供養とは何なのか?
終わったね、お母さんの十三回忌。
お墓参りもしたし、久しぶりにお寺にお参りに来れてよかったよ。
そうだなぁ……。
母さんが亡くなって、もうそんなになるんだもんなぁ。
……早いもんだ。
いろいろあったねぇ。
……。
まあ、大変なことも、あったな。
……。
……。
……ねぇ、お父さん。
今この話題をふっていいのか、タイミング的に微妙なんだけど、訊いてもいい?
なんだよ、急にもったいぶって、気持ち悪いな。
……あのさ、今、法事したじゃん。
お寺の本堂で。
あれってさ……何をしたのかな?
はぁぁぁあおぉぅぅ!?
そりゃあお前、母さんの供養をしたに決まってるだろぉ!?
むしろ何をしたつもりでいたんだよ?
お坊さんの頭の剃り具合でも確かめに来たってのか、あ?
いやいや、もちろんお母さんの供養をしたってのはわかってるよ。
そうなんだろうけど、その「供養」ってのが何なのかなと思って。
お経読んだり、合掌したり、焼香したりしたけど、そういうことが「供養」なの?
冷静に考えてみると、供養って何なのかよくわからないなと思ったもんでさ、アハハハ。
やっぱり、このタイミングでこの質問はマズかった?
……いや、まあ、思わずツッコミを入れてしまったが、確かに気持ちがわからんわけでもない。
お経は漢文やら昔の言葉やらで唱えられているから、一般人には何を言っているのかさっぱりわからんし、供養というものも、漠然としたイメージはあってもいざ説明してみろと言われたら言葉に窮するだろう。
でしょでしょ?
だからよくわからないなと思ったわけ。
お父さんは供養って何かわかってるの?
もちろん、わかってるさ。
お父さんを誰だと思ってるんだ。
お父さんは昔な……。
はいはい、昔の話はいいから、供養の話を教えてよ。
ずばり、供養って何なの?
ぐっ……。
昔話を聞く気ゼロだなお前。
……しょうがない、今は供養の話をしよう。
供養と供物
オホン。
供養というのは、もともとは「供物を捧げること」を意味した言葉だ。
ほぉ~。
「供物を捧げること」ですとな。
そういえば今日もお寺に菓子折を持っていったけど、のし紙に「供物」って書いてあったね。
あれが供物と考えていいの?
もちろん持参した菓子折も供物の1つになる。
ほかにも、蝋燭、花、水やお茶、お膳、香など、供物はいろいろある。
そういったものを捧げることが供養の基本だ。
基本ということは、実際はまたちょっと違うの?
というか、そもそも仏教でいうところの供養ってのは、死者に対して供物を捧げることをメインに想定していたわけではなくて、生きているお坊さんに対して一般人が食べ物を施すような行為を指していたんだ。
タイとかミャンマーとかの仏教国で、お坊さんが施しを受けている映像とかを見たことはないか?
供養っていうのはあんなふうにして、「供物を施して養う」っていうような意味合いの言葉だったんだよ。
上座部仏教のお坊さんは托鉢で得た食べ物で命をつないでいるから、まさに「供物で養う」なわけ。
あっ、なるほど。
ちなみにそれっていわゆる托鉢ってやつだよね?
お坊さんたちが入れ物を手に持って道を歩いてて、その中に食べ物とかを入れてもらってる外国の映像を見たことあるわ。
そうそう。
托鉢の際に食べ物を施すような、あの感じが供養の原形。
そこから供養の範囲はどんどん拡大・多様化していって、死者に供物を捧げて冥福を祈ることも供養と呼ばれるようになっていったし、動物の霊に対しても用いられる言葉になっていったし、針供養とか人形供養とか、物に感謝の念を捧げて丁重に葬ることも供養と呼ばれるようになっていった。
言われてみれば、供養って亡くなった人だけじゃなくて、物に対しても使うことあるね。
あらためて考えてみると不思議かも。
生物じゃないのに供養をするって。
針供養あたりはちょっと特殊な例と言えるかもしれんな。
供養の応用バージョンというか。
現代で「供養」といったら、亡き人の冥福を祈ることを指す場合が多いのは間違いないが、細かく見れば「丁重に葬る」という事柄全般に供養という言葉を用いていることがわかる。
だから非生物に対しても供養という言葉が使われるんだが、ただし生物と非生物とでは供養の意味合いが違うということは知っておいたほうがいいかもな。
非生物に対する供養っていうのは、「感謝」とか「礼を尽くす」という側面が強い。
ふむふむ。
で、教えてほしいのは生物というか、亡き人に対する供養のほうなんですけど。
法事とかでやってる供養っていうのは、具体的に何をしているのかってこと。
お菓子を供えても、お母さんはもう食べることができないわけだし……。
まあまあ、そう慌てるな。
今から話すさ。
善行と功徳と供養の関係
じつはな、仏教における供養の考え方というのは意外と一般には知られていなくて、ちょっと変わってるというか、二段階式になっているんだよ。
二段階式?
……どゆこと?
たとえば、今日みたいにお菓子を供えたとするだろ。
するとまず、お菓子を供えたという善行によって功徳が生まれる、と仏教は考える。
そして、そこで生まれた功徳を、亡き人に向けて送るというのが、供養というものの考え方なんだ。
……。
じゃあ、お菓子そのものを届けてるわけじゃないのね?
そりゃあお菓子そのものを故人のもとに届けることはできんだろう。
生きている人が相手だったらお菓子を食べてもらうという本来の供養もできるが、亡き人が相手ではそうもいかない。
托鉢で食べ物を施すというような意味での供養は不可能だ。
うーん。
たしかにお母さんのもとにお菓子が届いた感はなかったけど、やっぱりお菓子は届いていなかったかぁ。
法事が終ったあとも、そのままの位置にあったし。
大好きだったマドレーヌを選んだんだけど、残念。
お菓子自体は故人のもとへは届かない。
なら、何なら届くのか。何ならできるのか。
そこで仏教は考えた。
物事は、原因があれば必ず結果がある。
功徳が生まれれば、その功徳は必ず良い結果を招く。
その結果が表れるところを、自分のところではなく誰かのところにすればいいじゃないか、と。
そして、本来であれば自業自得の原則によって自分のところに還ってくるはずの功徳を、自分ではない誰かに廻らし向ける「回向」という祈りの言葉を考えた。
回向?
はじめて聞く言葉だわね。
それが功徳をお母さんのもとに送る言葉なの?
そのとおり。
つまり二段階式というのはこういうことだ。
お父さんたちが直接的に行っているのは、あくまでも善行を積むということ。
これが一段階目。
そして善行によって生まれた功徳を故人に届けるというのが、供養というものの考え方になる。
これが二段階目。
なるほど、二段階式ってそういうことね。
善行によって功徳が生まれて、そこでワンクッションあって、次に、生まれた功徳を送る。
そのこと全体を指して供養と呼んでいて、功徳を送ることを回向と言う。
善行がそのまま故人の供養だとは考えていないんだよ。
だから供物がそのまま届くとも考えていない。
故人は線香の煙を食べているといった話もあるにはあるが……。
ま、届くのは、あくまでも功徳のほうと考えたほうがいいだろう。
「気持ち」のほうとも言えるかもな。
供養というのはあくまでもこの二段階式の考え方で成り立っているというわけだ。
へぇ、知らなかった……。
その回向っていう言葉はさ、具体的にはどんなことを言っているの?
回向の言葉か?
ちょっと細かな話になりすぎるから主要なところだけをピックアップすると、さっきの法事の回向では次のような言葉が述べられていたな。
「虔んで、香華灯燭珍膳等を備え、経呪を諷誦す、集むる所の功徳は、香室潤徳大師、称名忌の為に回向し、報土を荘厳す」
ツーシン……。
ゴメン、まったく何もわからんわ。
どういう意味?
現代語に訳せば、
「つつしんで、香や花や蝋燭やお膳などを備え、さらにはお経を唱えたことによって生じた功徳を、十三回忌を迎えた香室潤徳大師に回向し、あなたのいる場所が美しく厳かであることを祈ります」
といったほどの意味になるかな。
要するに、何によって功徳が生まれたのかと、その功徳をどうするかということが述べられていたわけだ。
……っていうか、よく聞き取れたね。
……いったい何者?
ふっふっふっ。
すごいだろ。
三種供養
ま、それはいいとして、とにかく「お供えをしたり、お経を読んだりした功徳を、香室潤徳大師、つまりあたしのお母さんのもとへ届けます」という言葉なわけね。
法事の趣旨ともいえそう。
おお、趣旨という表現はいいな!
そう、回向とは法事の趣旨みたいなもんだ。
ねぇ、善行によって生まれた功徳を届けるのが供養なら、別に供物を供えることだけが供養じゃないってことにはならない?
善行ってほかにもたくさんあるでしょ。
たとえば人助けも善行だし。
なかなか鋭い。
そのとおりなんだよ。
仏教ではいろいろな善行を想定していて、例えば三種供養という分類の仕方でいうと、供養は3つに分類されている。
どんなふうに供養を分類したの?
三種っていうのは、
- 利供養
- 敬供養
- 行供養
の3つのことなんだが、それぞれ供養の内容は異なっている。
1つ目の利供養は、さっきから話をしている「供物を供えること」を意味している。
2つ目の敬供養は、「仏の教えを学ぶこと」を意味している。
そして3つ目の行供養は、「仏道修行をすること」を意味している。
へぇ。
仏教を学んだり修行したりすることも供養なんだ。
そう。
これも供養の二段階式の性質を知っていれば納得できると思うんだが、仏教を学ぶことも、仏道修行することも、どちらも善行に含まれると仏教では考えているんだ。
だから三種供養のどれを行っても、善行だから功徳が生まれる。
功徳が生まれれば故人に功徳を届けることができるようになるから、どれも供養になりえる。
なるほどね。
二段階式で供養を考えると、かなり便利な感じがする。
どんなことでも供養になりそう。
供養というのは、何か功徳を積む行いをして、そこで生まれた功徳を誰かに届けることを意味している。
功徳を積む行いは何でもかまわないし、功徳を届ける相手も誰でもかまわない。
「万霊」といって、この世界のあらゆる霊に功徳を届けるという発想でもOKだ。
そうして功徳を届けることを供養とよんでいる。
ということは、さっきの法事も、功徳を積んでその功徳を届けることしていたってことなんだよね?
まさしく。
それが法事というものだからな。
ほへぇ~。
うーん、でもあんまり功徳を積んだ実感がないんだけどなぁ。
あたしちゃんと功徳積めたのかなぁ。
まあ、お坊さんはお経読んだりなんかいろいろしたりしてたから功徳積んだのかもしれないけど、私お経読めないし。
お坊さんが功徳を積めばいいの?
いや、法事に参加した全員で功徳を積むと考えたほうがいいだろう。
そのほうが功徳がたくさん集まるから。
法事がはじまる前にお経が書れた本を配られたろう?
あれは、「可能であれば一緒にお経を唱えてください」という意味だ。
お経を読むのは、お経を学ぶことと同義だから、敬供養になる。
したがってお経を読むのも立派な供養になるというわけなんだよ。
しまった……。
そんなら功徳を積み損ねちゃったわ……。
別に大声で読まなくたっていいんだから、小さくても声に出して読んだほうがいいかもな。
ただ、お経が読めない人は当然多くいるから、法事では簡単にできて、かつ、誰もが絶大な功徳を生む行いをするようになっている。
えっ?
何かそんなスゴいことしたっけ?
絶大な功徳を生む行為なんて、まったく心あたりがないんですけど……。
いいや、しているとも。
絶大な功徳を生む行為というのは、焼香のことだ。
焼香と仏教
焼香?
焼香ならしたけど、あれが絶大な功徳を生む行為なの?
数秒のことだったよ。
焼香というのは、香木を焚いて香を供えること。
そして仏教には、香を供えることが非常に大きな功徳を生むという考え方がある。インドの頃からな。
だから仏教では香というものをとても重んじているんだよ。
本堂の正面奥に机があったのを覚えているか?
その上に蝋燭と花が供えられていただろう。
そして中央には香炉があった。
蝋燭と花も大事なお供え物だが、それよりも香を重視しているから中央に香炉があるんだ。
なんでそんなに香を重要視しているのかねぇ。
あたしにはあんまり良い香りとは思えないんだけど……。
臭いとまでは言わないけどさ。
香は仏教が生まれる以前からインドに存在していた。
人々の生活の必需品として。
生活の必需品?
香が?
必需な感じがまったくわからないんですけど……。
昔のインドの人はそんなに焼香してたの?
焼香して部屋を浄めるということもあったようだが、それ以外にも、香を体に塗って体臭を消すということもしていた。塗香というものだな。
つまり香は実用性がありながら、来客などへの礼儀も兼ねていたということ。
それが香の意義であり、やがて仏教にも取り入れられていったんだ。
ほかにもいろいろと香にまつわる話はあるんだが、それはまたいつかの機会にしよう。
いろんな理由があるもんだね。
まあ、とにかく、今度からは頑張ってお経も読んでみるよ。
それでお母さんに功徳を届けることができるのなら、さ。
別に善行でもいいぞ。
何か善いことをして、その功徳をお母さんのもとに送りますと祈れば、それは歴とした供養だからな。
そっか。
供養ってのは法事とか、特別な場合に限られた話じゃあないんだもんね。
そうだとも。
遺された者が善く生きれば、その人生自体が亡き人の供養になるとすら言える。
生き方が供養になるんだよ。
「生き方が供養になる」か。
……なかなかステキな言葉じゃん。
忘れないでおこっと。
【つづく】