僧侶はサラリーマンで、寺院収入は免税
そう。そうなのである。
僧侶はサラリーマン(給料生活者)なのだが、その事実はほとんど世間に知られていない。
たまに「坊さんは非課税だからいいよなぁ」というような話がされることがあるが、非課税なのは宗教法人である寺院の収入に対してであって、僧侶の収入に対してではない。
じつは僧侶は宗教法人(つまりが寺院)のもとで働く被雇用者という位置付けであり、宗教法人から俸給(サラリー)を受け取っている。
寺院からサラリーを受けとって生活しているから、僧侶はサラリーマン。
そして僧侶自身の収入は、当然のことながら課税の対象となっている。
非課税なのはあくまでもお寺の収入のみというわけだ。
宗教法人にはなぜ免税措置がとられるのか
では、なぜそもそも宗教法人の収入は非課税なのだろうか。
宗教法人は税法上、公益法人に含まれる。
公益法人とは、公益性の高い事業を提供する法人のことである。
一口に公益性と言ってもいろいろあるが、早い話が、国民の福祉の向上に資する事業をおこなっていることが公益性の指標であると、とりあえずは理解しておいていいだろう。
ちなみに、株式会社や有限会社といった、いわゆる一般企業のほとんどは収益法人であり、自社の利益・収益を増大させることが目的となっている。
もちろん企業も広い意味では国民の利益を追求していると言えるが、目的は収益をあげることであり、その方法として人々の需要を満たすサービスを提供しているにすぎない。
つまり最終的な目的は自社収益なのであって、公益ではない。
国民の福祉の向上に資する事業とは、これは本来であれば国や地方自治体といった行政がおこなうべき仕事である。
それを特定の法人が担っているということは、実質的に行政の仕事を肩代わりしているということを意味し、そのかわりに公益法人は免税措置がとられているという、これが宗教法人の収入が非課税になる理屈である。
公益法人は税金を納めるかわりに、事業によって税金分の働きをしているというわけだ。
お布施は対価ではない
一般的な商取引では、商品やサービスを提供することで、その対価としての金銭を受け取る。
しかし、寺院が受け取るお布施はそうした対価ではなく、お礼の意味で受け取る金銭と言える。
法事で考えてみよう。
我々僧侶は檀家さんから先祖供養の法事の依頼を受けることがよくある。
先祖供養をおこなうことは、子孫が安心と感謝の心を持って生きることにつながるため、それは国民の福祉の向上に資する事業と言える。
法事をおこなったあと、僧侶は檀家さんからお布施を受け取ることがあるが、これは法事というサービスの対価ではなく、法事を勤めた僧侶、または寺院へのお礼の意である。
その証拠に、お布施には寺院側からの金額の提示がなされない。
もしこのお布施が対価であれば、寺院側から料金の提示と請求がなければおかしい。
しかし、そのような請求を寺院側がおこなうことはない。(一部の寺院ではあるのかもしれないが)
実際、法要のあとにお布施をいただくことがないというケースは少数であるものの存在し、その場合、口が裂けても「御布施をください」などとは言わない。
お礼に関することを、お礼を受ける僧侶が口にしたら、どう考えたっておかしな話になるだろう。
さらに、お布施はお礼の意であるから、寺院側があらかじめ「お礼はOO円でお願いします」と金額を提示するのもおかしい。
お布施は「お気持ちでけっこう」なものでなければおかしいのだ。
お礼とは、気持ちのことなのだから。
料金化の功罪
ただし、実際には葬儀や法事のお布施の金額を提示している寺院はいくつも存在する。
それは、料金を提示しなければ施主が金額で悩んでしまうという、新たな問題の解決のためになされている場合が多い。
そしてその方法を、檀家さんも概ね肯定的に受け止めているように見受けられる。
しかしならがお布施の金額を提示するということは、どうしても「ある問題」が付随してくる。
何が問題かと言えば、料金を提示しないことが商取引ではないことの証しであり、寺院が公益法人であることの証明の最たるものであったため、その証明を失うということは、寺院が公益法人であることの根拠が希薄になるということだ。
公益性が高いということは、相手を選ばないということである。
どんな人にも等しくサービスを提供するから公益性があるのであって、たとえば富裕層にだけしかサービスを提供しないのであれば、公益性があるとは到底言えない。
もし、葬儀の金額を仮に100万円と定め、その金額が払えない檀家さんがいて、実際に寺院側が葬儀をおこなわなかったとしたら、その寺院の公益性はかなり揺らぐ。
その姿勢に収益法人との差異を検出することは難しく、免税措置がとられる理由も薄まると言わざるをえない。
公益法人であれば、葬儀の依頼がくれば、まずは葬儀をおこなうことが前提でなければおかしいだろう。
そしてその後、施主がお礼としてお布施を持参されたら、それを受け取る。
もちろん金額について言及することはない。
施主はお礼の意味でお布施を渡すのであるから、そこに寺院側から金額の提示がなされることはない。
したがって、どれだけ経済的に困窮している人でも、誰もが葬儀というサービスを受けることができる。
こうした内容であれば公益性は十分に担保されていると言え、免税である理由も客観的に納得できる。
布施という運営スタイル
仏教はその創始から約2500年もの年月を経て、現在もなお世界各地で隆興している。
その仏教が教団を維持していくためにとった方法は、人々からのお布施に頼るというものだった。
一般の人々からのお気持ち(善意)によって自分たちの生活に必要なものをまかなう。
1回の食事ですら自分たちで用意することはなく、すべて人からいただくことによって生活を続けてきた。
一見すると、なんという不安定で脆弱な生活基盤かと思うが、事実として、この教団運営スタイルによって仏教は2500年間も存続し続け、しかもただ存続しただけでなくその勢力を大幅に広げていった。
こうした任意のお布施による生活が仏教教団にとって教団運営の大前提であったのだが、このスタイルに新しい変化が生じている。
布施(気持ち)ではなく、料金化という激的な変化である。
これによって安定的に収入を獲得できるようになると、料金化に踏み切った寺院は思っているのだろうが、はたして未来は安泰と言えるのだろうか。
寺院から料金が提示されれば、当然、施主も対価として金銭を払うことになる。
それはもはや自発的なお礼ではなく、寺院側からの請求に応じて支払う対価であり、そこに「御布施」という文字が書かれてあったとしても、もはやそれは布施ではありえない。
一般的な商取引である。
料金化すれば安定的に収入を得ることができるようになる部分もあるだろうが、お布施がお布施(お気持ち)であることが、宗教法人が公益法人であることの最大の根拠であったのに、それを放棄するということは、自らが公益法人であることの根拠を放棄し、免税措置の理由を放棄するということでもある。
自らの手で自らの首を絞めるという愚行を犯していないと断言できる人はいないだろう。
檀家さんもまた、寺院に対して公益性を感じることが少なくなり、徐々に収益法人とみなされるようになるかもしれない。
それは寺院離れや仏教離れの原因にはなっても、決してその逆にはならないだろう。
安定と堕落
それから、経済的安定が僧侶の堕落をもたらすという可能性も捨てきれない。
人々からの善意に頼っていた時代は、僧侶は人々から善意の施しを受けるだけの人物でいなければならなかった。
怠けてばかりの人間に施しをしようとする人はいないからである。
だから僧侶は、常に研鑽を積んでいる必要があった。
しかし、努力しようと怠けようと、どちらにしても同じ収入が得られるということであれば、堕落のほうへ傾くのが欲である。
安定が破滅をもたらすかもしれないという危惧が、杞憂であることを願いたいが、はたしてどうなっていくのか。