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現代語訳『般若心経』② - 経典を現代語訳するということの意味 -

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現代語訳『般若心経』② - 経典を現代語訳するということの意味 -

前回、『般若心経』の現代語訳を全文通して書いた。
一文に対する訳が長すぎだろうと、疑問を持たれたかもしれない。
もちろん意図的である。
なぜあのような訳になるのかは、追々詳細に綴っていきたい。
だがその前に、そもそも経典の訳とは何かについて述べておくのが先だろう。

経典を現代語に訳すとはどういうことか

訳とは、インスタントラーメンの食べ方のようなものだと、私は思っている。
原文の直訳は、封を切って袋から出しただけの状態の麺
湯を入れる前の固まったままの麺。
直訳を味わうのは、この固まったままの麺をバリバリと食べるようなもので、食べられないわけではないが、まあ、さほど美味しくもない。
ある意味、本来の味というのか、直接の味を味わうことはできるかもしれないが、それは味を知り尽くした玄人がたどり着く味であって、常人の求めるそれではない。


やはり私は、熱湯を差し、やがて柔らかくほとびた麺に、スープを絡ませて食べたい。
その麺にどんなスープを合わせるか。
どんなトッピングをのせるか。
それによってラーメンはまったく別の表情をみせる。
塩ラーメン、しょうゆラーメン、豚骨ラーメン……。


訳もこれと同じなのではないか。
固まったままの言葉を、どう調理するか
どう補うか。どう輝かせるか
そこに苦心することが訳の持つ味わいになるのであって、正確に訳せば正しいかといえば、そうではない。

戸田奈津子さんの翻訳

海外映画の邦訳も、字幕とセリフとでは大きく異なる。
書き言葉と話し言葉には厳然な違いがあるのだから、それは当たり前のことではある。
しかしたとえば、同じセリフであっても訳す人物が違えば、訳された言葉は違ってくる
翻訳家の数だけ翻訳があるというが、そこに私は面白味を感じずにはいられない。


以前、翻訳家の戸田奈津子さんが講演でこんなことを言っていた。
映画の翻訳の仕事が入ると、1週間その仕事だけにのめり込む。
登場人物たちになりきって、言葉を訳すことだけに専念する。
外国語を日本語に直すのではなく、どのような日本語にしたらもっともその人物の言葉に近づくかに頭を悩ませる
英語では一人称はすべて「I」。
だけど日本語にはいくつもの「I」がある。
自分を指す言葉でさえ、それぞれに意味するものが違っている。
あの人物は自分のことを何と呼ぶだろうか。
「私」「俺」「ワシ」「ぼく」……。


誤訳はあっても、訳に正解はないのかもしれない。
我々僧侶は、経典の意味を伝えようとするとき、もっと訳することの豊かさにふれなければいけないのだなと、戸田さんの言葉に教えられた。
奇をてらうのではなく、本質を捉え、借り物ではなく必ず自らの言葉で綴る。
そうでなければ、現代語「に」訳したことにはなっても、現代語「で」訳したことにはならない
私は『般若心経』を現代語に訳したいのではなく、やはり現代の言葉で訳したい。
自分の言葉で訳したい。
そうでなければ、私はそれをとてもじゃないが現代語訳として人に伝えることはできない。


現代の言語感覚で、自らの思うところを、自らの言葉で綴る。
そうして綴られた訳には、きっと書き手の想いが乗り移っている。
だからそのような文章は読んでいて面白いし、書いても面白いし、そして難しい。
そうやって自分自身で納得できる訳を書こうとすると、自然とあれくらいの分量にはなってしまうのである。

般若心経の独自性

まあ般若心経は少々特殊で、詩のような偈のような、かなり圧縮された言葉の集まりであるから、原語がほとびた時の膨張の仕方が半端ではないという理由も大きい。
インスタントラーメンを一本だけ鍋にいれて煮たら、鍋からこぼれるほどの長さと太さに巨大化するのが『般若心経』だ。
なんといっても般若心経の背後には、大般若経典600巻がそびえ立っているのである。
そのエッセンスを抽出した般若心経は、本当に髄の髄だけを一まとめにしたものであるために、わかりにくいのも仕方がない。
それをきちんと言語化しようと試みれば、必然として骨と肉と皮を補う必要がある。
髄だけでは人に伝わる形にならない。


『般若心経』が説こうとするものは「空」という、存在の在り方である。
この「空」をどう現代語訳するか。
「無自性」「無常」「変化」「非有」……。
それらはまだ直訳の域をでておらず、そのままでは食せない。
単に「空」という言葉を専門用語に置き換えただけだ。
その専門用語を現代の原語感覚で直すから現代語訳となるのである。
ゆえに経典の現代語訳は、一言で訳せないものも多い。
そのような背景を知っていただいた上で、前記事の『般若心経』現代語訳を読んでいただけると幸いである。