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便利の代償

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便利の代償

雑草がよく伸びる。
夏近き季節となって、寺の目の前にある放棄地となった田んぼも、ご多分に漏れず雑草が生い茂っている。


雑草なんて名前の草はないのだと、そんな言葉を残した人がいるそうだ。
昭和天皇の言葉とも、いやそうではないのだとも言われているが、雑然と生えている草たちはどうしても雑草と呼ばれてしまう。
雑草というのは草の名ではなく、その在り様を指しているように思える。


だからもし、あの雑草と呼ばれる草のなかのどれか1種類だけで田んぼが埋め尽くされていたら、それを見た人は「綺麗な景色だ」と手の平を返したように讃辞を送るのではないかと、私は密かに思っている。
芝生を見て美しいと感じるのと同じように、要は整然としていれば歓迎されるのだと。


「雑にやるから雑用なんだ。お茶を淹れる行為1つだって、丁寧におこなえば雑用になんてなりようがない」
そんな言葉を残した禅僧がいる。
雑にやるから雑用になる、か。
日常生活のすべてが修行であるとする禅の世界にあって、至言とも言える言葉だ。


雑草も雑用も、それ自体が「雑」なものなのではない。雑なのは在り様のほう。
散らかった部屋が「雑」で、整頓すれば「綺麗」となるように、部屋自体が雑なのではない。
それだけは確かである。


ともあれ、田に茂る草が雑草であろうとなかろうと、伸びた草は刈らねばみっともない。
そこでとある休日の朝に、寺の総代を務めていただいている皆さんと一緒に草刈りをすることになった。
この辺りの家には一家に一台は草刈り機があるから、各々がそれを持参した。


まだ小涼しい7時頃に集まり、草刈り機を始動させる。
オイルを混ぜた混合ガソリンを燃料にして、けたたましい音とともにエンジンが動き出す。
ギザギザとした円形の刃が高速で回転を始める。
触れたら怪我どころでは済まないだろうなと、いつも思う。


草むらの中にはマムシもいるから、作業の時は必ず長靴を履く。
そして安全に留意して、ほかの人との間隔を十分にあけて草を刈っていく。
草刈り機を扱うのは多少の危険はあるが、機械の操作自体は何も難しいことない。
右に左に刃を振りながら、いつもと同じように草を刈る。


15分ほど作業したところで、何かを切った。
それは草むらから飛び上がって、地面に落ち、動かなくなった。
仰向けになった白く丸い腹が見えた。
握り拳ほどの大きさをした蛙だった。


思わず目をそらした。
ただひっくり返っただけだと信じたかったが、恐る恐る確認しても、蛙は仰向けのまま動かなかった。
蛙を1匹殺してしまった。


鉛のような鈍く重い気持ちが胸に湧く。
罪悪感。
それ以外に表現のしようがない、息が詰まって呼吸がしにくいような感覚。
何度か深呼吸をして、平静を取り戻そうとした。


1人で作業をしていたら、もうここで止めていたかもしれない。
それくらいショックを受ける出来事だった。
けれども総代の皆さんがわざわざ休日の朝に集まって草刈りをしていただいている以上、自分だけ止めるなどできるはずもない。
肚に力を込めて草刈りを続けた。


1時間足らずで田んぼは整然と刈られ、すっかり綺麗になった。
刈り揃えるだけで雑草であったものも雑草でなくなるようだ。
もし草刈り機を使わなければ、たとえ1日かかっても草刈りは終わらないことだろう。
機械の偉大を思い知る。


と同時に、便利になったがゆえに払うこととなった代償もまた思い知る。
高速で回転する刃を用いた除草作業効率は絶大だが、刃はなぎ払うものを選ばない。
命さえもなぎ払う。


「便利になった」とは要するに、相応の代償を払うかわりに「楽ができる」「短時間でできる」「上手にできる」といった利点を得るということだ。
決して利点ばかりなのではない。
あらゆる物事は必ずつながり合っているから、何かが動けば、連動して別の何かに影響がでる。


車という便利な機械も、交通事故によって亡くなる数多の人命の犠牲を伴っている。
2019年の交通事故死者数は3532人。
1992年の1万1452人からほぼ毎年下がり続けてきてはいるものの、それでもまだ年間に3000人以上の方々が車の事故で亡くなっている。
「便利になった」のは物事の一面であり、その他の面には便利になったがゆえの代償が記されている。


便利になるということは、別に「良い」ことなのではない。
何かが便利になり、別の何かに歪みが生まれるという、そういうことである。
そして私たち人間は一度手に入れた便利を放棄することができずに、歪みを少なくするほうに力を注ぐ。
けれどもどうしたって限界はある。


機械は高性能かもしれないが、それを扱う人間の性能は上がってはいない。
なんだか人間のほうまでアップグレードされている気になるかもしれないが、そんなことはないのである。
だから便利の弊害が消えることはない。
きっと今後も私たちは、幸せを求めて、新たに別の不幸せを生み出していくのだと思う。


草刈りを終えて解散となったあと、田んぼの畦を歩きながらお経を唱えた。
蛙だけではない。きっと何百何千何万という小さな虫たちの命を奪ってしまったに違いない。
鎮魂のつもりで唱えたお経だったが、懺悔のためといったほうが心情には合っていたかもしれない。


あれは虫たちのためではなく、結局は自分が許されたいがために唱えたお経だったのか。
自分でもよくわからない。