【禅語】霧の中を行けば覚えざるに衣湿る
善い人のそばにいれば、意識せずとも善い影響を受ける。
悪い人のそばにいれば、自ずと悪い方向へと流れていく。
先が見えないような濃い霧のなかを歩いていると、いつの間にか衣服が湿っているように、身を置く環境によって無意識のうちに受ける影響というものがある。
それが「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」という禅語の意味。
たとえば、言葉遣い。
人が覚える言葉は、その人が育った環境で話されている言葉である。
だから、東京で生まれ育った人が流暢(りゅうちょう)な関西弁を話すことはない。
ある朝目覚めたら、子どもが英語を話すようになっていた。
……そんなこともありえない。
方言や国語に留まらず、言葉遣いは美しい言葉や汚い言葉にもなってあらわれる。
だから親が人を気遣う言葉や感謝の言葉を大切にするなら、子どもの言葉もおのずと美しいものになり、親が人をののしるような馬鹿にするような言葉を使えば、子どもの言葉も汚くなる。
子どもは親の背中を見て育つという言葉のように、何を教えようとしなくても、親の言動に多大な影響を受けて子どもはおのずと成長する。
善くも、悪くも。
霧という名の環境
生まれ育つ家庭は選べない。
その意味で、人は生まれてきたその瞬間から、まず何かしらの「霧の中」を歩くことになる。
自分にとって自分の育ってきた環境は一番の基準、スタンダードなものになるが、それはどれだけ自分にとって普通のことであっても、1つの霧に過ぎない。
しかし霧の中にいるうちは、自分が霧に包まれているという意識が生まれることもない。
霧が当然のこととして存在するから、霧を霧と認識することがないのだ。
空気のなかにいる人間が、普段空気を意識しないのと同じである。
霧は当然に存在する空気と同じようなもの。
はじめ、人にとって霧とは、意識する以前に受け入れてしまう絶対的なものなのである。
しかし人は成長するにしたがいやがてその霧を抜けて、晴れた外に出て学ぶことで、自分の暮らしている環境が1つの霧でしかない事実を知るようになる。
家のルールは自分の家の中だけのルールで、よその家ではまた別のルールがあることを知るように。
そのようにして、絶対だと思い込み疑うことのなかった価値観に、じつは根拠が存在しなかったことを知っていく。
そう思い込んでいただけだったのだと。
自分はただ霧の中にいただけという事実を知り、既存の価値観が相対的なものでしかなかったことを悟ったとき、周囲の霧が消え去って眼前に姿をあらわした世界の、そのとてつもない広さに人は驚く。
その広がりは、自由の広がりそのものだからである。
井の中の蛙が大海を目撃した時の衝撃とは、おそらくこれと同じなのではないか。
「その人を知りたければ、その人の友を見ればいい」
そんな言葉を残した人物が紀元前もの大昔にいた。
中国の儒学者、荀子(じゅんし)の言葉である。
なるほど巧みな言葉だと、ついつい頷いてしまう。
友を見てその人のすべてがわかるはわけではないものの、この言葉はやはり真理の1つの側面を言い当てているのだと思う。
だから「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」という事実も同様に、霧を知ることが人を知ることに通じるのは必然だろう。
霧の中しか歩けなかった子どもも、やがては自分の意識でもって自分の身を置く世界を選ぶことができるようになる。
そうして暮らすようになった周囲の環境などから受ける影響は、無意識のうちに自分に変化をもたらす。
だからこそ、どのような環境に身を寄せるかは疎かにしてはいけない事柄であり、それを自分の意志でもって決めることができるようになったときには、当然真剣に考えなくてはいけない。
無意識、というのは意識の外にある。
知らず知らずのうちに自分を湿らす霧のように、影響を受けていることに気が付かないのが、無意識のうちに染まる環境からの影響である。
よくよく考えれば、これは結構おそろしい話だ。
望む望まないとに関わらず「そうなってしまう」のだから。
この無辺の人生で、どのような人を友とするか。
どのような人のそばで時をすごすか。
それが知らず知らずのうちに、自分の人格というものの一端を形づくっていく。
周囲の環境といっても、詰まるところそれは「人」に集約される。
その人が発する言葉によって、自分の考えが深まり、思考が熟成されていく。
そんな善い影響を受けることのできる人のそばにいられたら幸せだと心底思う。
それだけに、人との出会い、関わり合いは、人生においてとても重要な事柄になりえる。
道元(どうげん)禅師という人は、自分の師を見つけるために海を渡って中国へ赴いた。
鎌倉時代のことである。
それは命をかけた渡航であった。
そうまでして本物の「人」に出逢う必要があったのだろう。
そうして苦難の末に如浄(にょじょう)禅師という師に出会えた時の喜びは如何ばかりだったのか。
想像しようにも、想像しきれない。
言葉は時に、人を傷つけるナイフになる。
それを知ったのは、善き人と出会ったからだった。
言葉は時に、人を癒す薬になる。
それを知ったのも、善き人と出会ったからだった。
人として知っておくべき大切なことは、人生で出会った人たち、つまりは「霧」の中を歩くことで学んできた。
教わったわけではない。
やはりそれは、影響を受けたというのが最も表現としてふさわしい。
自分の人生を振り返ってみても、やはり「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」という禅語が言う、まさにそのとおりだったように思えてならない。