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【禅語】 同事 - 相手の立場に立つということの意味 -

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【禅語】同事(どうじ)

同事という禅語がある。
「事を同じくする」と書いて同事と読む。
「時を同じくする」の同時ではない。


この「事を同じくする」とは、違わないということ。
違わないとは、相手と同じ立場に自分も立つということ
この「相手の立場に立つ」ということの本質を見事に突いた、私の大好きな話があるので、まずはその話を紹介させていただきたい。


転んだ連れ合い

昔あるところに老齢の夫婦がいた。
2人は町を歩いていて、やがて1本の橋に差しかかった。
ゆっくりと橋の上を歩きはじめたのだが、途中でおじいさんがつまずいて転んでしまった


少しだけ後ろを歩いていたおばあさんは、それを見てビックリ。
慌てておじいさんのもとへ駆け寄っていった。


しかし、おばあさんはおじいさんのもとへ近寄ると、手を差し伸べるでも、声をかけるでもなく、おじいさんの横で自分も転んでみせたのだった。


「おい、ばあさん、何をやっとるんじゃ?」
「えっ? 何って、じいさんを助けようと思って」
「ああ、なるほど」


おじいさんとおばあさんはむっくと立ち上がると、誰にも見られなくてよかったねと笑い合って、そのまま橋を渡っていった。


おしまい。

相手の立場に、実際に立ってみる

この短い話の何が好きって、ずばりおばあさんのとった行動である。
おじいさんの横で自分もこけるという、この発想。
これは出そうと思ったところでなかなか出る発想ではない。


普通だったら、「大丈夫?」と声をかけながら起き上がるのを手伝おうとするのではないか。
しかしおばあさんは違う。
自分も転ぶ


しかもそれが、おじいさんを助けるという明確な意図を持った上での行為なのである。
このおばあさん、只者じゃあないな。


仮にここで、おばあさんがおじいさんに心配の声をかけたとしよう。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
もちろんそれだって悪くはない。


ただ、それは僅かながらおじいさんとおばあさんの間に立場の違いが生まれてしまっている。
心配しているのはもちろん本心からなのだが、心配の域を出ないと言うのか、どうしても自分と他人という分け隔てが残ってしまっている


結局のところ、相手を慰めるとか、同情するという方法は、自分と相手とが分かれてしまっているのだと思う。
その方法では、どれだけ親身になろうとしても、本当に相手と同じ立場に立つことはできないのかもしれない。


だからそうではなくて、このおばあさんのように、まさに相手と同じ立場に立ってみることが、相手をの気持ちを理解する上ではもっとも大切なことなのだと、この同事という禅語は説いているようにも思える。


学校のテストで欠点をとってしまってショックを受けているとき、90点の友達からどのように励まされようと嫌味にしか聞こえないが、「俺も欠点だったぜ」という人物が登場すれば瞬時に安心するのと似ている。

同事というは不違なり

道元禅師はこの同事という禅語を端的にこう説明している。
「同事といふは不違(ふい)なり」


冒頭にも書いたので改めて訳すほどでもないが、同事というのは「違わないこと」という意味である。
相手と自分とが違わないこと。
相手の立場に立つとは、まさに自分と相手とが違わないことにほかならない


努力する人の横で自分も努力する。
泣く人の横で自分も泣く。
笑う人の横で自分も笑う。
転んだ人の横で自分も転ぶ。


それが同事という禅語の意味であり、相手の立場に立つということの本当の意味。
相手の立場に立つなどと仰々しく言うと、小難しいような、上から目線のような傲慢な印象を受けることもあるが、もしかしたらそれは思ったよりもずっと簡単なことなのかもしれない。
実際に相手と同じ立場に立ってみるだけなのだから。


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