まとめ - ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの違いと共通点 -
ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスについて、以下の記事でそれぞれの特徴などを考察してきた。
・ヨーガとは
・瞑想とは
・坐禅とは
・マインドフルネスとは
がしかし、そもそもの目的はそれらを単体で捉えることではなく、差異と共通点を探ることであった。
そこで今回はまとめとして、再度これらを比較してみたい。
4者の関係
ヨーガや瞑想といった言葉は、一体何を意味する言葉なのかがわかりにくい。
そしてそれ以上に、それぞれがどのような関係にあるのかがわかりにくい。
そこでまずはヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの関係を明らかにしておきたい。
瞑想のための技法
この4者のなかで歴史上、最初に登場するのはヨーガと瞑想である。
ヨーガは技法であり、何のための技法かと言えば、瞑想するための技法である。
つまり、「ヨーガという技法を用いて瞑想する」という構図がまず成り立つ。
紀元前5、6世紀になるとインドに仏教が興り、仏教ははるか昔からインドに存在していたヨーガの技法を仏教の修行の1つとして取り入れた。
目的はやはり、瞑想をするためである。
その後、仏教がインドからシルクロードを経由して中国に伝わると、膨大な数のあらゆる仏教用語が漢字に訳されていった。
そのなかで、瞑想(サマーディ)は「禅定」と訳された。
禅定は「禅」とだけで表記されることもあり、また反対に「定」とだけで表記されることもあるが、どちらも「禅定」のことであり瞑想を意味している。
この「禅定」を、坐って行うのが「坐禅」であると、基本的には言うことができる。
時代は進み、20世紀に入るとマインドフルネスという技法が登場する。
ストレス緩和法として考え出された、瞑想のための技法である。
つまり、ヨーガも坐禅もマインドフルネスも、すべて瞑想のための技法という関係にあるのだ。
それではヨーガと坐禅とマインドフルネスは同じものなのかと言うことになるが、それは少し違う。
何が違うかと言えば、目的である。
どれも瞑想を目的としているのに違いはないのだが、その「瞑想」が意味するところが異なっているのだ。
そこで次に、この3者が瞑想をどのようなものと考え、どのような目的のために瞑想をしたのかについて比較していきたい。
瞑想の目的
ヨーガや坐禅やマインドフルネスは、何を目的としているのか。
これを知ることで、それぞれの違いが鮮明となる。
技法である点では同じでも、目的には最も本質的な違いがあらわれるからである。
ヨーガの目的
ヨーガの目的は、瞑想の末にあるディヤーナと呼ばれる精神状態にいたること。
それは究極的には、梵(宇宙)と我(自分)とが融合されるような瞑想状態と表現され、梵我一如とよばれる。
巷で流行しているヨガは座法や呼吸法に特化したものが多く、このような精神性を説かないことも多いようだが、座法や呼吸法は瞑想の深化のために存在する。
精神性を過度に説かないのは、宗教的な要素を極力排除したいという思いが絡んだ結果だと思われる。
ただし、瞑想そのものには本来なんら宗教的な要素は存在しない。
瞑想とは心を整えようとする営みであり、それは誰の身にも日常的に起こり得る現象である。
宇宙などというといかにも神のような存在に結びつきやすいが(そのように説く人もいるが)、梵とは全存在という意味であり、有り体にいえば大自然のことである。
自然と自分とが一体になるような瞑想を目指している、くらいに受け取っておいたほうがいいのではないか。
坐禅
坐禅に目的は、ない。
坐禅をすること自体が目的であるといえるため、坐禅をした時点で目的は果たされてしまっている。
「欲しい」「欲しくない」、「求める」「求めない」といった、相対的な世界から脱却することが禅であり坐禅であるため、坐禅に目的はないと言わざるを得ない。
目的が生まれた時点で、坐禅は坐禅ではなくなるという矛盾。
禅において「無」が標榜されるのはそのためだ。
また禅では、坐禅を日常生活のなかに活かすことがもっとも重要だと考えられている。
歩く坐禅、食べる坐禅、寝る坐禅、排泄する坐禅。
日常生活のあらゆる事柄を坐禅の心で行うことが修行にほかならないというわけである。
それなのにあえて坐禅を重要視するのには、やはり理由がある。
それは、坐禅のように静かに身を整えるという方法を用いることが、心を整える上で最も効率がいいからだ。
坐って禅を行ずることができなければ、歩くなかで禅を行ずることは到底できない。
あらゆる行為のなかで最も容易なのが、坐って禅を行ずることであるため、坐禅が基本となっているのである。
したがって坐禅とは、ヨーガのような究極的な瞑想状態を目指すものではない。
むしろ、坐禅を理想的な「正しい状態」として捉え、あらゆる行動の見本に見立てるような位置付けであるといえる。
したがって坐禅の目的は忘我ではなく、理想の実現であるといえる。
マインドフルネス
マインドフルネスの目的ははっきりしている。
これは、瞑想による効果を社会の諸分野に応用させること。
具体的には、ストレスの緩和や集中力の増大によって、医療・心理・ビジネス・スポーツ・教育・福祉などのさまざまな分野でこれを有益に応用しようとする試みである。
ヨーガや坐禅のように、淡く掴み所のないものを目指しているのではないため、意図するところがはっきりとしていてわかりやすい。
瞑想による諸効果を日常生活に活かす。
目的がはっきりと定まっている。
またマインドフルネスでも瞑想を行うわけだが、ヨーガのような忘我状態にいたる深い瞑想を目指しているわけではない。
むしろ瞑想というよりも「集中」といったほうがいいくらいの、割と浅い意識の瞑想であると考えたほうがいいように思う。
これは、ヨーガと坐禅が瞑想によって何かを得ようとは考えていないのに対し、マインドフルネスでは何かを得るために瞑想を行っているという違いによるものだと考えられる。
補足
最後に一つだけ。
物事を比較する上で気を付けなければならないのは、違いは必ずしも優劣ではないということだ。
ヨーガが深い瞑想で、マインドフルネスが浅い瞑想だから、ヨーガのほうが優れているかというと、そのようなことはない。
目的によって違いが生まれるのは当然である。
比較することによってそれぞれの進む方向がどう異なっているかを知りたいのであって、どの方位が優れているかを知りたいのではないし、それはまた知り得ることもできない。
北が優れていて、南が劣っている道理などないだろう。
あっさり味とこってり味に優劣がないのと同じことである。
優劣を見ようとするのは我見によるものであって、それは結局思い込みや予断・偏見の類いでしかない。
違いはそれぞれの性質・特徴であって、どっちが優れているとか、どっちが劣っているかという話ではない。
だから、もしこの一連の記事を読んでヨーガなり坐禅なりマインドフルネスなりに興味を持ち、体験してみようとするなら、自分に合うであろうものを自分で考えて選べばそれで何の問題も生じない。
優劣は存在しないのだから、方向性だけを理解し選べばいい。
また、これまでにヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスについて述べてきたが、その具体的は技法についてはあまりふれてこなかった。
いや、正確には、ふれることができなかった。
それは個々人が各々体験して学ぶことであるから、というのがもっともらしい理由だが、本音はもっと単純で、私自身、技法について詳しく知っているのは坐禅だけだからである。
泳ぎ方を学ぶのと同じで、いくら座学にいそしんだところで、実際に水の中に入らなければ永遠に泳ぎ方は会得できない。
体験した知識こそが本物の知識となっていくのは、どうしようもない事実なのである。
なお、ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの各詳細について知りたい方は、以下の記事を参考にどうぞ。