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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑤

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑤

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の5回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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今回、道元禅師が取り上げるのは、「大乗仏教における最初にして最大の哲学者」とも称される龍樹(ナーガールジュナ)。
否定の論理によって「空(くう)」の理論を大成し、「あらゆるものに自性はない」という「無自性空」を説いた龍樹を、「大乗の祖」と敬う大乗宗派は少なくない。
「空」の論理を説いた『般若心経』が日本で広く読み継がれていることから考えても、龍樹が大乗仏教に与えた影響は非常に大きなものがある。


以下の原文でも「空」の論理が多少は展開されるのだが、あくまでも主眼となっているのは仏性のほう。
龍樹と、その法を受け嗣ぐことになる迦那提婆(かなだいば)とのやりとりから、今回も仏性に迫っていこう。


24節

第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那と云ふ。唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛と云ふ。西天竺国の人なり。南天竺国に至る。彼の国の人、多く福業を信ず。尊者、為に妙法を説く。聞く者、逓相に謂って曰く、人の福業有る、世間第一なり。徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる。
尊者曰、「汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし」
彼人曰、「仏性大なりや小なりや」
尊者曰、「仏性大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり」
彼、理の勝たることを聞いて、悉く初心を廻らす。
尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。一切衆会、唯法音のみを聞いて、師相を覩ず。

現代語訳

ブッダの法を嗣いだ14代目の祖、龍樹尊者は、サンスクリット語での名前をナーガールジュナという。
後に中国において、龍樹・龍勝・龍猛といった漢名が付けられた。
生まれは西インドのあたりだったと考えられている。


龍樹尊者はある時、南インドに赴いた。
訪れた南インドの地では、人々はたいてい現世利益的な、世間的な幸福を求めていた。
そこで龍樹尊者は仏性について説いて聞かせたが、人々は互いに顔を見合わせ訝かるばかりだった。


人々は言った。
「利益となる幸福を得ることが人生においてもっとも重要な関心事であって、仏性などというものに関心はありません。
第一、仏性などと言ったところで、そんなもの見ることもできないではありませんか」


そこで龍樹尊者はこう説いた。
「仏性を見ようと思うなら、まずは自分が不変に存在し続けることを望む心を捨てなければならない
すると人々はさらに訊ねた。
「その心を捨てたら見えるという仏性は、大きいものなのですか? 小さいものですか?」


龍樹尊者は答えた。
「仏性は大きいのでも、小さいのでもない。
広いのでも、狭いのでもない。
何か利益が得られるわけでもなく、良いことが起こるわけでもない。
また、新たに生まれるのでも、消えてなくなるのでもない」


そのようにして龍樹尊者が説く仏性の話を聞くうちに、人々の心は徐々に変化していった。
すると龍樹尊者は、人々の前で坐禅を組み、仏性を自分の体でもって体現してみせた
その姿は満月のように欠くところのない完全な姿であった。
しかし人々は、仏性の話を聞いてはいたが、坐禅をする龍樹尊者の姿に仏性を見出すまでにはいたらなかった。

25節

彼の衆の中に、長者子迦那提婆といふもの有り、衆会に謂つて曰く、「此の相を識るや否や」。
衆会曰、「而今我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し」
提婆曰、「此れは是れ尊者、仏性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る。蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明なり」
言ひ訖るに、輪相即ち隱る。また本座に居して、偈を説いて言く、
身現円月相(身に円月相を現じ)
以表諸仏体(以て諸仏の体を表す)
説法無其形(説法其の形無し)
用弁非声色(用弁は声色に非ず)
しるべし、真箇の用弁は声色の即現にあらず。真箇の説法は無其形なり。尊者かつてひろく仏性を為説する、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙するなり。

現代語訳

人々のなかに、長者の家の子である迦那提婆(かなだいば)という人物がいた。
彼は龍樹尊者の姿を見ると、人々に対してこう訊ねた。
「尊者の姿の意味が、誰かわかりますか?」


人々は答えた。
「未だかつて見たことのない姿であり、聞いたこともない姿であり、まったくもって知るところではありません」


そこで迦那提婆は次のように言った。
「尊者が坐禅を組んでみせたのは、仏性というものを私たちに見せるためでしょう
坐禅を組む尊者の姿は満月のように素晴らしい。
きっと仏性というものは、なんら執着の対象となるものではなく、たとえ掴み所がなくとも、はっきりと存在する明らかなものなのではないでしょうか」


迦那提婆がそう言い終わると、龍樹尊者は坐禅を解いて、短い偈を詠んだ。


 この身に真理を現し
 仏の姿を表す
 説法に定形はなく
 五感の対象でもない


真実の説法というものは、話して伝えなければいけないとか、見て受け取らなければいけないとか、何か決まった形があるわけではない。
真実を説くのに、形式を限定する必要はない
必ずしも認識の対象である必要もない。

龍樹尊者の偈の意味は、おおよそ以上のようなものと考えられるだろう。


龍樹尊者は数え切れないほどの人々に対し仏性を説いてきた人物であり、今紹介した話は、そのほんの一例である。
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26節

「汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし」、この為説の宗旨、すごさず弁肯すべし。見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差なるべし。しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩にならふべし。

現代語訳

「あなたがもし仏性を見たいと思うなら、まずは自分が不変に存在し続けることを望む心を捨てなければならない
この言葉に含まれる龍樹尊者の意を汲むことはとても重要で、決して素通りなどしてはいけない。
必ず腑に落として理解しなさい。


仏性は見ることができないものなのではない。
ただし、仏性を見るためには我と慢心、つまりは自分が常住不変の存在であるかのごとき妄想を取り去る必要がある。


取り去るといっても、我は1つではなく、慢心も多様で、それらを取り去る方法も多岐にわたるだろう。
簡単な話ではないだろうが、しかし、取り去ることができれば仏性を見ることができると、龍樹尊者は言っている。
この目で、直に見ることができるのだと。

27節

仏性非大非小等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。偏枯に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆゑに。

現代語訳

「仏性は大きいのでも小さいのでもない」
そう龍樹尊者は言ったが、これを凡夫の常識でとらえたり、悟りを知らない者の見識で解釈したりしてはいけない。


人は往々にして、自分の理解を超えたものを「広大なもの」とかたくなに思うものだが、それは真実を知ろうと考える精神を放棄した、邪な考えと言わざるをえない。
大きいのでもなく、小さいのでもないと言う、まさにその言葉そのものの真意を、聴くがままに受け取らなくては真実でない
そうして受け取ったものだけが、真実となるのである。
ゆえに真実を得よ。


28節

しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる身現円月相、以表諸仏体なり。すでに諸仏体を以表しきたれる身現なるがゆゑに円月相なり。しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承せざる儻類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相現なり。身現は方円にあらず、有無にあらず、隱顯にあらず、八万四千蘊にあらず、ただ身現なり。円月相といふ、「這裏是れ甚麼の処在ぞ、細と説き、麤と説く月」なり。この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり。以表するがゆゑに諸仏体を透脱す。

現代語訳

ここで今一度、龍樹尊者の偈を聞いてみよう。
「この身に真理を現し、仏の姿を表す」
とある。
龍樹尊者は坐禅をすることで仏の姿を自身で表わし尽くしたのだから、まぎれもなく真実の姿がそこにあったのだろう。


真実の姿というのは、長いのでも短いのでも、四角いのでも丸いのでもない。
固定的な「真実の姿」があるのではなく、何か特定の形をもって真実とするのではないことを、龍樹尊者の言葉に学ばなくてはならない。
この身と、現すものに違いがあったなら、それは真実の姿を知らないことの証左といえるだろう。
無論、それは仏なのでもない。


「真実の姿」ということを言うと、愚かな者はこう考える。
龍樹尊者が何か別の姿に変身し、仏性の姿を現してみせたのだろうと。
特別に現した本物の姿を、きっと真実の姿とよぶのだろうと。


大間違いも甚だしい。
一体いつ、どこで、だれがそのような姿に変身したというのか。
この身以外に現すべきものなど他にはなにもない。


よいか。
龍樹尊者はこの時、皆の前でただ坐禅をしてみせただけである。
身に現れた真実とは、龍樹尊者の姿以外の何者でもない。
誰が坐っても現すことができる真実を、龍樹尊者は見せただけなのだ。
この姿をもって、真実の姿という。


龍樹尊者が現した姿は、尊いとか卑しいとか、優れているとか劣っているとか、有るとか無いとか、何かと比べて論ずることのできないものであった。
ただただ、「姿そのもの」であった。
姿そのものであるもの、比較することのできないものについて、細いとか太いとか、相対的に論ずることは決してできない。


龍樹尊者は先の偈のなかで「我慢を捨て去る」と言った。
自分に対する慢心は、自分が「有る」と思うことから生じる
ゆえにそれは「我」の存在を無意識に想定してしまっているところからはじまっている。
しかし龍樹尊者が皆の前で坐ったとき、そこに「我」はなかった。


つまり、龍樹尊者が現した姿は、「姿そのもの」であって、それは「龍樹」なのでもなかったのだ。
龍樹と言ってしまえば、それは相対の一部となり、比較の対象となる。
逆に、龍樹という「我」を捨て去った姿は、もはや「ただの姿」としか言いようがない。
この「ただの姿」を指して、「仏」と呼んだり、「真実」と呼んだりしているというだけのことである。


ただ、しかし、「仏」と呼んでしまえば、あたかも仏という姿があるかのような誤解を与えてしまう。
「真実」と呼んでしまえば、あたかも真実の姿があるかのような誤解を与えてしまう。
ゆえに龍樹尊者は、仏や真実といった言葉からも抜け出して、「そのもの」を現したと言ったほうが相応しいだろう

29節

しかあるがゆゑに、仏辺にかかはれず。仏性の満月を形如する虚明ありとも、円月相を排列するにあらず。いはんや用弁も声色にあらず、身現も色身にあらず、蘊処界にあらず。蘊処界に一似なりといへども以表なり、諸仏体なり。これ説法蘊なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の転機なり、現自在身の非声色なり。即隱、即現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上現自在身の正当恁麼時は、一切衆会、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり。

現代語訳

「そのもの」としか言いようのない世界では、仏教の言葉を必要としない。
一言でも言葉で説明した瞬間、それは虚構にほかならなくなるからである


仏性とは満月のように明らかなものであるが、だからといって満月の姿をもって仏性とするのではない。
仏性を説くと言っても、それは言葉や目に見えるもので説明されるものでもなく、身で現すとしても、見た目や形が重要なのでもない。


人間が世界を認識していく作用のなかに、仏性への理解があるのでもない。
いや、仏性とは「そのもの」を「そのもの」と認識することであると言えないこともないから、認識していく精神作用と仏性の理解は近いものがあるかもしれない。


しかし、どちらにしても仏性とは「そのもの」がそのものとしてあるというだけのことであって、すべては仏の姿にほかならないということになる。
仏性について説法するというのなら、こうとしか言えない。
形はないのだ。


仏性という形はないのだが、形がないということを突き詰めていくと、あらゆるものが仏性を現わしていることにもやがて気が付く
龍樹尊者の前にいた人々は、坐禅をする龍樹尊者の姿をたしかに見ていた。
見ていたはずなのだが、見て捉えるものではない、形でないところの仏性を見ることはなかった。


見えるのに見えない。見えないのに見える
こうした性質こそ、仏性の在り方と言えるかもしれない。


龍樹尊者が坐禅によって真実を現したとき、そこに集っていた人々はみな龍樹尊者の姿を見てはいたのだが、本当には見えていなかったのだ。