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正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part④

正法眼蔵,仏性の巻

正法眼蔵「仏性」巻の現代語訳と原文 Part④

『正法眼蔵』「仏性」の巻の現代語訳の4回目。
仏性の巻は文字数が多いため複数回に分けて掲載をしているので、これまでを未読の方は下の記事からどうぞ。
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前回は、中国における4祖大医道心禅師と5祖大満弘忍禅師の問答をとりあげ、仏性とは何であるかを道元禅師は示そうとした。
それに対して、今回は禅の大成者と称される中国の6祖慧能禅師の言葉に着目し、「無仏性」という言葉をキーワードにして仏性を説こうとしている。


無仏性とは「仏性がない」という意味ではない。
仏性とは「有る」とか「無い」といった相対的判断でもって理解するものではない、ということを示すために、「有でもなく、また無でもない」の意で「無」と表現したものと思われる。
有無を超越した絶対無としての「無」ということである。


しかしながら、有るのでもなく、また無いのでもなければ、一体仏性とは何なのか。


今回の訳文には「無常は仏性である」との言葉が出てくるが、確かに無常とは「有るのでもなく、無いのでもない」ことであると言える。
さらに言えば、この世界の森羅万象ありとあらゆる有形無形の存在において、無常でないものは何一つとしてない。
こうした無常の性質を考えたとき、「無常は仏性である」とするなら、仏性もまたそれと同じ性質であり、「この世界のすべて仏性でないものは何一つとして存在しない」ということが言えるのだろう。


物体は名前を付けられた時点で相対的な判断の対象となる。
もし物体に名前がなかったら、たとえば目の前にあるペンに「ペン」という名前がなかったら、我々は「それ」をどのようにして呼ぶことができるだろうか。
また、「それ」は一体何であると言うことができるだろうか。


言語化する以前の事象。
これが相対を絶した絶対の領域である。
「無仏性」はこの絶対の領域で語られるものであることを念頭に、言語化する以前の事象を言語でもって説こうと試みる道元禅師の言葉を読み進めていきたい。


17節

震旦第六祖曹谿山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。
六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。
六祖いはく、作仏をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん。
この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人、無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。

現代語訳

中国の禅宗史における6代目の祖、慧能禅師は、5祖大満禅師のもとで修行を重ねた人物であった。
大満禅師はまだ幼い慧能が自分のもとにやってきたとき、こんな問答をしたという。


「君(慧能)はどこからやってきたのか?」
「南嶺山脈より南からやってまいりました」
「はるばるこの黄梅山までやってきて、何を求めているのだ?」
「仏になるためにやってまいりました」
「君が暮らしていた嶺南は野蛮の地であるというが、それでも仏性でないものはない。なぜわざわざこの地にて仏になろうとするのか」
と。


5祖大満禅師は慧能に「嶺南人無仏性」と諭した。
この言は、「嶺南は野蛮の地であるから、そこに住む人に仏性はない」という意味ではない。
もちろん「嶺南人にも仏性がある」と言っているわけでもない。
嶺南であろうと仏性でないものはない」と言っているのである。


また、「なぜわざわざ仏になろうとするのか」という言葉は、「仏でないものなど存在しないのに、さらに何を期待するというか」という意味と受け取るべきだろう。

18節

おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。仏祖の児孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。

現代語訳

昔から、仏性の道理を明らかにした人物は少なかった。
『阿含経』などの原始経典を読んでも、あるいは仏教を学問的に学んでも、仏性を明らかにすることは到底できない。
仏性とは学問によって理解するものではなく、禅の系譜のなかで師から弟子へと1つになって受け継がれてきたものだからである。


また仏性というものは、悟りを開く前に把握することはできない。
必ず悟りを開いたあとに仏性を知る
だから仏性というものは悟りと時を同じくするものであることを知っておかなくてはならない。


この悟りと仏性との関係を、仏道を学ぼうと志す者はよくよく参究すべきである。
二十年でも三十年でも参究し続けなさい
悟りの階段の途中で満足するような中途半端な姿勢では、仏性を理解することはできないのだから。


「衆生有仏性」と言い、「衆生無仏性」と言う、このような相反する表現を用いる理由は何なのか。
そしてまた「悟りを開いてのちに仏性を知るのでなければ仏法ではない」と言われる理由は何なのか。
ここが分からなければ、悟りを明らかにすることはできず、どれだけ修行を重ねようと仏性を知ることもないままだろう。

19節

このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。見仏聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無仏性なり。或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を、見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無仏性といふ。しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。

現代語訳

5祖大満禅師は慧能禅師を導くのに「嶺南人は無仏性である」との言葉を投げ掛けた。
仏法を学びはじめた初学者が必ずぶつかる壁が、この「衆生無仏性」という言葉であると言えるだろう。
しかし同時に、師から教えを受け、経典から学ぶ上で、もっとも出会えて嬉しい言葉もまた「衆生無仏性」なのである


「一切衆生無仏性」という言葉をいつもかも心にとどめ参究し、この身心に満ち満ちて溢れだすほどまでに参究し尽くすのでなければ、仏性を学んだとは言えず、また、仏性を知ることもない。


慧能は、「仏になるため」に5祖大満禅師のもとへとやってきたと言った。
そして大満禅師は慧能を仏に導くために、特別な方法を用いることはなかった。
ただ一言「嶺南人無仏性」と言うのみであった。


だからよいか。必ず心得ておきなさい。
「無仏性」という言葉でもって仏に導くことこそが、仏へと真っ直ぐにつながる道を指し示すことなのだ。
無仏性であるその時、人は仏なのである。
無仏性を明らかにすることができず、理解することができないうちは、仏とはいえない。

20節

六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。

現代語訳

慧能は大満禅師にこうも言っている。
「人には南嶺山脈の南に住む、北に住むという違いがありますが、仏性に南北の差はありません
と。


この表現からも、言葉の真意を汲み取ってみたい。
南だ北だという言葉を自分の心に照らしてみよう。
きっと、慧能が言わんとする真意が分かるようになるだろう。


人が仏になると表現することはあっても、仏性が仏になるとは言わない。
はたして慧能は、その事実を意図した上で「仏性無南北」の言を放ったのだろうか。


21節

四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに㝵礙の力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も、仏性とききぬれば、いかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈摝すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北仏性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、仏性は虚融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤学すべし。

現代語訳

4祖大医禅師と5祖大満禅師が巧みに言い表わしてきた無仏性という言葉には、人を悟りに導くのに十分な優れた力が含まれている。
これは、迦葉仏や釈迦牟尼仏が悟りを開いた後に「悉有仏性」と言ったのと同等の力量の言葉とみるべきだろう。


「悉有」と説き明かした仏性の真理は、「無」という表現によって確かに受け継がれてきた
だからこそ「無仏性」という言葉は、4祖や5祖のもとから広く各地に広まるに至った。


慧能禅師が5祖大満禅師のもとへ参じ問答をした際、慧能禅師ほどの人物であれば、「無仏性」という言葉についてもっと切り込んで問うてもよかった。
仏性が有るとか無いとか、有仏性だとか無仏性だとか言う前に、そもそも「仏性とは何なのか」を問うべきであった。


今の時代を生きる僧侶も同じである。
仏性という言葉を聞いて、「仏性とは何か」と問うことが重要であるにも関わらず、仏性の有無にばかり意識が向いてしまっている者がいる。
仏性それ自体についてはっきりとした理解がないのに、理解のないものの有無を問うてどうなるというのか
こうした姿勢は迂闊であると言わざるをえない。


それくらい仏性・無仏性という言葉は大切なものなのだ。
仏教には「無」という文字がついた言葉がいくつもあるが、それらも無仏性の無、絶対の無として参究してみるとよいだろう。


慧能が言葉でもって言い表した「人有南北、仏性無南北」をどう受けとめるか。
何度も何度も言葉に向き合って、その真意を掬い取ろうと考え努力しなければ、到底理解することなどできはしない。
漁夫が魚を得るために何度も漁を試みるのと同じである。


一体「人有南北、仏性無南北」とは何なのか。
何を意味した言葉なのか。
思い込みを捨て、心静かに思惟してみなさい。


人は物体であり姿があるから南北のどちらかに住んでいると言うことができ、仏性には姿がなくどこにでも遍在しているから南北に関わらないなどという解釈は、真理がわかっていない者の愚かな戯れ言である。
そのような誤った考えは捨てて、仏性を体現し、仏性に直に触れて仏性を理解しなさい

22節

六祖、門人行昌に示して云く、無常は即ち仏性なり、有常は即ち善惡一切諸法分別心なり。
いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著、行著、証著せんは、みな無常なるべし。「今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説く」なり、これ仏性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。常凡聖ならんは、仏性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。仏者小量身也、性者小量作也。このゆゑに六祖道取す、無常は仏性なり。

現代語訳

6祖慧能が神秀の門弟である志徹に対して次のような言葉を示したことが、『景徳伝燈録』に書かれている。

無常はすなわち、仏性である
有常はすなわち、善悪をはじめとするあらゆる事柄を相対的に分けて考える心である」


ここで述べられている無常が何を意味しているのか、それは仏の教えを正しく知る者でなければ理解することはできない。
仏教を知らない者でも昔から無常という言葉を使うことはあるが、その者たちが無常という言葉の真意を理解することはないだろう。


無常がみずから無常を説き、無常がみずから無常を行い、無常がみずから無常を証明するのであって、この世界に無常でないものは何一つとしてない


『観音経』のなかで、無常なる観世音菩薩が相手に応じて様々な姿に身を変えて法を説く在り方が述べられているように、仏性を示して導くべき者には仏性を示して導くのがふさわしい。
観世音菩薩が無常であることと同じように、無常であるから仏性なのである
その時々にふさわしい在り方があって然るべきだ。


常なるものに思える悟りも、無常なるものである。
迷いもまた無常なるものである。
悟りや迷いを実体視するかぎり、仏性を知ることはない。


存在を「有る」と実体視する見方は、愚かな見解であり、迷いからみた錯覚でしかない。
そうした考えによって浮かび上がる仏とは、さぞ小さなものだろう。
だから慧能はこう言うのである。
無常は仏性である」と。

23節

常者未転なり。未転といふは、たとひ能断と変ずとも、たとひ所断と化すれども、かならずしも去来の蹤跡にかかはれず、ゆゑに常なり。
しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提これ仏性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆゑに仏性なり。もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外の類なり。

現代語訳

無常とは絶え間ない変化であるから、常とは万物を変化しないものとして実体視することをいう。
万物を変化しないものとして考えると、万物は相対的な判断の対象となる


これは良い、あれは悪い。これは優れている、あれは劣っている。
そのような相対的な考えは、物体が不変常住のものとして存在すると判断することから生じる錯覚であって、仏祖が残した足跡に関わるものではない。
ゆえに万物を常なるものとして考えるのは誤りである。


万物の真実の姿は無常である。無常とは仏性である。だから万物は仏性であるといえる
人の身と心もまた無常である。したがって人の身と心もまた仏性である。
あらゆるものが無常であるのは、あらゆるものが仏性であるからにほかならない。


比類なき尊い悟りもまた、仏性であるがゆえに無常。
万人に訪れる死もまた、無常であるがゆえに仏性。


物事の真実を見極めようとしない者や、経典の文字ばかりを追う学問一辺倒の者は、6祖慧能禅師の言葉をしっかりと受け止めなさい。
もし無仏性の言葉に真理を学ぶことができなければ、それは仏道ではない