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正法眼蔵第一「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文

正法眼蔵,現成公案

「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文

『正法眼蔵』の数多の巻のなかでも、この現成公案の巻は最重要の部類に含まれるものと考えて相違ないと考える。
75巻本の首巻となっているのも、もちろん偶然ではないはず。
現成公案とは、ずばり「悟りの実現」を意味する言葉であり、この巻で著述されている内容は、仏法の根幹である「悟り」をテーマとしている。


「現成」は「現成正覚」の略で、より本意に近い訳を当てるとすれば、悟りとは目の前に実現されている、というほどの意味となるだろう。
実現するものを示す「正覚」の部分が省略されているわけだが、そんなことはあえて言わなくてもわかるということなのだと思われる。
もちろん正覚とは「悟り」の意だ。


一方の「公案」は、原意を辿れば中国における官の公文書に行き着く。
なぜいきなり公文書が登場するのかであるが、たとえば、年間にいくらかの米を納めなければならない、というような公文書(公案)があったとき、民にとってその公案は課題と言い換えることができる。


この公案というものに含まれる「課題」としての性格が、禅宗において「一人ひとりに与えられた禅の課題」として受けとられるようになり、やがて禅宗内に修行としての公案が生まれ、現在においてもそうした用法で使い続けられてきたと考えられている。


また、禅宗のなかでも主にこの公案を用いるのは臨済宗で、祖師方が悟りを開いた際の出来事を短いエピソードとしてまとめ、そのエピソードについて考えを廻らすことで悟りに近づこうとするのが、公案禅と称される臨済宗の特徴となっている。


現成公案というタイトルは、道元禅師にとっての命題、つまりは「悟りとは何か」を意図するものであり、したがってこれを軽視することは到底できない。
巻によって重要度が異なるという認識は適切ではないかもしれないが、『正法眼蔵』全体を眺めたとき、やはりこの現状公案の巻は根幹をなす内容であると言えるだろう。


第一「現成公案」

1節

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

現代語訳

あらゆる事柄を仏法の言葉で説明するならば、この世界には迷いや悟りがあり、修行があり、生があり死があり、仏があり衆生がある、と言うことができる。
また、あらゆる事柄を区別という思考を用いることなく認識するならば、迷悟や、仏と衆生や、生滅といった違いは存在しなくなる。


仏法は豊かとか貧しいといった相対的な区別から離れたものであり、生滅や迷悟や仏や衆生があるといっても、それらを実体視することはない。
ただし、そうであったとしても、愛でる花が散れば心に惜しい気持ちが起こり、庭から雑草が生えてくれば心は嫌悪を抱く。
人間の心というものは、相対の世界から完全に離れることは難しい
それもまた、我々人間の心の事実なのである。

2節

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。仏のまさしく仏なるときは、自己は仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

現代語訳

自らの認識でもってあらゆる事柄を理解していこうとする態度は迷いそのもの。
あらゆる事柄によって自己の存在が究明されることを悟りという。


迷いを迷いと悟る者を仏とよび、悟りに執着して迷う者を凡夫とよぶ。
さらに言えば、悟りの上に悟りを積み重ねる本物の求道者がおり、迷いのなかでさらに迷う迷者もまたいる。


仏が仏として生きるとき、つまりは悟った者が悟りの上を歩くとき、自分は仏であるなどといった思いは生じない。
しかしそれでも、その者は明らかに仏なのである。
仏として生きる者は、その行為によってまさしく仏なのである


全身全霊を傾けて自然の姿に真理を見出そうとし、全身全霊を傾けて自然の声に真理を聴こうとしたとき、自己と自然とが別物ではなくなるという感覚が生じることがある。
それは鏡に自分の姿が映るとか、水に月の姿が宿るというような一体感とは少し違う。
自己と悟りが一体であるとき、それは不可分のものであり、1つであるから一体という思いなど生じはしない。

3節

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

現代語訳

仏道を学ぶということは、自分という存在を明らかにすることである
自分という存在を明らかにするということは、自我意識を忘れ去ることである。
自我意識を忘れ去るということは、あらゆる事柄に照らし出されて自己が明らかになることである。
あらゆる事柄に照らし出されて自己が明らかになるということは、この身と心や、他との関わりのなかに存在する自分の身と心といったものを脱ぎ捨てることである。


そうして悟りを開くことができたとしても、悟りの臭いが残っているうちはまだ本物ではない。
悟り臭さすらなくなり、悟りそのものとなって、自己の束縛から完全に抜け出てなくては本物でない。


4節

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

現代語訳

人がはじめて仏法を学ぼうと志したときは、まだ真理から遠く離れ、仏法の辺境に位置しているものだ。
しかし仏法が自分に正しく伝わり、仏法を実証する生き方ができたなら、すみやかに人は本来の自己、つまりは仏となる。


我々人間は自己本位の頭で物事を捉えすぎている。
たとえば川を下る船に乗って岸を見ると、動いているのは船であるにも関わらず、岸が動いているように見える。
自己本位な物の見方というのはこのようなもので、真実がどうであるかを考えるのではなく、自分から見てどうか、という点に終始してしまいがちだ。
そうした目線を船に戻すことで、動いていたのは船(自分)であったとようやく気が付くことができるが、それは言うほど易しいことではない。


これと同じで、いくら真理を明らかにしていこうと意気込んでも、その主体である自分を不動の船と誤って認識してしまっていたら、眼に映る世界を正しく理解することなど到底できない。
だから祖師方の歩みを踏み外すことなく学び、動いているのは岸ではなく自分である可能性を常に念頭に置き、あらゆる物事を自分本位の頭で考えるようなことをしないように気をつけなければいけない

5節

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

現代語訳

薪を燃やせば灰となる。
一度灰になったものが薪に戻ることはない。
しかしながら、灰は後、薪は先であると理解してはいけない。


薪は薪であることによって薪以外の何ものでもなく、その前後の姿があったとしても、それらは続いてはおらず途切れている。つまり、実在する時間は「今」以外にない。
途切れた「今」が連続することによって、時間はあたかも進んでいるかのように感じられるだけで、実際に存在する時間は常に現在をおいてほかにない
灰もまた同じで、今この現在において灰は灰以外の何ものでもない。薪の後の姿なのではない。


薪が灰となってから再び薪に戻ることがないように、人が死んだ後に再び生きる人になることもない。
生が死になると言わないのは、仏法において当たり前のことである。
だから不生という。
また、死が生になることはないという真実も、仏法を説く上で定まっていることである。
だから不滅という。


生とは線ではなく、生きている今この一点を示す言葉であり、死もまた、死んでいる一点を示す言葉だ。
それはたとえば、季節の移ろいを例にするとわかりやすい。
冬が春になるという移ろいを、冬というものが春というものになったのだとは普通考えない。
春というものが夏というものになったのだとも言わない。
冬が春に変化したのではなく、「今、春である」というよりほかに、季節を言い表すことなどできないのである。

6節

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を點し、天月の廣狹を辨取すべし。

現代語訳

人が悟りを開くのは、水たまりに月が映ることと似ている。
月が水のなかにあって水に濡れないように、真理は何と混ざろうと影響を受けることなく真理であり続ける。
また、水が月によって破られることがないように、真理は何も害さない、という点もよく似ている。


とてつもなく大きな月がわずかな水たまりに宿り、天の煌めきが草露の一滴に宿る。
そのように、真理はあらゆるものに宿っている。
悟りが人間のありようを邪魔しないのは、月が水を突き破らないのと同じである。
また人が悟りを邪魔しないのは、露が月を拒まないのと同じである。

 
真理を心の奥深くにまで受け入れることができるのは、受け入れる力が優れているからだろう。
悟りを開くまでの時間には、人によって長い短いの差があるものだ。
しかしどれほど小さな水でも月を宿すことができる事実を思いだし、どのような人にも真理が開けることを忘れてはいけない


7節

身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海山おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

現代語訳

人は、身と心に仏法が満ち足りていないのに、もう満ちていると錯覚することがある。
あるいはその反対に、もう満ち満ちているのに足りないと感じることもある。


たとえば船に乗って海原へと出航し、視界のどこにも陸地が見えないような沖にまで達し、周囲を見渡したとき、海は円形に見える。
ただただ円形の海ばかりが眼に映り、それ以外のものは何も見えない。


しかし、そう見えるからといって、本当に海が円形なわけではない。
もちろん四角いのでもない。
水平線の彼方や海の中には、眼に見えていない海の姿がまだまだあり、そこには宮殿のような瓔珞のような、尊ぶべき姿があるかもしれない。


ただ自分の眼で見た景色が円形であったというだけのことで、それが世界の姿のすべてだなどと考えるのは早計というもの。
自分の眼はすべてを見通しているわけでは決してない。


真理もまたこれと同じようなものだと言える。
俗世にも仏法の世界にも無数の景色がある。
しかし人は、自分の眼で見える範囲のものしか見ることができない。
自分の頭で理解できるようにしか物事を理解することができない。
我々人間の理解というものは、往々にして主観的なのである。


だから、あらゆる物事の真実を知ろうと思うなら、ただ眼に映る姿が丸いとか四角いとかであるといった表面的なことに終始せず、眼に映ることのない真実にも眼を向けなければいけない。
自分で理解できる事柄や、自分で認識できるものだけが世界の全てではないことを、よく知っておかなくてはいけない。
それも身の回りの事柄だけに注意するのではなく、それらを見ようとする自分自身についても、あるいは非常に些細なことであっても、真理を見ようとしなければいけない。

8節

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。


しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。


しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

現代語訳

魚が水のなかを泳ぐ。泳いでも泳いでも、水に終わりはない。
鳥が空を飛ぶ。飛んでも飛んでも空に終わりはない。
そうであるから、魚も鳥も、昔から今にいたるまで水や空を離れたことがない。
その生命を存分に働かせて生き、また、そっと静かに生きるという違いがあるだけだ。


このようにして、魚も鳥も、それぞれの本分をまっとうして生きているわけだが、もし鳥が空から離れるようなことがあれば、鳥は本分を失うことになる。
同様に、もし魚が水から離れるようなことがあれば、魚としての本分を失うことになる。


水とともに魚の本分がある。
空とともに鳥の本分がある。
魚が魚として生きるところに本分がある。
鳥が鳥として生きるところに本分がある。
逆からも言えよう、本分があるからこそ、魚は魚として生きることが真理なのである。
鳥は鳥として生きることが真理なのである。


それぞれの生命の在り方には、さらに多様なはたらきがある。
たとえば人間には修行と悟りといった事柄があり、老若男女といった違いがある、というように。


このようであるから、我々人間が仏の生き方を実証して生きるなら、それは仏として人生を生きたことになる
一つの真理と出会うことで真理と一体になり、一つの行い通じて一つの修行をまっとうし、仏として生きたことになる。
それが真理を目の前に実現させるということだ。悟りを実証するということだ。


真理に通じる道はどこにでもある。特別な入口がどこかにあるのではない。
それにも関わらず、真理というものになかなか出会うことができないのは、真理を行じることでしか真理と出会うすべがないからである。
真理を行じるとは、もちろん仏として生きるということだ。


しかしながら、真理に即して生きることで真理の何たるかを会得することができたとしても、それが自己の知見となって即座に知識理解の対象になるかといえば、そうではない。
行動の上に悟りを実証させることができたとしても、その内容を明確に頭で理解することは容易ではなく、また、そうした知識理解は仏として生きる上で必ずしも必要ではない。

9節

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」
師いはく、
「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」
と。僧いはく、
「いかならんかこれ無処不周底の道理」
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、礼拝す。


仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。


正法眼蔵 現成公案

現代語訳

昔、麻浴山に住していた宝徹禅師が扇をあおいでいたときに、修行僧がやってきてこんな質問をしたことがあった。
「風はどこにでも存在しますし、行き渡っていないところもありません。それが風というものの性質です。それなのにどうして和尚様は扇をあおいでいるのでしょうか」


宝徹禅師は答えた。
「あなたは風がどこにでも存在することを知っているようだが、行き渡っていないところがないということの道理を知ってはいないようだ」


修行僧はさらに訊ねた。
「では、行き渡っていないところがないとは、一体どういうことなのでしょうか」


宝徹禅師は言葉で答えるかわりに、扇をあおいでみせた。
それを見た修行僧は宝徹禅師の意図に気付き、深く礼拝をした。


上記のような宝徹禅師の対応こそ、まさに仏法を明らかにし、その本質を正しく伝えるという営みそのものである。
風はどこにでもあるからあえて扇を使う必要はない、使わなくても風はあるのだという修行僧の見解は、風が常に存在することの本質を理解していない。
風があることだけでは不十分であって、風を実現させることが重要なのである。吹き渡る風になってこそ、真に風なのである。


魚が魚として生きるように、鳥が鳥として生きるように、風が風として生きるように、我々人間は仏が仏として生きるかの如くに生きればいい
仏として生きるとき、人は紛れもなく仏だからである。
自分が仏であることを実証する生き方によって生じた仏教の風は、これからも世界に大いなる恩恵をもたらし、人間の資質を向上させていくことだろう。


『正法眼蔵』第一 現成公案の巻 おわり


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