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【禅語】 他は是れ吾にあらず - 他人は自分ではない -

他は是れ吾にあらず,禅語,椎茸,道元禅師

【禅語】他は是れ吾にあらず(たはこれわれにあらず)

自分のことは自分で行う。
自分の仕事は自分で全うする。


それはいわば当たり前のことであるが、その当たり前を主題にした禅語がある。
それが「他は是れ吾にあらず


日本曹洞宗の開祖であり、福井県の大本山永平寺を開いた禅僧でもある、鎌倉時代に日本から中国へ海を渡った道元禅師(どうげんぜんじ)が、留学先の寺院で出会った禅語である。


中国のとある寺院での話。

中国に留学中の若かりし道元禅師が、ある夏の日、寺の廊下を歩いていたときのことである。
空には真昼の太陽が高く上がり、辺りを容赦なく照らし焦していた。
ふと、目線を中庭に移すと、直射日光を浴びながら黙々と瓦の上に椎茸を干している年老いた僧の姿が目に映った


さぞかし老身にこたえる仕事のように見えた。
心配になった道元禅師は、近づいて声をかけた。


「失礼ですが、あなたさまはおいくつですか?」
「68歳になる」
「それほどまでに修行を積まれた方がこのような身にこたえる仕事をせずとも、もっと若い修行僧に任せたほうがよろしいのではないでしょうか?」


日本からやってきた道元の頭には、食事の準備というような仕事は若い僧が行うことだという思いがあった。
当時の日本では食事は下っ端の仕事だったからである。
だから老僧が汗水を流しながら椎茸を干す姿が不憫に思えてならなかったのだろう。


すると老僧はこんな言葉を返した。


「誰かにやってもらったのでは、自分でしたことにはならんからのぉ」
これが「他は是れ吾にあらず」という禅語の意味である。

自分のこと、他人のこと

他人がしたことは、自分でしたことではない。
当たり前の、それだけの言葉なのだが、これはちょっと奥の深い言葉なのだ。


誰かがしたことは、誰かがしたことなのだから、自分でしたことではない。
私たちはこれを当たり前のことと思うが、時にこれが当たり前ではなくなることがある。
他人が代わりにしてもいいのではないかと、「自分」というものを思考の外に放ってしまうことがある。
ちょうどこの年老いた僧に声をかけた時の、道元禅師のように。


道元禅師の思いは、「椎茸を干す」という行為に焦点を当てていたのであって、「老僧が何をするか」に思いをめぐらせていたわけではない。
誰が椎茸を干そうと、干せればそれで問題ないじゃないか。
はっきりとそう意識しての言葉であったかはわからないが、とにかく思考の底にはそのような思いがあったはず。
だから、若い修行僧に代わってもらえばいいのだという言葉が出た。


しかし、老僧にとって重要だったのは、「自分が何をするか」であって、「誰が椎茸を干すか」ではなかった
「自分が」椎茸を干すことに意味があるのであって、「椎茸を干す」ことだけが目的なのではなかったのである。


自分で自分の本分を全うすること以上に、大切なことなどない。
それが禅の根本であることを、暗に道元禅師に伝えたのだろう。


もちろん道元は、老体に気を遣って声をかけたに違いない。
しかし、本当に気を遣うとはどういうことか、老僧は逆に道元禅師に伝えたのだ。
相手に楽をさせることが、必ずしも気遣いではないのだと。


仮に、この椎茸を干す仕事を若い僧に代わってもらったとする。
それでちゃんと干し椎茸ができ上がったとしても、それは他人がしたことであって、自分がしたことではない。
あとに残る事実は、自分は何もせず、若い僧侶が椎茸を干した、ということだけである。


椎茸を干すことが目的なら、それでもよかったのかもしれない。
しかし、日常生活のすべてを修行として行うことを重んじる禅にとって、そうした考えは邪であると言わざるをえない。
修行を取り上げるような声かけは、禅において親切とはいえない。
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難しい心遣い

誰かが修行をして、それで自分が成長するはずなどないことを知っていながら、それでも誰かにしてもらえばいいのではないかとの思いを、私たちは抱くことがある。
しかしそれは、本当にその人のことを考えた上での気遣いではない。
気を遣うとは、その人にとってどうすることが本当にその人のためになるかと考えて行うことであって、単に楽をさせることではないからである。


人がご飯を食べて、それで自分の腹が膨れることがないように、あるいは人にトイレで用をたしてもらって、それで自分の便意が消えることのないように、誰かがしたことは自分でしたことにはならない。
自分がしなければ、自分はしなかったことになる。
自分で為したことだけが、自分に帰結するのである


この話は現代にもそのまま通じる話である。
たとえば、トイレ掃除は新入社員の仕事だと思っていて、朝早くに出社してトイレ掃除をしようと思ったら、なんと社長がトイレ掃除をしていたという実話がある。


「社長っ、私が代わります」
と慌てて駆け寄ると


「いや、あなたにやってもらったら、私は掃除をしなかったことになるからねぇ」


そんなふうに返されたものだから、新入社員はどうしていいかわからなくなったという話である。
なんとまあ、禅僧のような社長がいたものだ。

他人は自分ではない

人が自分を肯定できるのは、自分のやるべきことを行えている時
ゆえに自分のやるべきことをやろうとしている人に、「代わります」は愚問なのである。


それよりも、あなたはあなたのやるべきことをしっかりと全うしてもらいたいと、相手は考えているのではないか。
気を遣うとは相当にややこしく難しい行為であるが、少なくとも、自分本位で気を遣うのではなく、相手が何を望んでいるかに主眼をおかなければならないことだけは確かである。
それはたとえば、ボランティアの精神にもそのまま通じる。


「他は是れ吾にあらず」
他人は自分ではない、という単純で当たり前な、しかし奥の深い禅の言葉。


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