紙が、ない。
少し焦っていた。
8時には出発しないと間に合わない仕事があるのに、もう7時55分。
しかも自分の家ではなく、とある知人の寺院のトイレの中にいる。
出そうで出ないという難敵と格闘した末に、どうにか出すことができたところだ。
登山では、準備段階における排便の有無が死活問題に直結するという笑い話のような笑えない話を聞いたことがあるが、何も排便の有無は登山時のみ重要となるわけではない。
日常生活においても、朝、出発前にきちんと排便できていると気持ちがスッキリする。さあ、これで心置きなく全力投球できるぞという気持ちになる。
そういう意味では、今日のスタートは良好であると言えた。
難敵ではあったものの、最後には倒すことができたのだから。
ウォシュレット機能を備えた見るからに最新の便器だったので、「おしり」と書かれたボタンを押したのが10秒ほど前のこと。
私はここで自分が「ある問題」に直面していることにようやく気付いた。
そう。紙がない。
久しぶりだ、この感覚は。懐かしさすら込み上げる。
もう何年ぶりだろう。中学生とか、高校生とか、本当にそれくらいから一度もこの危機に遭遇していなかった気がする。
もちろん、公園などのトイレに入って紙がないということは何度もあったが、それはある程度予想ができるので、あらかじめティッシュを備えた上で望むなり、隣のトイレに移るなりして危機を回避してきた。
だから「用を足した後に気付く」という危機に直面したのは、もう本当に久しぶりのことである。
しかしながら、二十年来の友人との偶然の再会を喜ぶような気持ちには到底なれず、押し迫るタイムリミットと紙がない現状の板挟みに私は悩んだ。
どうすべきなのだ。
叫んで助けを呼ぶべきか。
いや、そんな恥ずかしいことはできない。
せめて紙で拭く必要がないくらいの快便だったならよかったのだが、あいにくそうではなく、しかもウォシュレットを使ってしまっている。
とてもじゃないが「拭かない」を選択できるようなお尻の状態ではない。
私は考えた。
ロダンの「考える人」のポーズで考えた。
あの「考える人」は、岩のようなものに腰掛けた状態で、頬杖をついて考えている。
頬杖をついているのは右腕で、その右腕の肘はなぜか左足の腿の上にある。
必然的に上半身が左に捻れることになるが、なぜあんな格好をしているのだろうか。
普通、右腕で頬杖をついたなら、その右肘は右足の腿の上にくるのが自然ではないか。
便器に座って「考える人」のポーズをとっているまさにこの私の状態でも、やはり右肘は右腿の上にある。
物は試しということで、一度左腿の上に右肘を移動させてみた。
うーん。なんというか。できないことはないが、上半身に無理が生じている。特に右の脇腹のあたりが張る。
北に向いていた体は北西の方角へ。
感覚としては約45度の捻りといったところか。
フィギュアスケートの回転ジャンプにくらべれば45度など「変化なし」に等しい変化なのだろうが、下半身を固定した状態での上半身のみの45度は、それなりの違和感を伴う。
ラジオ体操で両腕をでんでん太鼓のように左右にぶらんぶらんと振り、「5、6、7、8」の掛け声とともに大きく振る、通称「でんでん太鼓運動」があるが、あのときの上半身の捻りは約90度に達している気がする。
すると、45度などまだまだということになるのか。
しかし仮にまだまだであったとしても、運動をするつもりもないのに45度は普通捻らない。
何か別に意図があるはず。
右肘を右腿の上に戻し、また左腿に移動させ、再び戻すのを繰り返して、思った。
なるほど、右肘を左腿の上に置いたときのほうが、体が斜めになることでかなり格好つけたポーズに感じられる。
これか?
そういえば人物を撮影するにしても、真正面から撮るというのではいかにも芸がない。
ちょっと斜めとか、横とか、見栄えがよくなる角度やポーズで撮るのがセオリーなのであって、もしかしたら「考える人」も体を捻ることによって格好良くみせているのではあるまいか……?
いかん、いかん。
そうではない。それどころではない。そんなことを考えている場合ではないぞ。
時間がないのだ。あと、紙も。
吃緊の問題はお尻であって「考える人」ではない。
あるべきはずのところに、なくてはならないものがない。
問題はそこである。
冷静に考えた。
よそのトイレだから、私の知らない構造のトイレットペーパーホルダーが存在していて、一見すると外部からはトイレットペーパーがないように見える最新のスマートなホルダーなのかもしれない。
よし、この可能性を追ってみよう。
トイレットペーパーが入るべきホルダーを観察してみる。
随分と上に長い。しかもプラスチック製。2階建てになっていて、1階が現場、2階が控え室となっているタイプのホルダーなのだろう。
うちのは1階の現場から布製のホルダーが下にぶら下がっている「地下1階控え室型」なものだから、この「地上2階型」のホルダーを扱ったことがあまりない。
しかし右側にレバーのようなものがあるから、これを引くなり下げるなり動かせばいいということは容易に想像がつく。
そうすると自動的に控え室の選手が1階に下りてきて、選手交代で現場に立つという構造に違いない。
恐る恐るレバーを引いてみた。
何も起こらない。
まさか、やり方が違うのか?
もう一度レバーを引いてみた。
……やはり何も起こらない。
ウソだろう。これ以外の動きがこのレバーにできるとはとても思えない。
間違ってはいないはずだ。
するとこのレバー、さては故障中か。
だから控え選手が下りてこないのも当然なのか。
こうなったら実力を行使して、1階部分から手を突っ込み、強引に2階の控え選手を摑んで引きずり下ろしてしまおう。
この期に及んで2階であぐらをかいているなど、決して許されることではない。
今私は危機的状況にあり、とにかく時間がないのだ。
私は左腕を伸ばし、1階部分から手を突っ込み2階へと腕を突き上げた。
ほほぅ。なるほど。2階部分はこんなふうになっていたのか。
このスペースに控え選手が鎮座し、今か今かと出番を待つ構造となっているというわけだな。
土俵下で次の取り組みを待つ力士のように、腕を組んでどっしりと待つことができるだけのスペースは確かに十分ある。
2階のホルダー内構造を手探りで調べるなんていう経験は、おそらく今後の人生で2度とないだろう。これはきっととてつもなく貴重な体験に違いない。
さて、それで、肝心の控え選手はどこにいるのかな。
手首を捻って四方を探ってみる。プラスチックの壁があるだけで、どうやら2階に控え選手はいないらしい。
さては尻尾を巻いて逃げ出したか。
それとも控えの層が薄いチームなのか。
『スラムダンク』の湘北高校みたいなやつだな。
左腕をホルダーから抜き、再び「考える人」に戻った。
さあ、どうしよう。追い込まれてしまった。
ズボンを履かないまま外に出てトイレットペーパーを探すという方法もなくはない。
しかし、もし、万が一にもその場を目撃されてしまったら……。
ダメだ。リスクが高すぎる。
手詰まりだ。
糞詰まりは解消したが、手は詰んだ。
神仏にすがるような気持ちで天井を見上げた。
すると、窓の傍に何やらプラスチック製の容器が置いてあることに気が付いた。
あれは何だろう。
すかさず手に取ってみると、表にはこう書いてあった。
「便座用アルコールティッシュ」
……これでいくか?
蓋を開けて、1枚取り出してみる。
ほほぅ。けっこう湿っているな。しかし、びしょびしょというほどでもない。
水分の吸収能力にやや問題はあるだろうが、それでもある程度の水分は吸えるはず。
試してみる価値はある。
温泉に入って、バスタオルを持ってきていなかったことに気付き、仕方なく体を洗う際に使ったフェイスタオルをかたく絞って体を拭くときでも、ある程度水分を拭き取ることはできる。
シャツが背中にくっついてなかなか着ることができないという事態は避けられないが、それでも拭かないよりかは格段に良い。
あれと同じ原理で考えるならば、このアルコールティッシュにも可能性は十分にある。
いや、もはや残された道はこのアルコールティッシュにしかないとすら言える。
よし、拭こう。
右手に持って、そっとお尻を拭いてみる。
うん。よくわからんが、とりあえず拭けている気がする。
よし、もう1枚使おう。
再び右手に持って、さっきより大胆にお尻を拭いてみる。
ほぅ。これはなかなか優秀なティッシュではないか。まったく問題ない。最初からこれを選択すればよかったのだ。
もうこれでパンツを履いても問題ないだろう。
と、そう思った次の瞬間、お尻に異変が起きた。
熱い! 熱いぞ!
なんだこれは、お尻が突然猛烈に熱くなってきた……!!
うぐぐぐあぁぁぁぁぁ!!!!
ああ、そうか、しまった、アルコールは粘膜に使用してはいけないんだった!。
くそぅ。最後に残された救いの道に、まさかこんな落とし穴が仕掛けられていたとは……完全に想定外だ!
お尻の熱さはみるみるうちに上昇し、数秒後には痛みに変化するように予想された。
私はとっさにパンツ等を履き、「ながす」のボタンを押し、個室から飛び出ると隣の個室に駆け込んだ
トイレが2つあることは最初からわかっていた。
そしてすぐさま便器に腰を下ろすと間髪入れずに「おしり」と書かれたボタンを押した。
何かが動き始める機械音が聞え、数秒後にウォシュレットが作動した。
ふぅ、危なかった。これでひとまずは大丈夫だ。
お尻に付いたアルコールを流し終え、一息ついた。
お尻は再びびしょびしょになったが、痛みを伴うお尻の変異を避けることができただけで良しとしよう。
現状はふりだしに戻った。
しかもトイレからの脱出の目前での「ふりだしに戻る」であるから、ショックも大きい。
まさかゴールの直前にこんな大トラップを仕掛けるとは、なんという策士か。
しかしさきほどとは大きく変わっている点が1つある。
そう、私は隣の個室に移っている。つまり、こちらにはトイレットペーパーがあるはずだ!
ホルダーを凝視すると、そこには三角に折り畳まれた美しいトイレットペーパーが行儀良く備え付けられていた。
おお、地獄に仏とはこのことか。
私は救われたのだ。
感謝の念でお尻を拭き、個室を出た。
なんという清々しい気持ちだろう。
トイレから出られるという当たり前のことが、当たり前にできるなんて。
いつもより入念に手を洗い、トイレを出て、時計を確認した。
8時05分。
まずい、間に合うだろうか。
かなり急ぐ必要がありそうだが、トイレから危機一髪の脱出に成功したくらいなのだから、どうにかなる気もする。
人間「為せば成る」だ!
妙な自信を身につけて、忙しい一日は始まった。