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仏教って、なに?

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仏教って、なに?

僧侶の一番の使命は、仏教と説くこと
なので、「仏教って、なに?」という問いに答えることがもっとも重要な僧侶の使命なのですが、こうしたある種漠然とした、広範囲を対象とした問いに答えることは、実際には難しいものです。


なぜ難しいのかといえば、一口に仏教と言っても、実際にはいくつもの側面があるため。
仏教という立方体のどの側面から答えるかで、仏教とは何かという問いに対する答えが変わってしまうのです。


そこでここでは、仏教という言葉を文字どおり「ブッダ(仏)の教え」と受け取り、ブッダは何を説いたのか? と解釈して、次のように答えたいと思います。

ブッダは何を説いたのか

人間は、自分をとりまく生活環境をどれだけ快適なものにすることができたとしても、必ず、どうにもならない問題に直面することになります。
その代表が、老病死。
そしてこの人生最大とも言える問題に対して、どのような対処が可能なのか、仏教(ブッダ)が命題としたのはそこでした。


仏教は、「人生には避けることのできない老病死をはじめとした重大な問題が立ちはだかっている」という自覚から出発します。
苦から出発するのが仏教なのです。
したがって仏教とは、苦悩する人にとっての教えであると、ひとまずは言うことができるでしょう。


逆に言えば、こうした問題を自分自身の身におこる「自分の問題」として自覚していない人に、本気で仏教を学ぶ理由はありません。
学ぶ必要がない、と言ったほうがより適切でしょうか。
健康な人に薬を施す必要がないのと同じように、苦を感じていない人に仏教は必須のものではないのです。


「自分は死ぬ」という自覚を持ち、どうしようもない恐怖を感じ、どうにかしてこの問題を乗り越えたいと切実に願う人にとって、仏教ははじめて意味ある教えとなります。


学問としての仏教に大した意味がないのは、仏教が提示する答えは、知っているだけでは意味がないものばかりだから。
答えを知ることと、答えにそって生きることは、まったくと言ってよいほど意味が異なります。
重要なのは答えにそって実際に「生きる」ことであって、「知る」だけでは不完全です


したがって、どれだけ仏教書を読もうと、仏教の話を聞こうと、仏教を理解したと思おうと、それは仏の教えの入口に立ったにすぎず、問題は何一つ解決されていないのです。


私たちが死を「怖い」と思うのは、じつは妄想にすぎません。
一言で言ってしまえば、仏教が示す答えはそれです。
この妄想を、妄想であるとはっきり見破ることができるか。
そのために仏の教えを学び、その教えを血肉として生きていくわけです。


なぜ人は妄想を真実と思い込むのか。
それは、真実を知らないから。知ろうとしないから。
そうした無知を仏教では無明と呼びますが、あらゆる苦悩の根本的な原因はこの無明にあると、仏教は考えました。


怖いと思うのは、自分が損なわれると思うからですが、そもそも自分などというものが本当にあるのか。
突き詰めて考えれば、自分などという固定的な存在はどこにもない。
これが「無我」の教え。


あらゆるものは変化するという理のなかにある。
不変を求めれば、その瞬間に理から外れ、絶対に得られないものを求めるがゆえに苦しみが生じる。
これが「無常」の教え。


そして、こうした認識の根本にあるのが「縁起」の理法です。
物事には必ず原因があり、原因は必ず何らかの結果に結びつく。
そのように世界は常に関係し合っており、独立して存在するものも、不変のものも存在しない。
そのことを仏教では「縁起」と呼んでいます。


このような縁起の目で世界を見れば、あらゆるものは無我であり、また無常であると見ることができます。
仏の教えの根幹をなすものはこの縁起なのです。


「縁起をみる者は法をみる。法をみる者は縁起をみる」
『阿含経』「中部経典」のなかにみることのできる、至言とも言える一文。


「法」とはブッダの教えのこと。
つまり、縁起とはブッダの教えであり、ブッダの教えとは縁起であると言えるほど、縁起というものは仏教の中核をなしています。


仏教とは、存在の真実を明らかにしようとする教えであり、そして明らかにした真実にそって、実際に生きることを説く教えです。


これが「仏教ってなに?」という質問に対する総論としての私の答えになります。
具体的な各論について知りたい方は、過去記事をどうぞ。。。