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不幸なわけじゃない

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不幸なわけじゃない

何歳で亡くなったって、不幸なわけじゃない。
若くして亡くなる。年老いて亡くなる。
どちらもその人の一生涯である。
他人の人生と比べてどうこう言うことじゃない。


自分の生涯は1つしかないのだから、生きた軌跡のほかに、その人の生涯なんてものは存在しない。
だから存在しない「その後」や「もし」を想像して悲しむことはやめよう。
それはどこまでいってもあなたの想像なのであって、その人の生涯ではないのだから。


生涯とは、生まれてから亡くなるまでの日月のこと。
もし、子どもの時に亡くなったのだとしたら、それがその人の一生涯。
一生涯には長いも短いもない。ただ1つの生涯である。


たとえば虫のなかには、成虫になって1日で息絶えるものもいる。
それもまた一生涯、全寿命である。
余すところもなく欠けるところもない。
1つの寿命なのだから、長いはずも短いはずもない。


けれども人間はこれを短いと感じる。
なぜか。
何か別の生き物の寿命と比べて物事を考えるからである。
人の寿命と虫の寿命を比べて、この虫の寿命はあまりにも短いと判断をするからである。


人間と虫を比べれば、寿命の長短は歴然だろう。
しかしなぜ比べる必要があるのか。
なぜ1つの生涯に対して、部外者である他人が長い短いを言う必要があるのか。
その生涯はその人だけのものだ。
長いのでも短いのでもなく、1つの生涯を生きた、比べることのできない、その人だけのものである。


木のなかには何百年、何千年と生きるものもある。
たとえば樹齢800年の老杉と自分を比べて、自分は杉の10分の1しか生きられないから可哀想だと考える人がいるのか。
人はそうやって自分のことを短く可哀想な人生だと思うのか。
もしそうなのだとしたら、その思考こそを「可哀想な思考」と呼ぶべきである。


なぜ比べる必要がある。
何歳で亡くなろうと、その人の人生はその生涯で完結している。
その人はその人しかいないのだから、その生涯がその人そのものだ。
その人でない「何か」と比べて、一人の完結した人生を、誰かの人生と勝手に比べて、勝手に価値判断を下して、勝手に可哀想と言うのは、亡き人に失礼なだけではないか。


悲しいと感じること自体は自然なことだ。
あなたが悲しいと感じること、それ自体は疑いようのない事実である。


しかし自分が悲しいのと、その人が不幸であると断定するのは、似ているようでまったく意味が異なること。
誰かの生涯を勝手に可哀想などと思わないでほしい。
何も欠けてなどいない。
何も短くなんてない。
1つの人生だったんだ。
可哀想だと思ってしまったら、誰よりも悲しむのは、その人だろう。


若くして死のうと、年老いてから死のうと、それは短いのでも長いのでもない。
命が1つである以上、そこに短い長いを言うことはできない。
1つの命が生きた人生は1つしかないからである。
1つであるものを比較するのは迷妄にほかならない。


「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と、そんな歌詞の歌があった。
これに対してある人が別のことを言った。
「自分はナンバーワンになりたい。だって、ナンバーワンになったら、絶対にオンリーワンでしょう」


言いたいことはわかる。
1位は1人だけだから、オンリーワンのようにも思える。


が、違う。
オンリーワンとは、そういう意味じゃない。


比較した上での最優秀を意味する「1位」と、比較することのできない「1」を混同してはいけない。
「1位」は位であって人ではない。
自分は「1」なのであって、「1位」であろうとなかろうと、最初から「1」なのである。
自分はこの自分しかいないのである。


悲しむことは否定しない。
人が亡くなれば悲しい。
でもそれは不幸なのではない。可哀想なのでもない。


どんな人生も、ただそれだけで「1」である。
比較することさえしなければ、最初から何も欠けてなどいない。


だから不幸だと思わずに、可哀想だと思わずに、笑顔で生きていこう。
その人のためにも、あなたのためにも。


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