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『修証義』第五章「行持報恩」を現代語訳するとこうなる ~仏として生きる~


『修証義』第五章「行持報恩」を現代語訳するとこうなる

行持という言葉は、見たことがあるようで、おそらく一般には見慣れない熟語だと思う。
これは「修行の持続」あるいは「修行の護持」を縮めた言葉で、絶えず修行を続けていくことが大切だという意味の言葉である。


ただし、修行といっても滝に打たれるとか、火の上を歩くとか、禅の修行はそのような特殊な行いを指しているわけではない。
「こんなとき、ブッダだったらどう行動するだろうか?」と考え、毎日の暮らしを仏として生きていくことが禅の修行なのである。


人は仏としての行いをしているとき、仏になっている。
それが禅における仏というものの捉え方。
つまり、修行とは仏として生きることであり、仏であり続けるために修行を続けていくのである
それが、禅の修行観。


修証義』第五章では、そうした行持の重要性が説かれるとともに、もう一つ、恩に報いることの意味が説かれている。
禅において恩に報いるとは、単に感謝の念を抱くことのみを意味しない。
仏の道を歩むことこそが恩に報いる生き方であるというのが、禅にとっての報恩。
つまり、行持こそが報恩なのだ。


恩を返すことの意味について、道元禅師はどのような考えを持っていたのか。
それでは『修証義』を締めくくる第五章「行持報恩」の内容に入っていきたい。

第二十六節

(この)発菩提心(ほつぼだいしん)、多くは南閻浮(なんえんぶ)の人身(にんしん)に発心すべきなり、今 是(かく)の如くの因縁あり、願生(がんしょう)此娑婆(ししゃば)国土(こくど)し来れり、見(けん)釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

現代語訳

人間としてこの世界に生まれたのなら、折にふれて「ブッダならどうするだろうか」と思惟し、自分もまた人々を救う菩薩として生きていこうという志しを立てることが肝要である
私たちは人間世界に人間として生まれ、苦楽相半ばする人生を送っている。
苦楽があるからこそ、精進しようという心が生まれるのである。


私たちは不思議な巡り合わせでこの世界に生まれた。
それはただの偶然ではなく、仏の道を歩むため、自らの誓願によってこの世界に生を受けたものだと言えるのではないか。
だから菩薩としての人生を全うし、仏教と出会えてことを喜ぼうではないか。

第二十七節

静かに憶(おも)うべし、正法(しょうぼう)世に流布せざらん時は、身命(しんめい)を正法(しょうぼう)の為に拠捨(ほうしゃ)せんことを願うとも値(お)うべからず、正法に逢う今日(こんにち)の吾等(われら)を願うべし、見ずや、仏の言(のたま)わく、無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、種姓(しゅしょう)を観ずること莫(なか)れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うるこ莫れ、但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)するが故に、日日(にちにち)三時に礼拝し、恭敬(くぎょう)して、更に患悩(げんのう)の心を生ぜしむること莫れと。

現代語訳

静かに考えてみなさい。
「本当に正しいことは何か」と説き続けたブッダの教えが世に広まっていなかったら、ブッダのように生きようと思っても、教えが存在しないのだからわからないことばかりである。
幸いにも仏法の何たるかを知ることができる環境にいるのだから、その教えを学ぶことが大切だ。


ブッダはこう言っている。
「本当に正しいこと」を考え、それを説く人に出会ったなら、生まれや性別や年齢や外見に関係なく、その言葉に耳を傾けなさい。
その人の欠点やどうにも好きになれない行いがあっても、それらの理由でその人の言葉を嫌ってはいけない。
真実についての教えは、必ず敬うように
そして、礼節をもって接し、尊敬の念をもってその言葉から真実を学びなさい、と。

第二十八節

今の見仏聞法(けんぶつもんぽう)は仏祖面面(ぶっそめんめん)の行持より来れる慈恩なり、仏祖若(も)し単伝(たんでん)せずば、奈何(いか)にしてか今日に至らん、一句の恩 尚(な)お報謝(ほうしゃ)すべし、一法の恩 尚お報謝すべし、況(いわん)や正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀(びょうじゃく)尚お恩を忘れず三府(さんぷ)の環(かん)(よ)く報謝あり、窮亀(きゅうき)尚お恩を忘れず、余不(よふ)の印(いん)能く報謝あり、畜類(ちくるい)尚お恩を報ず、人類争(いかで)か恩を知らざらん。

現代語訳

今私たちが仏と出会い、その教えを聞くことができるのは、これまで仏の教えを伝え続け、仏の道を歩んでこられた大勢の方々がいたからである。
尊い恩恵を、私たちは受けているのだ。
コップ一杯の水を別のコップに丸々移すようにして、こぼさずに受け継がれてきたからこそ、2500年も昔の教えが今もなお現代に残っているのである。


それほどに尊い仏法なのだから、一句でも、一語でも、その教えを学んだ際には感謝の心を起こさなくてはならない
真実を説く教えに出会えたなら、報恩の心で生きなければいけない。


雀や亀を助けたら恩返しを受けたという故事がある。
動物であってもそのように恩を忘れずに生きている。
人間が恩を忘れて生きるようなことがあってはならないだろう。


第二十九節

(その)報謝は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯(ただ)(まさ)に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其(その)報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

現代語訳

仏の恩に報いる生き方はいろいろあるが、恩を返そうと思うのではなく、自分もまた仏の道を歩むことこそが、もっともすぐれた報恩の行いである
仏の生き方に学び、仏の生き方にならって自分の人生を歩んでいけば、それこそが恩に報いる正しい道となるのだ。


だから日々の生活を修行そのものととらえ、修行を持続して日々をなおざりにしないように生きていきなさい。
くれぐれも、自分の欲にふりまわされ欲の奴隷のように生きることがないように。
特別な行いをする必要はないから、毎日を大切にして生きていきなさい。

第三十節

光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命(しんめい)は露よりも脆(もろ)し、何(いず)れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる、徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲むべき形骸(けいがい)なり、設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走(ちそう)すとも、其中(そのなか)一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此(この)行持あらん身心(しんじん)自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(ぎょうじげんじょう)し、諸仏の大道通達(だいどうつうだつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

現代語訳

時が経つのは射られた矢よりも早い。
私たちの命は道端の草に宿った朝露よりも儚い。
どんなことをしても、一度過ぎ去った時間をもとに戻すことはできない。
だから、ただ空費するように歳月を生きるのでは虚しいだけで、正しく生きなければ悲しい人生となってしまう。


もし、これまでの多くの時間を無駄に過ごしてきてしまったと思うのなら、これからを改めればいい。
人生のなかでたとえ1日でも仏の心をおこし、仏の生き方ができたなら、無駄にしか思えない人生だったとしても、これまで生きてきてよかったと思えるようになる。
そしてこれからの人生を方向づける、尊い1日となる


この1日を生きた自分は、尊ぶべき存在である。
ブッダと同じように生きることができた自分の身と心を愛してあげなさい。
自分自身を敬ってあげなさい


私たちが仏の道を歩めば、1人の仏がこの世界に姿を現わしたことになる。
祖師たちが生きた証しが、自分を通して現代にあらわれるのである


仏の道を歩む1日を過ごせば、仏の種を蒔く1日となる。
仏の生き方をすれば、その時、人は仏になっている

第三十一節

(いわ)ゆる諸仏(しょぶつ)とは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり、釈迦牟尼仏 是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、正(まさ)に仏恩を報ずるにてあらん。

現代語訳

仏というのは、つまりブッダのことである。
そしてブッダとは、仏の道を歩もうとする私たち人間のことである。
仏の心でこの人生を生きたなら、人は仏としてこの人生を生きているのだ


いつの時代を生きる人であっても、仏の道を歩めば、必ずブッダとしての人生を歩んでいることになる。
ブッダがどこに存在しているか知っているか。
1人ひとりの心のなかに存在しているのだ。


それを「即心是仏」という。
この心こそが仏である、という意味だ。


即心是仏とは誰なのか。
仏とは誰なのか。
自分とは誰なのか。


この問いを生涯忘れてはいけない。
このことをいつも考えていなさい。
この答えがわかったとき、真に仏の恩に報いる生き方ができるようになるだろう


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