禅の視点 - life -

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『大法輪』と私

大宝輪

『大法輪』と私

本屋の雑誌コーナーから仏教総合雑誌『大法輪』がなくなっていることを、寂しく思った。
6月発売の7月号をもって休刊。
もうじき9月となる今、白い表紙に明朝体レタリングで「大法輪」と揮毫された、あのお馴染みの表紙を見ることはもうないのかと思うと、残念でならない。


出版元である大宝輪閣からは、次のような文章が発表されている。

月刊『大法輪』休刊のお知らせ

 長年、読者の皆様にご愛読を賜りました小誌『大法輪』は、2020年7月号(6月8日発売号)をもって休刊させていただくことになりました。

 小誌は1934年9月、仏教の大衆化を目指し、特定の宗派にとらわれず、仏教を信仰の対象として広めることを目的として創刊いたしました。これまで、澤木興道・山本玄峰・足利紫山など名僧をひろく紹介し、毎号、仏教者・仏教学者・哲学者・文学者・芸術家 等々の幅広い執筆者の協力を得て、変化する時代に応え、さまざまな切り口で仏教や他宗教などの特集連載などを掲載して参りました。

 創刊から87年、永年ご愛読いただきました読者の皆様、ご執筆をいただきました先生方のご協力に心から感謝申し上げますとともに、突然の休刊にて大変恐縮ではございますが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

二十歳の頃に出家して、その後、永平寺へ修行に行き、帰ってきてからは寺の仕事のほかに執筆の仕事もするようになった。
そのきっかけになったのが、『大法輪』でエッセイの連載を持たせていただいたことだった。


昔から文章を書くことが好きだったとか、執筆の仕事をしたいと思っていたとか、そんなことはまったくない。
大学に入るまでは本を読むことすらまともにしてこなかったような人間である。
文章を書くことが日課になるなど夢にも思わかった。


そんな人間が縁あって仏教と出会った。
在家の生まれで、仏教について何も知らずに、むしろそんな古臭いものを信仰する人の気が知れないと思っていたが、いざ仏教を学んでみれば、ブッダによって2500年も昔に語られた言葉の数々が現在でもなお輝きを失わずに、むしろ混迷する現代でこそいよいよ明度を増して光輝くのを目の当たりにし、出家を志すまでに影響を受けた。


そして、いざ出家したならば、自分が受けた感銘を人にも伝える努力をしなければ出家した意味がないと一念発起し、拙いながらも文章を綴るようになった。
だから私にとって文章を書くということは、僧侶として取り組むべき仕事(仏教を伝える)をしているといったもので、特別なことをしているという思いはない。
仏法を伝える方法として、文章を選択したというだけのことである。


最初は見様見真似でエッセイを書き始めた。
仏教に限らず、というよりも仏教のエッセイで面白いと感じるものはあまりなかったから、いろいろな作家のエッセイを読み、読み、読み、書き、というような毎日を送った。


広くエッセイを学ぶという意味において、もっとも参考になったのは光村図書出版の日本文藝協会編『ベスト・エッセイ』。
この本は、その年に発表されたエッセイのなかから選りすぐりの作を集め、一冊の本にまとめたものである。
名だたる作家のエッセイが短い文章のなかで切れ味鋭く、テンポよく綴れており、その妙味をこれでもかと味わうことができる。
毎年1冊刊行されることも含め、エッセイを学ぶ者にとってこれほど参考になる本はないだろう。


『ベスト・エッセイ』は、以前は文藝春秋から出版されていたのだが、2012年から光村図書に移った。
もっとも、主旨が同じというだけで、まったく同じ本というわけではなく、編者も文藝春秋のときは日本エッセイスト・クラブだった。


また両者には大きな違いが1つあって、光村図書では選考の対象となるエッセイはプロの作のみだが、文藝春秋のときは選考の対象にアマチュアの作も含まれていた。
だから目次の欄には、初めて見る名前も珍しくなかった。


何気ない日常を繊細な言葉で豊かに綴るプロと、圧倒的なストーリー性をもった題材で非日常の作を綴るアマ。
もちろんすべてがそうというわけではないが、どちらのエッセイからも学ぶことばかりで、書くという経験と、日々の実体験のどちらもが欠かせないものであることを痛感した。


そうして1人で累々とエッセイを書き続けていたのだが、1年も経たたないうちに壁にぶち当たった。
推敲を重ねて書き上げた文章について、自分ではもはや良し悪しといった判断をつけることができなくなったのである。
客観的に読もうとしても、どうしたって主観を取り除くことができない。


そこで他者から見てどうなのかを知りたくて、エッセイのコンテストに応募してみることにした。
全国公募のコンテストで上位入賞できれば、自己満足ではなく客観性も担保できるだろうという目論みである。


結果、最優秀賞には一度も届かなかったものの、次点の優秀賞をいただけるくらいにはなれた。
そこで、これをもって最低限の文章力は身についたと判断し、以後、仏教や禅を題材にした、自分の書きたいエッセイを書き始めた。
そうしたなかで『大法輪』の仕事をいただけるようになり、休刊となるまでのあいだ毎月エッセイを寄稿させていただくようになったというわけである。


1つ、思い出すことがある。
大法輪へ最初のエッセイを納品した際、肩書きはどうしますか、と訊かれたことだ。


真っ先に頭に浮かんだのは僧侶としての肩書きである「霊泉寺副住職」。しかしすぐに考え直した。
人間にはいくつもの側面があっていい。
僧侶であることはもはや揺らぐことのない大前提なのだから、物書きとしての自分があってもいいじゃないか。
そこで、「エッセイスト」という肩書きを持つようにした。


エッセイストという肩書きに資格はいらない。
誰もが自分でそう名乗れば、それで事足りてしまうなんともゆるい肩書きである。


しかしながら、ゆるいだけに逆に勇気もいる。
資格なら試験に合格すれば有資格者として自他ともに疑いようがないが、そういった明確な基準がないだけに、名ばかりになってしまいかねないのがエッセイストである。
そうなっては少々恥ずかしい。


だからエッセイストと名乗るのは、いわば背水の陣。
もはや後には引けない状態を作り、どうしたってエッセイを書かざるをえない状況に身を置く。
僧侶が僧衣を着ていれば僧侶として生きるよりほかにしょうがないのと同じようなものだ。
要するにこの肩書きは楔なのである。怠けやすい自分が仏法を伝える者で在り続けるための。


『大法輪』は、その一歩を踏み出す勇気をくれた本だった。
だからこの恩は忘れられない。
書き続けることで、その恩に報いていきたいと思う。


さいごに、大宝輪閣様へ。
長年にわたる『大法輪』の編集、お疲れさまでした。
編集者の方々には、的確なアドバイスをいただくことも多く、大変お世話になりました。
機会をいただき、育てていただき、本当にありがとうございました。


佐藤隆定 九拝