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「所得」「無所得」の語源は仏教にある? ~身近な仏教用語~

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【所得】身近な仏教用語の意味

2月半ばから3月半ばは確定申告の時期。
ちょうど今がその時期だが、まだ提出していないという方はきっとラストスパートに入っていることだろう。
なにせ締め切りはもう間近。
簡単な入力で済むような場合は、国税庁のサイトにある確定申告書等作成コーナーを使えば、難しい計算はすべて自動で行ってくれるので、書類作成時間はたった30分~1時間で十分終わる。
あれは本当に便利。
www.nta.go.jp
所得税の金額やらを計算して納税するこの時期だからこそ、息抜きと雑学の意味も込めて、金銭や税とは何も関係のない「所得」について綴ってみるのも面白いかもしれない。
それというのも、所得という言葉は仏教用語でもあるのだ。


所得という言葉は、一般的には何かを得ること、もしくはその得たものを指す。
もっと狭義に、税に関する用語としての所得であれば、これは個人や企業が得た全収入から経費などの金額を控除したあとの、純収入をいう。
つまりは課税の対象となる金額が所得という言葉の意味である。
したがって1年で1億円稼いでも、その1億円を稼ぐのに費やした経費が1億円にのぼるのであれば、年収1億円でも所得は0円。
もちろん納税の必要もなし。


そんなことは常識だと叱られそうなので、仏教用語としての所得とは何を指すのかに移りたい。
仏教で所得といえば、これはもう仏道修行によって得た仏法に関する所見のことをいう。
どの程度仏法を理解しているか。
仏法というものをどのように考えているか。
そういった意味の言葉であるが、よりストレートに言ってしまえば、悟りを得たかどうかということがいいたいのだ。
仏道修行によって所得(悟り)を得る。
それが所得という仏教用語の存在意義であり、仏道修行の一番の目的でもある。


だから当然所得は望むものなのだが、禅ではこれを望みながらも、反面ではこれから離れることを主張したりもする
矛盾しているような言説の真意は、おそらくこういうことなのだと思う。
たとえ悟りを得たとしても、悟りを得たことに止まっているうちは本物の悟りとは言えない。
「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」などという言葉があるが、まさにこの意で、悟りの悟り臭きは上悟りにあらず。
あるいは「悟りを得るとは、自分を束縛する鉄の鎖が金の鎖に変わっただけのこと」
そういう説明をされた方もいた。
結局、自分を束縛するものであることに変わりはないということだ。
下の記事に詳しい。
www.zen-essay.com


ようするに、何かに執着をするということは、たとえそれが悟りと呼ばれるような至高の幸福の如きものであっても、苦をもたらすものになりえるということを禅や仏教は一貫して主張しているのである。
つまり禅においては、悟ることよりも、悟りへの執着から離れることのほうがより重要なのだ。
あるいはその悟りへの執着を離れた状態を、正しく「悟り」と呼ぶといったほうが正確かもしれない。
少なくとも、最終目的は悟りを「得る」ことではない。


スポーツもある意味でこれと似た考え方をするのではないか。
スポーツにおいて、基礎ができている人は、基礎が身についているから、基礎のことを考えていなくても基礎を行うことができる。
応用が活きてくるのは、基礎があってこその話だ。
ゆえに基礎とは、第一に学ぶべきものでありながら、身につくまで体に刷りこませ、あえて意識しなくても自然とそうなるよう、「忘れ去るほどに習得」することに意味がある


悟りというのも、それを得ることが目的ではあるのだけれど、得るとは忘れることと別ではないということなのだ。
いや、むしろ得ることの本質が忘れることにあるのだとすれば、忘れることこそが得るという言葉の真意といえるかもしれない
忘れてこそ、本当に得たことになる。
離れてこそ、もっとも身近に摑んでいる。
そういうことなのではないか。


まずは得よ得よと学ぶことを求め、いざそれを学んだら、今度は離れよ離れよと、得たものを手放すことを求める。
そうして元の状態、何もその手に摑んでいない状態に戻るのだが、はたしてこれは何なのか。
何も持っていない状態から、何かを掴み、また何も持っていない状態にもどる。
一周回ってふりだしに戻ってきたのだが、最初と最後は同じ状態なのか、それとも異なるのか
このあたりが禅とか仏教とかいうものの面白さだ。


禅や仏教というものは直線上を歩むものではなく、環となった円の曲線上を歩むもの。
掛軸にただ「○」だけを画いた、いわゆる一円相(いちえんそう)というものを尊ぶ風潮が禅には存在するが、まさにあれのこと。
スタートして42.195km先のゴールを目指すものではない。
スタートとゴールが別の場所に存在しない。
それなら禅においてスタートとは何なのか、ゴールとは何なのか。
実際に歩いてその答えを体得するところに、禅の面白さがある。
禅がどこまでも本物(実体験)にこだわるのはそのためだ。

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無所得の世界

『般若心経』の中には「無所得」という言葉が登場する。
www.zen-essay.com
これは得ることから離れるというよりも、むしろ「何かを得ることなどそもそもできない」「所得(悟り)など存在しない」という意味に近い言葉のように感じられる。
ただ、言っていることは同じようなもので、やはり所得よりも無所得の状態を主張するものである。
本当の意味で「得る」とは、ただ何かを得ることを指すのではない。
何もない無所得の状態から、何かを摑んだ所得へと進み、さらに無所得へと移る


地球一周の旅に出て、世界各地を訪れて、また自分の家に帰ってきた。
旅に出る前と、帰ってきた時とでは、何が違っているのか。
円の曲線上で何を得たのか。
得た、とは何なのか。
結局旅とは何だったのか


廻る四季が存在するためか、日本人は円のような曲線の人生観を持っているという。
欧米人は、どちらかというと直線的な人生観なのだそうだ。
生まれてから、死に向かって歩く、というように。
しかし円の人生観はそれとはちょっと違う。
生と死がまったくの別物だとは思えない。
心のどこかで、廻る命を感じてしまう。
あの世とか輪廻とか極楽というのではなくて、人間も自然の一部というような感覚


得るとは、自分とは別の存在だから、あらためて「得る」と表現する。
もとから別の存在でなければ、あえて「得る」とはいわない。
自然と人間は別ものなのか、それとも別ではないのか。
人間が造るあらゆるものは人工物かもしれないが、その人工物を造っている人間は自然物であることを想うとき、どうしようもなく肩の力が抜けるような感覚に陥ることがある。
世界の様相をどれだけ変化させても、人間が自然物であるという根本は少しも変わらない。
人間を人間と認識しているのは、所詮人間の頭だけ。
区別し分別しあらゆるものを別個に見ていく人間の「智」の営みは、あるいは虚構の世界をひたすらに作り上げる「愚」の営みそのものなのかもしれないと、私は時々思ったりする。