禅の視点 - life -

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私が私を私と認識するから、私がいるように感じられる

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私が私を私と認識するから、私がいるように感じられる

知らない、わからない、ということは恥ずかしいことだと思っていた。
テストでわからないところを空欄のまま提出すると、赤ペンでバツが打たれて返ってくる。
バツがよい道理はないから、知らないことはダメなことだと理解する。
そんな経験が重なって、「知らないことは恥ずかしいことなんだ」と学習してきたのかもしれない。


理由はよくわからないが、とにかく若い頃は知らないことでも知ったか振りをすることが多かった。
たとえ仲間うちでの話でも、知らないことを「知らない」とは極力言わないようにしていた。
言ってしまえば、自分が恥ずかしい人間であると思われてしまうのではないかと、心の隅っこのあたりで感じ続けていた。


高校生の頃、「知ってる」と言い張って、後に引けなくなって友人と口論になったことがある。
必死で嘘をついて自分を守ろうとするあの情けない記憶は、20年経った今でも忘れられない。
何をそんなに意地になっていたのか。
振り返れば情けない以外の何ものでもないのだが、当時はそれで大真面目だったのだと思う。


今、知らないこと、わからないことばかりであるところの人生をはっきりと知って、自信を持って「知らない」と言えるようになった。
この世の中、じつにわからないことばかりである。


世界とは何なのか、自分とは何なのか、存在とは何なのか。
問うて考えることばかりの現実を知って、答えを知らないことなど恥ずかしいことでも何でもなく、当たり前のことであることを知った。


そもそも、知っているかどうかではなかったのである。
重要なのは、知ろうとしているかどうか。
「問うて考える」という、その行為それ自体が大切なのだった。


知らないことを知っていると嘘をつくことが空虚なものであるのはもちろんだが、知らないということを知らないで生きていることもまた同等に虚しい。
知ろうとしなければ、何も知らないままで人生を終えるよりほかにない。
自分について考えることなく、自分の人生を終える。


それでいいのだろうか。
それは一体「誰」の人生だったのか。


この世界や自分といった存在、それが「ある」ことは、じつはとんでもなく不思議なことだ。
この不思議を、不思議と感じるか。
それとも自明のこととして通り過ぎるか。
分かれ道はそこかもしれない。


ただし仏教はその「ある」ことを否定した。
そうかといって「ない」と考えることもまた同様に否定した。
存在は、あるのでもないのでもない。
あるのでもないのでもないのなら、存在とは何なのか。
今ここにいる「私」は何なのか。


真理を知りたいという好奇心、探究心。
そんなものは実生活に役立たないとして、社会に暮らす人。
しかしその社会ですら、問わなければ実体はわからない。
社会とは何なのか。
社会というものが本当に「ある」のか。


社会という言葉によって社会という概念が生まれ、社会という言葉に馴染むことによって社会という概念を実体視していく。
言葉に依らずして思考することは不可能であるが、思考を経ない言葉は、迷妄を生み出す元凶にもなる。
言葉ほど有益で、かつ、有害なものはないのかもしれない。
人は言葉を使うが、その実、言葉に支配されてもいる。


「私」という言葉があるから、私は私を認識する。
もし「私」という言葉がなかったら、私は私を私と認識することができない。
「私」という言葉によって、私は他の人とは異なる「私」として区別される。
それが言葉の機能であり、魔力でもある。


ないものをあるかのごとくに示して識別可能にする言葉の作用を知っていなければ、人は往々にしてそれが本当に「ある」ものだと誤認する。
知っているかどうかより以前に、知るとはどういうことなのか、言葉の魔力を理解した上で、その魔力を使って考えていくのである。


私が「私」という言葉によって私を「私」と認識する。
では、言葉がなかったら、私は何なのか。
言葉以前に存在する私は、何なのか。


一言も発せずに窮するところに到って、禅はいよいよ追い打ちをかけてくる。
「さあ、言え、言え!」