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供養の意味や考え方を知ると、供養の在り方は豊かに広がる

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供養の意味や考え方を知ると、供養の在り方は豊かに広がる

亡き人の冥福を祈って行われる行為は、総じて供養と呼ばれる。
仏壇にご飯や水を供えたり、墓前に花を飾ったり、読経をしたり。そういったものをすべて供養と考えて、亡き人が少しでも喜ばれるように、安らかになるように、そう願って人は供養を施す。
供養とは何か、という問いに大雑把に答えるなら、まず、亡き人の冥福のために行われる行為はすべて供養と考えてよい、と答えても間違いではないだろう。


じゃあ供養とは亡き人だけを対象とした言葉なのかというと、じつはそうとは限らない。生者に対しても供養という言葉は使われることがある
たとえばアジアの仏教国などで托鉢をする僧侶に施しをする行為(布施)は、「僧侶に対する供養」と表現されたりする。
これもまたさきほどの供養と同じものだ。
そしてまた生者が僧侶に限定されることはない。誰であろうと、供養は供養なのである。


すると、供養とは何なのか
亡き人に対する行為だけが供養でないとなると、供養という言葉の指す事柄が多岐にわたるようで、取り留めのないものになってしまうような気がしないでもない。
生者に対する供養が存在するとなると、供養の間口が広がるような、供養の範囲がどこまでも広がっていってしまうような、供養という言葉の指す対象がぼやけてしまうような気がする。


こんなふうに考えると供養というものの理解が漠然としてしまうような心配をされるかもしれないが、そのような難しい話は全然なくて、供養という行為はじつは非常にシンプルに考えることができるのである。
どのようにシンプルなのかというと、供養とはずばり「功徳を積む行為」を指すと理解すればいい。
この「功徳を積む行為」が何を意味するのかについては、そもそも供養というものが間接的な施しを想定した行為であることを理解しておく必要があるので、そちらの話に移りたい。

直接的な施しと間接的な施し

死者に対しても生者に対しても供養は行われるが、では供養の目的とは何であったか。
供養の目的は、功徳を積むこと。これが理解のベースとなるのだが、ここには供養という独自のものの考え方が潜んでいる。
たとえば仏壇にご飯を供える際、おそらくほとんどの方がそこに故人の面影を思い浮かべるなど、対象(相手)がはっきりしているのではないだろうか。
墓前にお参りをする際などでも、誰にお参りしているかといえば、亡くなった身内、あるいは先祖だろう。
托鉢の僧に供養を施すのも、施す対象は僧侶で間違いない。
ほとんどの場合、供養を施す対象は明確である場合が多いのである。いや、明確な対象に向けて供養を施す、といったほうがより実情に合っているかもしれない。


けれども、供養という考え方にとってそれらは対象の一端に過ぎない。
供養というものは、いうなれば「間接的な施し」をメインに想定した行為であって、「直接的な施し」はむしろ供養の考え方からみればサブ的なものといえるのだ。
直接的な施しとは、故人を相手と考えて故人に直接ご飯を供えるというような、一般的な供養のイメージに合致するもの。つまり、先祖のお参りのために墓前に赴くのも、僧侶に布施をするのも、直接的な施しである。
ほとんどの場合、供養といえば人はこのパターンを想定するものと思われる。


しかしこれらの直接的な施しは、本来的な供養の考え方とは少々異なる。供養のメインはあくまでも間接的な施しにある
では間接的な施しとは何なのか。間接的な施しとは、たとえば故人の冥福を祈って何かしてあげたいと思ったとき、故人に対して直接何かをするという選択をとらない方法をいう。
つまり、故人とは直接的には関係のないことをするのである。


それでは故人に対する供養にならないのではないか、と思われるかもしれない。
まさに、ここが供養というものの考え方の独自性なのである。
直接故人に何かをするのではなく、故人と直接には関係のない善行を行い、功徳を積み、その功徳を故人に廻らす(送る)のが、供養というものの本来的な考え方なのだ。
これを仏教では「廻向(えこう)」と呼ぶ。
直接的に故人に何かをするのではなく、善行によって生じた功徳を故人のもとに向けて届けるというのが、仏教的な供養の発想なのである。


供養とは功徳を積む行為

仏教は「善行によって生まれた善業は、必ず善い果報をもたらす」という因果の道理を非常に重視している。「善因善果」「悪因悪果」と呼ばれる、あれのことだ。
何らかの行いをすれば必ず何らかの結果が生まれる。
供養の考え方はこうした因果の道理を基本としている。


たとえば、夏のお盆の時期に施食会(せじきえ)という法要が寺院でよく営まれる。
その目的は施主らの先祖の供養であるが、その供養の方法としては、あらゆる精霊に対し供物を捧げて読経をする点が挙げられる
供物や読経は先祖に対するものではなく(まったくないわけではないが)、「三界の万霊(さんがいのばんれい)」と称される「あらゆる魂」に対して施されるのだ。
そしてその施しによって生まれた功徳を、先祖の霊に廻向するというわけである。
意外と知られてはいないが、ワンクッションあって功徳は先祖のもとへ届けられるという考えに則って、こうした仏事は営まれている。


もし先祖の供養のために先祖に供物を捧げるというのであれば、その供養の構図は施主と先祖の間で完結する。
しかし、直接先祖に供物を捧げるのではなく、ここに第三者を交えるだけで、供養の構図は無限の広がりをみせる。無限の廻り合いをみせる
そうして供養の輪を広げていくのが仏教的な供養の発想。
「自他ともに」というのが仏教の発想であるから、「自のみ」すなわち自分の先祖のみというのは仏教的な考え方ではないということになるわけだ。


供養とは上記のように、お供えをしたり施しをしたりといった功徳によって、間接的に亡き人に善い果報が訪れることを願って行うものである。
したがって直接亡き人に対して何かをすることだけが供養のすべてではない。むしろ間接的な供養こそが供養の本筋。
つまり供養という言葉の本質は、亡き人に対してどうこう言うものではなくて、あくまでも「功徳を生む行為」そのものを指すということである
その功徳の力によって、亡き人に善い果報が訪れてほしいと願うことが供養というわけだ。


ちなみに、亡き人に供えられるもっともメジャーな供物は「五供(ごく)」と呼ばれ「線香・花・燭(ろうそくなどの火)・ご飯・水」とされている。
一方、生きている人に対する供物としては「飲食物・衣服・臥具(椅子や蒲団など)・医薬」などが挙げられ、僧侶にはそのような供養が施される場合が多い。もっとも、現代日本で托鉢をすれば金銭の施しを受ける場合が圧倒的に多いだろうが。
生きる人へ施すものは、やはり生きる上で必要不可欠なものになるということか。
本来の供養とは死者のみならず生者をも対象としたものであり、日本で考えられている一般的な供養の枠組みよりももう一回り広い範囲に及ぶものなのである。


また法事などの仏事を追善供養と称することがあるが、追善とは善い行いをした功徳を亡き人に廻らすことをいう。「追って善を届ける」という意味。
故人に対して善き行いをするというよりも、故人に関係するしないに関わらず何か善い行いをして、その善い行いによって生まれた功徳を故人に廻らすというのが仏教的な考え方といえため、追善供養は供養の本筋を歩むものであるといえるだろう



供養には3つの種類がある

このような供養について、仏教では供養というものを3つの種類に大別して考えることがある。
3つの種類というのは「利供養(りくよう)」「敬供養(きょうくよう)」「行供養(ぎょうくよう)」。
これら3つの特徴についてそれぞれみていきたい。

利供養

1つ目の利供養(りくよう)とは、亡き人に対して何かをお供えすることをいう
生前好んでいた食べ物や飲み物などを仏壇に供えること、あるいは線香を供えたり、蝋燭に火を灯したり、花を飾ったり。
前述した五供に限らず、亡き人に対してお供えされるものはすべてこの利供養と考えられる。


その他にも、たとえば人から何かをいただいたとき、まず仏壇に供えるというようなことも利供養に含まれる。
墓前でも仏壇でもどこであっても、とにかく故人に対して何かを供えるという行為はすべてこの利供養と考えていい。
おそらく一般的なイメージからいえば、供養という言葉を聞いて想起するのはこの利供養ではないか。
それだけに、利供養が供養であることに特別疑問を抱く方はほとんどいないと思われる。

敬供養

2つ目の敬供養(きょうくよう)とは、ブッダの教え、つまりは仏教を敬うことを指す
具体的には、教えが書かれたお経を読むこと、唱えること、学ぶこと。
毎朝仏壇の前で読経をしたり、身内の方が亡くなって四十九日の間、毎日読経したりするのはこの敬供養をしているといえる。仏教や禅の本を読むことも敬供養に分類されるだろう。


あるいは日常的に読経をしなくても、一周忌や三回忌などの法事の場では必ず僧侶が読経をする。あの読経もまた敬供養の1つ。
法事といえば僧侶の読経、というイメージは強いと思われるが、そのイメージの根底にあるのは敬供養であったというわけだ
ただまあ、敬供養などという細かな言葉など知らずとも、お経を唱えることが供養であるという認識もまた、利供養と同等に一般的なイメージに沿うものだろう。
だからこれら2つはあまり問題というか疑問視されない。
一般的でないのは、3つ目だ。

行供養

3つ目の行供養(ぎょうくよう)とは、簡単に言ってしまえば仏道修行をすることをいう
仏道修行などという言葉を使ってしまうと、いかにも特別な行いを連想してしまいそうで適切ではないのかもしれない。ここでいう仏道修行とは、要するに善行のこと。善い行いのこと。
そうした仏道修行に適う生き方をして、自らもまた生きながらに仏となることを目指して生きていく。
それが行供養なのである。


おそらく、供養の3つの種類のなかで、疑問を持つならこの行供養になると思われる。
なぜ仏道修行をすることが故人の供養になるのかと。
ここで、前述した「供養とは功徳を生む行為」であることと、「供養は間接的な施し」であったことを思い出していただきたい。
修行が供養になる、あるいは自分の生き方が供養になるとは、正しい行いによって生まれた善業は善い報いとなってあらわれるという考え方が存在するため。つまり善い報いを亡き人に廻らすという思いがあるからこそ、善行は功徳となるのである。
したがってこの行供養は、ある意味で供養の正統をいくものであり、因果の道理を踏まえた供養の在り方であるといえる。



亡き人の分まで生きる

私は個人的に、行供養という考え方はとても素晴らしいものだと考えている。
たとえば親しい人を亡くした遺族に何が伝えられるのだろうかと考えたとき、頭に浮かぶのはこの行供養だったりする。
べつにあえて何かを伝えなければいけないわけではないのかもしれないが、それでも何か伝えるべきことがあるとしたら、それは残された者の生き方なのではないかと思うのだ。
有り体にいえば「亡き人の分まで生きる」ことが、仏教的な供養なのだと思う


「亡き人の分まで生きる」
この言葉の根底にあるのは、行供養という考え方そのものだ。
親しい人を失った悲しみから立ち上がり再び前を向いて歩きはじめるのと、故人のために何ができるかとを考えたとき、そこには自ずと行供養の姿があると思えてならない。
大切な人を亡くして悲しみの底にあっても、自分の生き方が亡き人の供養になると考えることができたなら、立ち上がるきっかけになるのではないか
あの人の分まで生きよう。
それは、その人にしかできない尊い供養の姿ではないだろうか。


供養というものにはいろいろな思いや考え方があっていい。
こうでなければいけないという、形式的なものにおさめる必要はない。
利供養、敬供養、そして行供養と、直接的な供養だけに考えを狭めることをせずに、広く仏教的な視点で供養というものを考えていただければ、供養の世界はずっと広がっていく
功徳を廻らすという考えには、自と他を隔てない豊かさがある。