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輪廻とは何か?何が輪廻しているのか? 【身近な仏教用語】

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輪廻という言葉の意味【身近な仏教用語】

輪廻という言葉を聞いて、あなたはどんなことをイメージするだろうか。
「死んだら別の何かに生まれ変わる」
「どこかの世界に生まれ変わる」
それは犬とか猫とかかもしれないし、人間かもしれない。もしくは天上という楽ばかりの世界かもしれないし、苦ばかりの地獄かもしれない。
このような、いわゆる「生まれ変わりの思想」のことだと考えたりはしないだろうか?
もしそうだとすれば、その認識について改めて考えてみたほうがいいかもしれない。


というのも、私も出家する以前は輪廻というものを生まれ変わりの思想のことと考えていたのだが、禅僧となって日々いろいろと考えているうちに、どうもそうとは思えなくなった。
仏教でいうところの輪廻という言葉が意味しているのは、おそらくそのような生まれ変わりの物語のことではないようだと。
少なくとも、輪廻という言葉の解釈には3つの考え方が可能であって、輪廻を生まれ変わりのことと捉えるのはそのうちの1つの解釈でしかない。
しかも、生まれ変わりと捉えるのはもっとも仏教的でない考え方だと言わざるをえないのである。


しかし生まれ変わりのことではないのなら、輪廻とは一体何を指した仏教用語なのか。当然そこが疑問となる。
そこで、輪廻という仏教用語についてどんな解釈が成り立ち、その解釈についてどう考えることが仏教的なのか。そのあたりについて掘り下げてみたい。


①生まれ変わりとしての輪廻

通常、世間一般的な理解としての輪廻は、おそらく次のようなものである。
人は死後、肉体や物質的なものではない精神的な何か、いわゆるとよばれるようなものが身体から抜け出し、別の命に宿り、次の人生を生きるようになる
それはこの人間の世である場合もあれば、六道、つまりは「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」のどこかの世界となる場合もある。
生前に善い行いをしていてば善い世界へ生まれ変わることができ、悪い行いをしていれば悪い世界へ生まれ変わる。
輪廻という言葉を、このような意味として理解している人は少なくないと思われる……いや、普通、輪廻といえばほとんどの人がこう考えるのではないか。


しかし、よくよく考えてみれば、これが仏教における輪廻の正統な理解だとは到底考えられない。
なぜなら、仏教を仏教たらしめる根本原理は、無常無我といった言葉に代表されるように、固定的存在が実存することの否定にある。
不変なものは存在しないのに、それがあたかも存在するかのように誤って認識し、その認識に執着することで苦しみを感じるのが人の世の苦の真実。
そこに警笛を鳴らしたのが仏教である。


したがって存在というのは常に変化を続ける流動的なもので、変化をしない固定的な実体は存在しないと考えるのが仏教の大前提。
この無常の理を仏教では「空(くう)」と呼んでいる。
もっとも有名な経典といわれている『般若心経』に書かれている内容も、この「空」に関する事柄だ。
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また、このような無常の真理は「信じる」部類に属するものではなく、信じようと信じまいとに関わらず確かに事実として存在している事柄であることから、真実とか真理と呼ぶに値するものとなる。つまりが普遍的な事実だ。
対して、信じるとは、それが本当かどうか不明であるから信じるのである。
「事実」であることがわかっているものを、「信じる」とは、普通誰も言わない。


ブッダは仏教の創始者であることから、何かすごい法則を編み出したとか、創りだしたとか、考え出したと思われがちだが、そういった神格化されるような事実は何もない。
ブッダは人間だ。私たちと何も変わりはしない。
ただし、ニュートンが万有引力という自然の法則を発見したように、ブッダもいくつかの法則に気付いた。
無常や無我といった自然の法則をである。
そして、その真理から人の苦悩の正体を突き止め、安らかに生きる術を残したという点において、尊ぶべき聖者となった。


変化しないものが存在するという、固定的存在を前提とした思想は、「本当に正しいことは何か=固定的存在は存在しない」と考える仏教の考え方と方向を異とする。
仏教の根底にあるのは無常や無我といった思考であり、仏教とは何か、あるいは仏教ならどうやって考えるかということを検討する上で、無常や無我に沿った思考であるかが、仏教か否かを判断するもっとも的確な基準といえるのである。


生まれ変わりの思想がなぜ仏教的なものではないかといえば、魂というものを永遠に消滅しない不変の実体として考え、その魂こそが「自己」の核となるものだと考えているからである
つまり、魂という概念は無常・無我と矛盾する概念なのだ。
不変のものはないとする「無常」と、あらゆる存在は自性を持たないとする「無我」に矛盾する思想である生まれ変わりは、したがって仏教ではなく「信仰」の部類に属する宗教観である。
実際のところ、輪廻は仏教が説いたものではなく、古代インドの信仰として仏教が発生するはるか以前からインドに存在していた。
ここもよく誤解されやすいのだが、輪廻とは仏教が説き始めた思想ではまったくない。


身の回りに当たり前のように漂っている空気のように、意識するまでもなく存在していたr輪廻という思想。
ブッダはそんな輪廻の思想を明確に肯定も否定もしなかった。
したがって、生まれ変わりの思想自体を否定する理由はないが、それを仏教と称することは適切ではない。
よく誤解されることがあるが、仏教が輪廻という思想を打ち出したわけではないという事実だけは、まずしっかりと認識しておかなくてはいけない。

無常・無我だから、輪廻は間違いか?

無常や無我といった事実は、何があっても動かない。
この存在認識は仏教の根本である前に、実際に世界はそうなっているという事実そのものであるからだ。
そのため、不変の実体としての魂が登場する生まれ変わりの思想を、僧侶は受け入れたがらないことも多い
だから輪廻を積極的に説くことはせず、できれば曖昧なままにして触れることなくすごしていこうとしたりもする。
場合によっては、無常や無我といった仏教的思考と輪廻は矛盾しているから、ブッダは輪廻を説かなかった「はず」だ、と主張されることもある。
輪廻とは後世において考え出された思想にすぎないのだとする言説である。


しかしそれは、輪廻という言葉を「生まれ変わりの思想」とのみ理解しているから引き起こる事態なのであって、そもそも輪廻という言葉の理解が間違っているとすれば、はじめから何も矛盾していないのかもしれない
私が言いたいのはそこである。
ブッダは輪廻をとかなかった「はず」というこじつけをする前に、改めて輪廻について考えてみることのほうが建設的だろう。
そこでどのような解釈が可能なのか、それを次に述べてみたい。


②行為の作用としての輪廻

仏教の根本思想として無常や無我という考え方があるとは前述のとおりだが、もう1つ、縁起という考え方も忘れてはいけない。
下の記事でも縁起を扱っているが、ざっくばらんに言えば縁起とは、物事が生じるには多種多様な原因があり、そのはかりしれない数の縁によって結果が生じているという考え方である
この縁起という考え方と輪廻が非常に近しい概念であると考えたのが、②の「行為の作用としての輪廻」だ。
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原因によって結果が生じ、その結果がまた1つの因となって別の果に結びついていく。
行為は作用をもたらし、作用によって生じた結果は、それ自体が新たな行為のもとになり次の作用をもたらす。
エネルギー保存の法則によって、エネルギーが性質を変えながらも決して消滅するわけではないことと同じように、作用は性質を変えて影響を継承し続ける。
つまり縁起でいうところの原因とはこの作用の影響力であり、結果とは作用によって生じた変化のことと言える


たとえばシーソーは必ずどちらか一方が上がり、反対側が下がっている。
上がっている側を下げることによって、反対側には上がるという作用がもたらされ、その関係は永続的に繰り返される。
行為は作用を生み、作用によって生まれた結果は次の行為と結びついて新たな作用を生む。
言ってみれば、輪廻しているものはこの作用の影響なのである。


死後、人は亡くなっても、その人が生前に及ぼした作用による影響は、必ずなんらかの形で存在し続けている。
近所の人と世間話をしたという行為も、それで近所の人は何らかの影響を受けたことになり、死後、遺族に故人の生前の様子を語るかもしれない。
こんな話をしたりね、こんなことを言っていたよと。
それが行為によって生じた作用が死後も永続的に続いていくという、輪廻の仏教的な解釈であると私は考えている。
輪廻とは、魂のような実体が生まれ変わりをすることではなく、行為の作用が変化を続けながら永続的に継承されていくことなのだと。

輪廻転生の意味

輪廻転生という言葉はいかにも生まれ変わりを連想させる言葉である。しかし仏教的にこれを考えれば、転じて生まれるとは、行為の作用によって常に結果が生じ続けることを意味し、そのエネルギーのごとき作用力は性質を変化させながらいつまでもこの世界をめぐり続けている、と考えたほうが適切ではないか。


そしてそうであれば、そこに魂を持ち出す必要性はまったくない。
魂というような不変の存在があるのではなく、姿や性質を変えながら作用力が継承され続けるのだという理解は、不変の自己を主張するものではないから無我とは矛盾しないし、不変の存在も主張しないから無常とも矛盾しない。
つまり輪廻とは、因があって果が生じ、生じた果がまた1つの因となるという縁起の理解をベースにし、その永続的なループ(環)を廻り続けているエネルギーの循環を指していると解釈することが可能なのだ。


したがって輪廻は常に起きており、死後にのみ起こるものではない。
仏教や禅では時間とは線ではなく、点、点、点、と非連続である点が刹那に出現しては消える非連続の連続と捉えるが、輪廻はこの非連続の連続そのものといえる。
一瞬一瞬のあいだに輪廻は生じている。何が輪廻しているかといえば、行為による作用だ。
あるいは作用によって生じたエネルギーのようなものとも言い換えられるだろう。
そしてこの作用とかエネルギーのことを、仏教では「業(ごう)」と呼んでいる。


業も輪廻と同様、仏教において問題を孕んだ概念とされているが、私が思うに、問題なのは輪廻や業といった概念のほうではなく、その解釈にあると思えてならない。
業の問題などについてはまた別の機会に詳述するので、ここでは業もまた1つの法則を示す仏教用語であって、事実の一端であるということのみ記述しておく。


以上のように、輪廻という概念は魂を前提とした生まれ変わりの思想ではなく、行為によって生じた作用が影響を残し、その影響によって次の行為が生まれるという永続的なループを指した言葉であると考えたほうが仏教的な解釈としてふさわしい
では次に、これとはまた別な視点からの解釈について述べておきたい。


③心の状態の比喩としての輪廻

輪廻という仏教用語をもう少し具体的に「六道輪廻」として考えてみたい。
輪廻とのみ言えば「輪のようにいつまでも廻り続ける」というほどの意味だろうが、これに六道がつくと「六道の世界をいつまでも廻り続ける」という意味になる。
六道。すなわち、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の6つの世界。
この6つの世界を輪廻するという思想が、六道輪廻である。


この六道輪廻という思想を、実際の場所としてそのような世界が存在するのではなく、また魂のようなものが生まれ変わることでもなく、これは心がコロコロ移ろうようすを表現した、言わば比喩に過ぎないのだとする解釈が存在する
これが③の「心の状態の比喩としての輪廻」だ。


六道の世界は、細かくいえばそれぞれの世界にそれぞれの特徴があるが、ここではそのようなことまで考える必要はないので、ざっくり大まかに、修羅・畜生・餓鬼・地獄は辛い世界、人間は苦楽半ばの世界、天上は楽な世界とだけ認識しておこう。
そして、人が1日のなかで心の状態をコロコロと変化させていく様を、六道を輪廻することに見立てているというのが、この主張の大筋となる
具体的にみていこう。


たとえば寒い冬の朝、蒲団のなかで目覚めたとする。
温かくて気持ちいい蒲団のなかにいる感覚は「楽」ばかりの天上の心、極楽気分そのものだろう。
しかし次の瞬間に嫌なことを思いだしてしまったりもする。今日は苦手な取引先との会議の日だったとか、始末書を提出しなければいけないような失敗をしたことを思い出したとか、あまりのんびりとしていると遅刻してしまうとか。
「楽」ばかりの心であったところに、にわかに「苦」が生じる。天上の心から人間の心になる


それで仕方なく蒲団から這い出てくるのだが、朝ご飯を食べながらも「もっと美味しいものが食べたいな」と、貪りの餓鬼の心が生じたりもする。
家を出てからも色々で、通勤ラッシュの電車に乗ったら、やっぱり今日も超満員で「苦」だらけの地獄の心が顔を出す。
揺れた際につま先を思いっきりおじさんに踏まれたりして、「この野郎」と修羅の心で怒れてきたりもすれば、「おっ、あのコ可愛いな」と畜生の心が芽生えたりと、心はじつにコロコロと移り変わる。
定まることなく心は転がり続け、6つの世界を廻り続けている。

心が世界に意味と名前を与えている

このような移ろいやすい心のありようは、まるで六道を輪廻し体験しているかのよう。
しかしそれは所詮解釈のレベルにとどまるのでは? との疑問を抱く人もいると思われるので、輪廻を心の状態を表現した比喩だとする解釈が決して的外れな考え方ではないことについても述べておきたい。


そもそも地獄や極楽といった概念は、そう自分が感じるからそう名付けられるのであって、そう感じなければ極楽にも地獄にもなりはしない。
つまり、先に地獄や極楽が存在するのではなく、それを地獄や極楽と感じる心が、その場所を地獄や極楽として認識していくというのが順序としては正しいのだ
心と関係なしに世界の意味を規定することはできない。これは考えてみれば当たり前の事実なのだが、とても忘れられやすい。


もし平和な天上に生まれたとしても、そこの暮らしがつまらなすぎて苦痛に感じる人がいるかもしれない。
酒も飲めない、煙草も吸えない、パチンコも打てないという天上の暮らしの、どこが「楽」なんだと。
逆に、地獄に生まれたいと願って地獄に生まれたとしたら、その人にとって地獄は願いどおりも場所なのだから、その人にとっては極楽であると考えることもできる。
夜回り先生こと水谷修先生は、大下大圓老師との対談と書簡とをまとめた『手放してみる ゆだねてみる』という書籍のなかでこんな思いを述懐している。

もしあえてあの世があるというのなら、僕は地獄に行きたい。償いたいですね。殺した子たちに。だって、今の僕ならば亡くした子どもたちの三割や四割は死なせなくてすんだのに。当時は自分のスキルアップが間に合わなかった。

この言葉を聞く限り、水谷先生にとって地獄とは、一種の救いの世界として意味付けされているように思える。
地獄という名の極楽というわけだ。


極楽が苦痛で、地獄が極楽。これは一体どういうことなのか。
簡単である。極楽や地獄という決定権を有しているのは、場所のほうではなく、そこをそのように感じる1人ひとりの心にあるということだ
世界の意味は、常に「その人にとって」の意味しか存在しないのであって、誰にも共通する意味が具わっているわけではない。
世界自体に意味はないのである。
それに意味付けをする自分が存在するだけであって


したがって、心に関係なく極楽や地獄が存在するというのは、端的に誤りだ。
あくまでもそれを極楽と「感じ」、地獄と「感じ」るという感覚の中にしか極楽も地獄も存在しえないのであって、場所として存在するのではない。
以前、仏教系雑誌『大法輪』(平成28年第8号)で、地獄や極楽という概念の矛盾をテーマに「箸先の行方」と題したエッセイを書かせていただいたが、そこでも外界として地獄や極楽が存在するという考えは成り立たないことを扱った。
それは心が感じるものでしかないのだと。
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世界を感じる心が、その世界に意味と名前を付けていく。
順序として、先に名前の付いた世界が存在するわけではないことを知ると、この③の説が間違ったことを言っていないことに気が付く。
私たちの心は常に移ろい続けることで、様々な苦楽の世界を感じ取っている。
先に存在するのは場所ではなく心であるから、心がそう感じれば、確かにそこには心が感じた世界が表出していることになる。
心というものは、確かに刻々と六道の世界を輪廻し、六道の世界を表出させているのだ。だから心を問題とせずに先に外界としての六道を設定することはおかしい。
心がそれをどう感じるか、つまり心と場所の関わり合いのなかで世界は名付けられていくのだから、関わりを持つ前から名前をつけることなどできはしない。


今日、これから遊びに行く場所が楽しい極楽か、それとも思いがけない不運に見舞われる地獄かは、行ってみなければわからないだろう。
極楽も地獄も、先に存在しておくことはできないとは、それと同じようなものだ。


まとめ

以上、輪廻に関する3つの解釈を述べてきた。

  • ①輪廻するものは魂だと考え、生まれ変わりの信仰として解釈する。
  • ②輪廻するものは作用だと考え、行為の作用の永続性として解釈する。
  • ③輪廻するものは心だと考え、心の状態の比喩として解釈する。

少なくともこれら3つの解釈が可能なのであった。


こうして俯瞰してみれば、輪廻するものは魂だと断定することが適切であると、どうして考えることができるだろうか。
むろん、仏教以前からインドに存在していた輪廻思想は、まぎれもなく①の解釈である。
しかし仏教的に考えれば、実在としての魂を規定する①の解釈はむしろ最も仏教的ではないものと理解できる。
霊魂や死後の世界といった事柄については無記(あるともないとも言わない)という対応を貫いたブッダの姿勢はじつに意義深いものであって、そのことを考慮した場合、①の解釈はもっとも仏教的解釈から遠いものと考えるのが妥当だろう。


もちろん、生まれ変わりとしての輪廻思想が信仰として意味を有していないということではない。
チベット仏教では、輪廻とは生まれ変わりの思想そのものと理解しており、それは豊かな死生観を育んでもいる。だから意味がないのではない。
ただ、仏教本来の考え方からすれば、魂の実存を規定するのは仏教的ではないということだけは確かだ


③の解釈は、私もそう思っていた時期が長らくあり、間違ったものではないと今でも思っている。
唯心論ともいえるほどに心を重視する仏教において、この理解はむしろ登場するべくして登場した解釈とさえ言えるだろう。
ただ、輪廻とは単に解釈の問題ではないはずだとの懸念も、私は常に感じていた。それは比喩にとどまる概念なのではなく、やはり現実の法則を指した言葉なのではないかと。
比喩としてではなく、「何か」が実際に廻り続けているというニュアンスがブッダの言葉や祖師の言葉の端々から感じ取れるものだから、その何かを考えることはやはり重要なことなのだと考え続けていた。
それで、②というわけだ。


②の解釈は単なる解釈にとどまらず、確かにそうだと頷くことのできる論理性を具えている
仏教の根本的な概念はすべてそう。仏教が科学的だといわれるゆえんだろう。
これらを総合的に理解しておけば、仏教が何を言わんとしているのか、輪廻という仏教用語が何を指しているのかが、多少なり見えてくるのではないかと思う。


輪廻は業の概念と非常に関係が深い。
もはや不可分の関係にあるとさえ言えるもの同士であるから、この次は業についても述べておきたい。
業を扱う際には慎重を期すようにと常々言われるが、慎重になるのと語らないのではまったく意味が異なる。
誰かが誰かをいじめた際、ただ傍観してそれを見ているだけなら、それはいじめの黙認であり共犯者である。
語らなければ、黙って現状を認めることになってしまう
業を説明すれば、仏教の根本である無常・無我・縁起・苦といった事柄にも触れないわけにはいかないので、いつかはこのあたりの関係性についてもまとめておきたい。