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現代語訳『般若心経』② - 経典を現代語訳するということの意味 -


現代語訳『般若心経』② - 経典を現代語訳するということの意味 -

前回、『般若心経』の現代語訳を全文通して書いた。
以下の記事である。未読の方はぜひどうぞ。
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ご一読いただいた方のなかには、原文1文に対する訳が長すぎだろうと、疑問を持たれた方もいらっしゃるかもしれない。
もちろん意図的である。
なぜあのような訳になるのかは、追々綴っていきたい。


だがその前に、そもそも経典の訳とは何か、現代語に訳すことの意味について述べておくのが先だろう。


経典を現代語に訳すとはどういうことなのか

そもそも翻訳というのは、インスタントラーメンの食べ方のようなものだと、私は思っている。
原文の直訳は、言ってみれば封を切って袋から出しただけの状態の麺
湯を入れる前の固まったままの麺。


直訳を味わうのは、この固まったままの麺をバリバリと食べるようなもので、食べられないわけではないが、まあ、さほど美味しくもない。
ある意味、本来の味というのか、直接の味を味わうことはできるかもしれないが、それは味を知り尽くした玄人がたどり着く最終地点であって、常人の求めるそれではない。


やはり私は、熱湯を差して3分待ち、柔らかくほとびた麺にスープを絡ませて食べたい。


その麺にどんなスープを合わせるか。
どんなトッピングをのせるか。
それによってラーメンはまったく別の表情をみせる。
塩ラーメン、しょうゆラーメン、豚骨ラーメン……。


訳もこれと同じなのではないだろうか。
固まったままの言葉を、どう調理するか
どう補うか。どう輝かせるか
そこに苦心することが訳の持つ味わいになるのであって、正確に訳せば美味しいかといえば、必ずしもそうではない。


学術的な視点からと、大衆的な視点からとでは、求めているものが違うということもある。
どの訳が正解かということも一概には言えない。
だからこそ訳を既存の枠のなかに縛り付けて考えることだけはしたくない。

戸田奈津子さんの翻訳

海外映画の邦訳は、字幕とセリフとで大きく異なるという。
書き言葉と話し言葉には厳然な違いがあるのだから、それは当たり前のことではある。


しかしたとえば、同じセリフであっても訳す人物が違えば、訳された言葉は違ってくる
翻訳家の数だけ翻訳があるというが、そこに私は面白味を感じずにはいられない。


以前、翻訳家の戸田奈津子さんが講演でこんなことを言っていた。


映画の翻訳の仕事が入ると、1週間その仕事だけにのめり込む。
登場人物たちになりきって、言葉を訳すことだけに専念する。
外国語を日本語に直すのではなく、どのような日本語にしたらもっともその人物の言葉に近づくかに頭を悩ませる


英語では一人称はすべて「I」。
だけど日本語にはいくつもの「I」がある。
自分を指す言葉でさえ、それぞれに意味するものが違っている。
あの人物は自分のことを何と呼ぶだろうか。
「私」「俺」「ワシ」「ぼく」……。

正しい訳なんて存在しない?

訳に誤訳はあっても、正解はないのかもしれない。
我々僧侶は経典の意味を伝えようとするとき、もっと訳することの豊かさにふれなければいけないのではないかと、戸田さんの言葉に教えられた。


奇をてらうのではなく本質を捉え、借り物ではなく必ず自らの言葉で綴る。
そうでなければ、現代語「に」訳したことにはなっても、現代語「で」訳したことにはならない


私は『般若心経』を現代語に訳したいのではなく、やはり現代の言葉で訳したい。
自分の言葉で訳したい。
そうでなければ、私はそれをとてもじゃないが現代語訳として人に伝えることはできない。


現代の言語感覚で、自らの思うところを、自らの言葉で綴る。
そうして綴られた訳には、きっと書き手の想いが乗り移っている。


だからそのような文章は読んでいて面白いし、書いても面白いし、そして難しい。
そうやって自分自身で納得できる訳を書いていくことが、まずは重要なのだと思う。

般若心経の独自性

訳のなかでも『般若心経』は少々特殊で、詩のような偈のような、かなり圧縮された言葉の集まりとなっているから、原語がほとびた時の膨張の仕方が半端ではないという特徴がある。
インスタントラーメンを一本だけ鍋にいれて煮ただけなのに、鍋からこぼれるほどの長さと太さに巨大化するのが『般若心経』だと思っていただければ、その圧縮の度合いと膨張率をイメージしていただけるのではないかと思う。


なんといっても『般若心経』の背後には、大般若経典600巻がそびえ立っている。
そのエッセンスを抽出した『般若心経』は、まさに髄の髄だけを一まとめにした著作であるため、わかりにくいのも仕方がない。
それをきちんと言語化しようと試みれば、必然として骨と肉と皮を補う必要がある。
髄だけでは人に伝わる形にならない。


『般若心経』が説こうとするものは「空」という、存在の在り方である。
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この「空」をどう現代語訳するか。
「無自性」「無常」「変化」「非有」……。
それらはまだ直訳の域をでておらず、そのままでは美味しく食せない。
単に「空」という言葉を専門用語に置き換えただけだ。


その専門用語を現代の言語で直すことでようやく現代語訳となるのである。
ゆえに経典の現代語訳は、一言で訳せないものも多い。
そのような背景を知っていただいた上で、前記事の『般若心経』現代語訳を読んでいただけると幸いである。