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ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの違いと共通点【瞑想篇】

瞑想とは何か - ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの違いと共通点 -

前回はヨーガについて述べた。
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今回はその続きでもある瞑想について。

日常生活における瞑想

瞑想は何も特別な行為ではない
たとえば何かスポーツをしていて、ミスが続いてしまった、または重要な局面を迎えたとする。
そんな時に、心を落ち着けようと一度立ち止まって眼を閉じて深呼吸をする姿を目にすることがある。
あれだって立派な瞑想である。


あるいは休日に公園に散歩に出かけて、ベンチに腰掛けて一休みしたとする。
耳に届くものは木々の葉が風にそよぐ音ばかり。
何を見るでもなくぼーっと辺りを眺めていると、頭が空っぽになっていた
それだって一種の瞑想であるといえる。


他にもたとえば、小学生の夏休みの風物詩、ラジオ体操の最後には深呼吸をする。
あれで瞑想の効果を得ようとするにはいささか時間が短すぎるが、それでもあの深呼吸が何を意味しているかといえば、心を落ち着かせることであり、行き着く先はやはり瞑想の範疇であるといえる。


つまり瞑想をしようなどと意識しなくても、瞑想をしている状態を私たちは日常生活のなかで数多く経験しているのだ。
それを、より能動的・意識的に行おうとするものが、瞑想と呼ばれるものである。


瞑想の意味

瞑想を定義するとすれば、私は次のように瞑想というものを捉えている。
心が整った状態
これに「心を整えようとする行為」を含ませることももちろん不可能ではないが、状態のみを指したほうがより自然に感じられる。
瞑想か瞑想でないかは、瞑想状態にあるかないかの違いであると思うからである。


ただし、辞書などで瞑想という言葉を引くと
「目をつむって深く考えること
という解釈が記載されている場合が多い。
深く考えることが瞑想……なのだろうか。瞑想状態にあるとき、頭のなかで何かを深く考えているだろうか。
少なくとも、私はそうではない。
というか瞑想をしている人にとって、この「考えること」という言葉に違和感を覚えない方はごく少数なのではないか。


たとえば、会社で重大な問題が発生したとする。
1時間以内に解決策を考え出さなければならない。
そこでAさんは眼をつむって深く思索をめぐらし、考え込んだ
Bさんも解決策を考えようとしたが、心が慌てていて考えることに集中できない。
そこで心を静めるために、まず15分ほど何も考えずに眼をつむった
そうして心を落ち着かせて窮地を脱する打開策のひらめきを得ようとした。
AさんとBさんが眼をつむったのを見たCさんは、2人が同じ瞑想に入ったと考えた。
端から見れば、どちらも眼をつむってじっとしているので同じに見えるからだ。


しかし、実際に眼をつむった2人の意図するところには違いがある。
Aさんは集中力を高めるために視覚を遮断して思考に意識を集中させようとしたのであり、Bさんは心を落ち着かせるために視覚を遮断して意識を心へと向けたのである。
Aさんの行為も広義の瞑想には含まれるかもしれないが、瞑想という言葉が指す本義はBさんにあると考えるのが妥当ではないか。
私は基本的にそう考える。
だから「考えること」という解釈にはどうも同意しかねる。


ただし、瞑想というものが、そもそも何かを得るために行われるものであることを考えた場合、心を整えようとしたBさんも、結局は心を整えた先にある「何か」のために瞑想をしたことになる。
それならば、AさんとBさんは段階的な違いがあるものの、その目指すところは同じであるとも考えられる。


したがって、辞書にあるような「深く考えること」という解釈であっても、あるいはそれとは逆に「何も考えずに心を統一すること」と解釈しても、どちらも的を外しているわけではないのかもしれない。
外界からの刺激を遮断して、意識を内に向けることが、広く瞑想というものであると考えることにも一理はある。


瞑想の起源

ところで、そのような瞑想が起こったのはいつなのか。
これはやはり、ヨーガにその源を見出すことができるだろう。
ヨーガが目指していたものは、座法や呼吸法によって瞑想を深める点にあった。
ヨーガとは瞑想(禅定など)によって梵と我を合一させるために体系化されたメソッドであり、そのヨーガの中心に位置するものこそが瞑想なのである。


ただ、前述したとおり、瞑想は特別なものではない。
仮に瞑想という言葉を知らなくても、ごく浅い瞑想状態を経験することなら普段の生活のなかにもある
何かに集中しようと思い、意識を外から内に向ければ、それはもうすでに瞑想の入口に立っていることになるからだ。


したがって、瞑想の起源は、人類の起源にまで遡ると考えることも不可能ではない。文献や資料を根拠にして、はるか大昔の人類が瞑想を行っていたことを立証することは難しいが、人が瞬間的に瞑想のような状態を作りだし、経験していたと考えることは、むしろ自然だろう。

結論 - 瞑想とは何か –

瞑想というものを考える場合、瞑想をどう定義するかで導き出される答えは異なってくる。
心が整った「状態」を指すのか。
それとも、心を整えようとする「行為」を指すのか。
それだけでも大きく変わる。


もし瞑想というものが、行為そのものを指すものとなれば、瞑想とヨーガはほとんど同じものと考えられる。
瞑想にいたる課程もまた、瞑想になるからである。
いや、それはおかしい。やはり瞑想とは状態であると考えるならば、瞑想とは外界からの刺激を遮断して、内界に意識を向ける営みとなるだろう。
こちらのほうが、解釈としては自然だろうか。


また、瞑想の深度も瞑想を考える上では重要となってくる。
つまり、ラジオ体操の最後の深呼吸は、瞑想の入口であったとしても、瞑想とは呼べないのか。
単に問題を解決しようと集中することは瞑想ではないのか。
心に雑念が浮かばず、精神が一定の静寂を得た境地のみを、瞑想とよぶのか。
実際、ヨーガの8つの段階においては、⑦のディヤーナの状態を瞑想と位置付けている。
狭義の瞑想から、広義の瞑想まで、瞑想を考える際にはどの視点から瞑想を捉えるかによって、多様な解釈が可能となる。


以上を踏まえて、瞑想の特徴を以下に挙げる。
瞑想とは、

  • 必ずしも宗教的な行為ではなく、非日常な営みでもない
  • 外へ向かう意識を内側へと向け、精神的な静寂を得ようとする営み
  • 熟慮、集中といった、比較的浅い瞑想状態から、精神がある境地に達するというような深い瞑想状態まで存在する(狭義には、熟慮や集中は瞑想とは考えない)
  • ヨーガにおいては、8つの段階のなかの7番目のディヤーナを指す