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ぜんざいの語源は仏教用語? ぜんざいとお汁粉の違いは?

ぜんざい


ぜんざいの語源は仏教用語? ぜんざいとお汁粉の違いは?

餅が好きで、さらに餡子も好きな甘党にとって、もはや「ぜんざい」は究極のご馳走ではないだろうか。少なくとも、私にとっては至福の一品。
寒い冬、トースターで餅を焼くその傍らで、小鍋でレトルトのぜんざいを温める。ぷっくりと膨らんだ餅がはじける前に箸で掴み出し、椀の底に置く。
餅はやっぱり2個くらいあったほうがいい。1個ではちょっと少なくてさみしい。


鍋からぜんざいを取り出し、レトルトパウチの袋を切る。すぐさま、餅が鎮座する椀へとぜんざいを流し込む。
ちょっと焦げ目のついた香ばしい餅と、強烈な甘さを放つ小豆汁とが相まって、ここに究極のご馳走が誕生する。
先にぜんざいを椀に入れて、その上に餅を浮かべたほうが見た目には美しいのかもしれないが、何というか、小豆の海に沈めてあげたい気分になる。北極に浮かぶ氷山のように、餅の一角だけが海面から顔を出すくらいが一番美味しそうに見える


辛党にとっては読むだけで胸焼けしそうな話かもしれないので、愛すべきぜんざいの話はここまでにして、そろそろ本題に。
じつはこのぜんざい、もともと仏教用語であったという説があるのだ。
そういう説があるということは、そうでない説もあるということで、せっかくなのでぜんざいの起源として有力な2つの説を合わせてご紹介したい。

ぜんざいの語源は仏教にあり?

ぜんざいは漢字で善哉と書く。「善き哉(よきかな)」と書いてなぜあの甘いぜんざいを指すのかというと、これには深いわけがある。
今から2500年以上昔、ブッダが在世であったころの話にまで遡るのだが、ブッダは弟子たちに説法をする中で、時折り質問をしてみたりもした。
そしてその問いに対して弟子が意を得た答えを言うと、「善き哉、善き哉」と褒めることがあったという
「そうだ、そのとおりだ」という具合に。


もちろんブッダは日本語で「よきかな」と発音したわけではなくて、「サードゥ」と言った。サンスクリット語のこの「サードゥ」という言葉の意味は、「よい」「正しい」。
それが漢字文化圏の中国に伝播して、後世の人が漢字に訳して善哉と記した。日本に伝わった善哉という仏教用語は、こうして生まれた。


当時、善哉という言葉の「善い」には、「道徳的に善い」という意味が含まれていたようで、この善哉という言葉は神仏が人間を褒めるような場合にのみ用いられた。狂言などの文芸の分野で、神仏の言葉として用いられたのである。
それがやがて神仏に限定されることなく、誰が誰に対して使用してもいいように規制緩和され、善哉という褒め言葉は世間に広まっていった。
知的で格好いい響きのある言葉を耳にしたから、ちょっと自分も使ってみようかしらん、というようなものだったのだろうか。今でいう流行語のようなものかもしれない。
「すぐに」と言えばいいものを、ちょっと雰囲気を出すために「可及的速やかに」と言ってみたくなる心情と近似するものだったら面白い。


「善き哉」から「ぜんざい」説

それで、なんで「善き哉」があの甘いぜんざいを指すようになったのかというと、ここからは一説になる。
どうやら江戸時代にはすでにあの食べ物はぜんざいと呼ばれていたようだが、その頃はまだぜんざいは高級品だった。
それはまあ、当然といえば当然である。小豆と砂糖をふんだんに使い、しかも餅まで入っている食べ物なのだから、相応の贅沢品であったことは想像に難くない


そんな貴重なぜんざいは、日頃なかなか口にすることのできない一品。
だからこのぜんざいを食べた人は、その美味しさに驚いて口々にこう漏らしたという。
「この餅の入った甘い汁、善哉(すごく美味しい)!
普通に「美味しい」と言えばいいものを、今でいう「ヤバい!」みたいな感覚なのか、「ぜんざい!」と言ったのではないかと考えられているのだ。
こうしていつしか褒め言葉であるはずの「ぜんざい」は、食べ物それ自体を示す言葉へと変化していったというのが、仏教用語説である。

「神在餅」から「ぜんざい」説

一方で、ぜんざいの語源は仏教用語ではなく、出雲発祥の神在餅であると主張する説がある。
この説を猛烈に唱えているのは、もちろん出雲の方々。


出雲地方では旧暦の10月に全国の神々が集まり会議が行われる、という話をご存じだろうか?
10月の異名が神無月となっているのは周知のとおりだが、その理由は全国の神々がみんな出雲に集まってしまい、各地に神がいなくなってしまうからである。これは意外と知られていなかったりする。
ちなみに、出雲の10月は神々が集まってごった返していることから、出雲に限って10月の異名は神在月となっている。嘘のような、本当の話。


それで全国から神々が集まると、出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行われた。その祭りの折に振る舞われたのが「神在餅(じんざいもち)」というわけだ。
この神在餅は、お供え物である餅を小豆と一緒に煮て作った小豆雑煮と呼ぶべきもので、確かにぜんざいと酷似している。
この「じんざい」が、出雲弁(ズーズー弁)で訛って「ずんざい」となり、伝言ゲームのように伝わるなかで「ぜんざい」となって京都に伝わった、という説が神在餅説というわけである。


出雲の方々は自ら土地を「ぜんざい発祥の地」として売り出すことに注力しており、10月31日を「1031(ぜんざい)」の語呂合わせで「出雲ぜんざいの日」として日本記念日協会に申請し、登録を実現させてもいる。
ぜんざいの語源を仏教に譲る気は微塵もないことだろう。
どちらが真説であるかは、今となってはもうわからない。あなたなら、どちらが有力だと思われるだろうか?

ぜんざいとお汁粉の違い

おまけとして最後に、似たもの同士でありながら名前が異なり、一体何をもって両者を区別しているのかよくわからない、ぜんざいとお汁粉の違いについて。
ただし、ぜんざいとお汁粉の区別の仕方は関東と関西で異なっているため、順を追ってみていきたい。


そもそも大前提として、ぜんざいとお汁粉はその調理法が異なっている。
ぜんざいは、小豆と砂糖を一緒に煮て作る
お汁粉は、まず小豆をこし餡にし、それを汁でのばして作る
そのため、通常であればお汁粉のほうが飲み物に近いものが出来上がる。より液体に近いもの、といえばいいだろうか。
餅や白玉の有無は特に区別に関して問題とはならない。


関西ではこれとほぼ同じ区別の仕方をしていて、つぶ餡のものをぜんざいこし餡のものをお汁粉と呼ぶ
私が住んでいる岐阜県はどちらかというと関西寄りであるため、この区別の仕方に違和感はない。やはり、つぶ餡のものがぜんざいで、こし餡のものがお汁粉というイメージ。
ただし、話はそれで終わらない。
ぜんざいとお汁粉を、関東では関西とまったく違う仕方で区別するというのだ。


実際どのように区別するのかというと、関東では汁気のあるものは、こし餡だろうとつぶ餡だろうとすべてお汁粉と呼ぶ
関西で呼ぶところのぜんざいもお汁粉も、関東ではどちらもお汁粉となるのだ。
じゃあ関東ではぜんざいとはどのようなものになるのか。
関東でぜんざいといえば、それはいわゆる白玉小豆のような、まったく汁気のない小豆をのせた食べ物を指す
餅や白玉に小豆を添えたようなもの、ちょっと上品な和のスイーツ的なものがぜんざいと呼ばれているのである。


汁気のあるものは関東ではすべてお汁粉と呼ばれるが、こし餡とつぶ餡で一応呼び名が異なる場合もあるという。
こし餡は御前汁粉、つぶ餡は田舎汁粉と呼ぶこともあるそうだ。
御前と田舎で、なんでつぶ餡が田舎なのか、このあたりは少々解せない。
ちなみに、関東でぜんざいと呼ばれる汁気のないものは、関西で亀山と呼ばれることがあるという。
そんな名前は岐阜県では聞いたことがない。やはり地域によって言葉とそれが意味するところは様々なようだ。


実物で違いを理解しよう

それではぜんざいとお汁粉の違いを、おさらいを兼ねて下の写真に写っている実物を見て、関東と関西でそれぞれどう呼んでいるのかを確認しておこう。



ぜんざい2
↑ 関東「お汁粉(田舎汁粉)」
 関西「ぜんざい」



お汁粉
↑ 関東「お汁粉(御前汁粉)」
 関西「お汁粉」



白玉小豆
↑ 関東「ぜんざい」
 関西「亀山」
 私「白玉小豆」


関東と関西(と岐阜)とでは、やはり何かが違うようだ。