心経』も「摩訶般若波羅蜜」の巻も、説くべき対象は「智慧とは何か」に尽きる。


『般若心経』そのものの現代語訳に興味のある方は、かなり拡大訳ではあるが、下の記事を参考までにどうぞ。
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第二「摩訶般若波羅蜜」

1節

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空是空なり。百草なり。万象なり。

現代語訳

観自在菩薩は智慧の完成を目指しひたむきに修行を続けた結果、人間を構成する物質的要素と精神的要素のいずれにおいても、その本質は「空」であることを明らかに悟った。
物質的要素である肉体も、精神的要素である感学作用も表象作用も意思作用も認識作用も、そのどこにも不変の自分は存在せず、自分とは常に変化を続ける「空」であったと気付いた。
ここで言う「空」とは、「不変の実体は存在しない」という意味の真理の言葉である。


この真理を示すために、『般若心経』では「色即是空、空即是色」という言葉が用いられた。
すなわち、形あるものは「空」なる無常な存在であるから変化を続け、変化を続ける「空」という性質であるからこそ様々な形あるものが存在するのだと。
野に咲き乱れる草花から、この世界に存在するあらゆるものにまで「空」の真理は行き渡り、変化をしないものは何一つとしてこの世界には存在しない。

2節

般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。

現代語訳

『般若心経』には真理に関する12の智慧がある。
眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの感覚器官と、それぞれの器官が知覚する対象である色・声・香・味・触・法の6つ対象の、そのどれもが「空」であるという智慧である。


また18の智慧がある。
6つの感覚器官と、それぞれ6つの対象が出会うことで、6つの認識の世界が生まれるという智慧である。
人間が感じている世界とは、あくまでも感覚器官と対象が出会うことで生まれた認識上の世界でしかない。


また真理に関する4つ智慧がある。
人生とは苦悩を抱くものであり、思いどおりにしたいという思いが叶わないときに苦悩するが、思いどおりにしたいという思いさえ抱かなければ苦悩はなく、そのために八正道という修行に励むべきだとする智慧である。


また修行に関する6つの智慧がある。
言葉や物を人に施すこと。
生きる指針を守ること。
未熟な部分を自学すること。
正しく向上することを目指すこと。
静かに坐り自分に向き合うこと。
真理についての智慧を持つこと。


また1つの智慧が今ここに存在している。
比べることなどできない尊い悟りがそれである。


また時間の認識には3つの智慧がある。
過去・現在・未来の3つをいう。
現実に存在する時間は、今この瞬間を示す「現在」だけであってほかにはないが、過去と未来に思いを巡らせて生きることは無意味でない。


また存在の認識には6つの智慧がある。
土・水・火・風の4つの要素から物質は構成されており、さらにそこに「空」の性質が加わり、精神作用を有する生物はさらに「識」の要素が加わるという智慧である。


このほかにさらに4つの知恵がある。
我々人間は毎日、歩き・留まり・坐り・寝ている。
そうした何気ない日常生活を仏の心で行じるところに、仏としての人生があるという智慧である。

3節

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭、竊作是念、
「我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅、而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、解脱知見蘊施設可得、亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得、亦有独学菩提施設可得、亦有無上正等菩提施設可得、亦有仏法僧宝施設可得、亦有転妙法輪、度有情類施設可得」
仏知其念、告苾蒭言、

「如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測」
而今の一苾蒭の竊作念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いわゆる戒定慧乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

現代語訳

昔、お釈迦様の説法を聴いていた修行僧の一人が、次のようなことを考えた。


「私はお釈迦様が説くこの深淵な教えを厚く敬い礼拝したい。
この教えのなかでは、あらゆるものに生滅は無いと説かれている。また、生きる指針となる「戒」を学ぶことができ、精神の平安である「定」を学ぶことができ、真理を見抜く「慧」を学ぶことができ、煩悩から離れた解脱を学ぶことができ、捉われのない自由な精神を学ぶことができる。


また、仏道修行による成果を知ることができ、独力によって悟りを感じることもでき、お釈迦様の仏法を受け嗣いで悟りを開く道も示されており、仏法僧の三宝を敬うことの意味も理解することができ、仏法を説くことで人々にやすらぎを与える方法も学ぶことができる」


すると、お釈迦様はこの修行僧の思うところを知り、こう語りかけた。


「そうだ、そのとおりだ。しかし真実を見抜く智慧とはじつに優れたるもので、頭での知識理解でそのすべてを捉えようとするのは容易でない」
と。


この話に登場する修行僧は、教えを敬い礼拝することによって、あらゆる存在に生滅はないという『般若心経』の「不生不滅」の理を体得することができた。
教えを敬うことの素晴らしい利点はここにあるといえる。
頭で理解せずとも、敬うという行動によって智慧を体現することができるという点である。


そこに現れてくる智慧とは、生きる指針となる「戒」であり、精神の平安である「定」であり、真理を見抜く「慧」であり、または人々を導く手法などである。
そしてそれらもまた、生滅はないと説く『般若心経』と同じように、「無」と体得することが可能となる。
思慮分別に関わることのない深淵な般若の智慧とはこのようなものである。


4節

天帝釈問具寿善現言、
「大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、当如何学」
善現答言、
「憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、当如虚空学」
しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。
天帝釈、復白仏言、

「世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説、我当云何而守護。唯願世尊、垂哀示教。
爾時具寿善現、謂天帝釈言、
「憍尸迦、汝見有法可守護不」
天帝釈言、
「不也、大徳、我不見有法是可守護」
善現言、

憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深般若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深般若波羅蜜多、常不遠離。当知、一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空」
しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。
先師古仏云、

渾身似口掛虚空、
不問東西南北風、
一等為他談般若。
滴丁東了滴丁東。

これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

現代語訳

帝釈天がお釈迦様の弟子のなかの長老、須菩提尊者にこう問いかけた。
「優れたる長老よ、もし修行者が深淵なる智慧の完成を目指すなら、どのように学んでいけばよいだろうか」
須菩提尊者は答えた。
「虚空のごとくに学べばよいでしょう」


このようであるから、須菩提尊者の言うように、智慧を学ぶということは「空」を学ぶことにほかならない。
「空」こそが智慧なのである。


帝釈天はまた、お釈迦様にこう申し上げた。
「釈尊よ、もし善き人々がこの深淵なる智慧を受持し読誦し、真理のままに考察し、他の人のために説き聞かせるとしたら、私は彼らをどうのようにして守護すればよいでしょうか」


それを聞いた須菩提尊者は、帝釈天に言った。
「あなたはこの仏法の智慧の何を守護すべきだと思うのですか」
帝釈天は答えた。
「長老よ、私はこの智慧についてこれ以上何も守護すべき点を見いだすことができない」


そこで須菩提はこう言い聞かせた。
「人々が真理の智慧を説くときは、その智慧が彼らを護るのです。
智慧は彼らのそばを片時も離れはしません。
どのような人が彼らに危害を加えようとしても、智慧の人に煩悩を起こさせることはできないことでしょう。


帝釈天よ、この真理の智慧を守護しようというのは、「空」を守護しようというのと同じことなのです」


このようであるから、我々は知っておかなければならない。
仏の教えに沿って生き、その教えを唱え、真理について考える営み自体が、とりもなおさず智慧を守護することにほかならないことを。
我々が智慧でもって生きることが、智慧を守護することにつながることを。


私(道元)の師である如浄禅師は、次のような詩を詠じたことがあった。

「風鈴は、全身を口にして空にかかり
東西南北の風を問うことなく
ただ誰かのために真理を鳴らしている
チリン、チリン、またチリン」


風鈴は風に吹かれて真理の音を鳴らしている。
これこそ、歴代の祖師方が弟子に伝え続けてきた真理そのものである。
全身全霊で智慧を語っているのであり、聴く者に智慧を開かせるのであり、自分が智慧と同一になっているのであり、世界中へ響く智慧なのである。

5節

釈迦牟尼仏言、
「舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅蜜多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅蜜多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是仏薄伽梵。仏薄伽梵、即是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如来応正等学、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、独学、阿羅漢、不還、一来、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四静慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故」


しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜

現代語訳

お釈迦様はこうも言っている。
「弟子のシャーリプトラよ。
人々は、真実を見抜く智慧を、仏様を敬うかのごとく大切にするべきなのだ。


なぜなら、智慧によって真実を摑むことと、真理に目覚めて仏になることは、同じことだからである。
般若波羅蜜多とは真実についての智慧であり、真実についての智慧とは悟りそのもの。
悟る、あるいは仏として生きるとは、この智慧に基づいて生きることにほかならない。


シャーリプトラよ。
悟りを開き仏として生きる人々は、真理の智慧によって仏となった。

シャーリプトラよ。
菩薩や聖者と呼ばれるような人々は、真理の智慧によってそう呼ばれるようになった。

シャーリプトラよ。
この世界に生きる善き人々、精神を統一させた人々、執着から離れた人々、優れた能力を持った人々は、真理の智慧によってそのような人生を歩むようになった」


以上のようであるから、仏とは智慧を完成させた者のことであり、智慧の完成とは森羅万象の真理であり、その真理とは「空」である。


「空」であるがゆえに、世界に固定的なものは存在せず、したがってあらゆる存在は生まれるのでも滅するのでもなく、ただ変化をしている。
美しいとか汚いといった物の見方も、それは人がそう見ているだけで、本来的に美しいものや汚いものがあるわけではない。
増える減るといった事柄も、その真実は変化をしているという一点に尽きる。


こうした「空」の真理でもって世界を生きるということは、仏として世界を生きることにほかならない。
だから私たちは真理を問い続けなければならない。
智慧を学び続けなければならない。


智慧を敬うということは、仏にまみえることと同じなのだ。
そしてまみえたところに、「空」の真理が実現するのである。


『正法眼蔵』第二 摩訶般若波羅蜜の巻