坐禅とは何か - ヨーガ、瞑想、坐禅、マインドフルネスの違いと共通点 -
坐禅について。
今回は少し内容がディープなものになりそうである。
坐禅が自分の専門分野であることも理由の一つだが、それ以上に、ヨーガと坐禅の違いが僅かしか存在しないからだ。
ただ、その「僅か」が今回の記事のすべてであるとも言える。
坐禅の源流
禅宗の修行の根幹をなすものとして、坐禅がある。
右の足先を左の腿の上にのせ、左の足先を右の腿の上にのせる。
いわゆる結跏趺坐(けっかふざ)の形を作り、両手で法界定印(ほっかいじょういん)を結び、背筋を伸ばして呼吸を調えて静かに坐る。
これが、坐禅である。
こうした坐禅の技法はどこに端を発するのか。
これは、ヨーガの発生にその起源を求めることができる。
というよりも、ヨーガこそが坐禅の母体であったと考えたほうがいい。
モヘンジョ・ダロで発見された印章に描かれていた坐禅をする人間の図は、まさにこの坐禅の姿そのものであるからだ。
坐禅の姿は、はるか昔から存在していたヨーガの座法(ポーズ)のなかの一つなのである。
ということは、坐禅はヨーガのなかの特定の1ポーズに的を絞って受け継がれてきた修行法ということになるのだろうか。
それは9割正しく、1割間違いである。
ただ、重要なのはその1割なのだ。
どういうことか。
ヨーガから坐禅へ
坐禅は、紀元前5世紀頃、ブッダによって生み出された修行法である。
見た目や技法はヨーガそのものを受け継いでいる。
ただ、特定の1ポーズで坐っているというだけでは、坐禅にはならない。
仮に姿や形が現在の坐禅と同じであったとしても、それはヨーガである。
坐禅とヨーガを分かつものについて、順を追って考えてみる。
ブッダは、王子としての贅沢な暮らしに虚しさを覚え、出家をして城を出た。
そして、2人のヨーガの師に参じ、修行をし、その技法を極めたが、残念ながら心の平穏は得られなかった。
精神が一種の忘我状態にいたるような特定の境地に至っても、結局、老・病・死の恐怖から逃れることはできなかったのである。
それは、当たり前といえば当たり前のことである。
どのような境地になっても、死自体から逃れることはできないからだ。
それでもブッダは、何か方法があるはずだと信じ、次に苦行という方法を選んだ。
肉体を衰弱させることで、苦しみから解放されるという、当時のインドの思想に準じてみたわけである。
しかし、これもダメであった。
6年もの長きにわたって苦行を続けたが、肉体が皮と骨になっただけで、心の安らぎなど得られなかった。
苦行に見切りをつけたブッダは、川の水で体を浄めると、一本の菩提樹のもとに坐った。
それはいわゆるヨーガの座法の一つであったが、坐禅が生まれたのはこの時だと考えられる。
ヨーガの姿とまったく同じでありながら、ただ一点だけ、ヨーガとは異なっていたと考えられるものがあるからだ。
それは、坐ることの目的である。
1割の違いとは、この目的を指す。
坐禅の目的
ヨーガの目的は、瞑想によって一種の忘我状態に至ることであった。
それは梵我一如(ぼんがいちにょ)とよばれ、宇宙と自分とがつながるような境地にいたることだとされる。
まあ、そこまでいかずとも、心が安らかになる「何か」を手に入れようとする営みであるであることに間違いはない。
しかし、このときのブッダは、そのような境地を目指していたのではないと考えられる。
ヨーガは、生きることの根本的な苦のメカニズムを明らかにしようとするものではなく、心の瞑想状態に主眼を置いたものであることを、すでに経験として知っていたからだ。
釈尊は、ヨーガによっても、苦行によっても、真に平穏な心に到達することができなかった。
もうどうしようもない。何の手がかりもない。
心の平穏が何なのかもわからない。
何もわからない。
そうして坐ったとき、ブッダの心には、何も求めるものがなかったはずである。
求めることができなかった、といったほうが近いのかもしれない。
八方塞がりで、どうすることもできなかったのだ。
だから、ただ坐った。
坐禅とは、この「ただ坐る」ことを指すのである。
坐禅は、何かを求めるのではなく、求めようとする心によって歪んで見えてしまう世界の実相を、正しくありのままに受けとろうとする営みである。
だから、坐禅をする目的は、何も求めないことにほかならない。
しかし何も求めないことを求めては、それは一つの求めになってしまうから、求めないこともまた求めない。
「無」と表現してしまってはいかにも安上がりだが、要はそういうことである。
物事をありのままに見るがために、心をニュートラルな状態に保ちたいのであって、何かを得たいのではない。
得たいという、真実をゆがめる心を放り捨てたいのである。
死を、ただ「死」とみる。
「怖い」「嫌だ」「逃れたい」という思いから死を見れば、死は怖くて嫌で逃れたいものになる。
物事をありのままに見るとは、それらの思いから離れて、死を「ただの死」として観ることをいう。
禅における悟り
菩提樹の下での坐禅は、8日間にわたって続けられた。
そして8日目の、明けの空に輝く星を見て、ブッダはある悟りを開いた。
そのときの言葉を、現代の言葉に訳せば、次のようになる。
「ああ、そうだったのか、驚いたな。眼に映るものすべてが、真実そのものだったとは」
私はこの言葉を、事象の全肯定だと思っている。
老・病・死から逃れたいと思い続ける限り、その苦しみからは逃れられない。
だから
老いを、一つの真実として受け止める。
病を、一つの真実として受け止める。
死を、一つの真実として受け止める。
老・病・死を、紛れもない真実の現象として、自分の思いをはさまずに受け入れることで、苦しみが苦しみでなくなった。
苦しみから逃れようとさえしなければ、「苦」という感情は心に起こらなかった。
ブッダが苦しんだのは、老・病・死から逃れようともがく心から生まれた感情であって、老・病・死そのものが原因ではなかったのである。
苦を生み出していたのは「人は必ず死ぬ」という現実ではなく、そこから逃げようと乱れ揺れる自分の心のほうであった。
「禅」の語源
最後に、「禅」という名前からヨーガとの関係をみてみる。
禅とは、ヨーガの8つの段階のなかの⑧ディヤーナを指した言葉だ。
ディヤーナという言葉を意訳すると禅定(ぜんじょう)となり、そこから「定」が落ちて禅となった。
「禅定」であっても、「禅」であっても、意味するところは同じである。
つまり、ヨーガから見れば坐禅とは、結跏趺坐という座法によってディヤーナに至る修行法と解釈することができるというわけだ。
ただ、前述のとおり、ヨーガの指すディヤーナは精神状態であり、禅の指すディヤーナ(悟り)は真実の感得であるため、両者の言葉は同じでも意味するところには違いがある。
結論 - 坐禅とは何か –
以上を踏まえて、坐禅の特徴を挙げてみる。
坐禅とは、
- ヨーガから生まれた特定の坐法を中核とする修行法
- 忘我的な精神状態を目指すのではなく、真実をそのままに感じとろうとする営み
- 得るのではなく、離れること
- 語源としては、ヨーガの⑧の段階であるディヤーナに相当する
- ヨーガと禅は概ね似たものであるが、目的に関しては異なっている