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大パリニッバーナ経の現代語訳 ~ブッダ最後の旅の言行録~ 第2章

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大パリニッバーナ経の現代語訳 ~ブッダ最後の旅の言行録~ 第2章

ブッダ最後の旅の言行録でもある『大パリニッバーナ経』の現代語訳(私訳)の2回目。
ここでは第2章を読み進めていきたい。
前回を未読のかたは下の記事(第1章)からどうぞ。
www.zen-essay.com



第2章

第5節 4つの聖なる教え

ブッダ一向はガンジス側を渡り、北岸にたどり着いた。
「さて、アーナンダよ。それではコーティ村へと向かおうか」
「かしこまりました」
アーナンダはブッダに返事をし、一向は再び歩き始めた。


コーティ村に到着すると、ブッダは休息する場所を探して腰をおろし、修行僧たちに向けて話をはじめた。
苦しみと安らぎには4つの真理がある
この4つの真理を知らないがために、長きにわたって人は迷いの世界を生き続けてしまう。
私自身もそうであった。
そなたたちは、この4つの真理を知っているだろうか」
ブッダはそう前置きし、修行僧たちに四聖諦(ししょうたい)の教えを説きはじめた。
「諦」とは「明るい」の意で、真理を明らかにするというほどの意味である。


「1つ目の真理は、『苦しみ』に関する真理である。
人は物事が自分の思いどおりに進むことを望み、それが思いどおりにならないことで苦悩を抱く。
生まれるのも、老いるのも、病むのも、死ぬのも、どれも思いどおりにはならないことばかりだ。
いくら思いどおりにしたいと思っても、それらの願いが叶うことはない。
苦しみは自分の心、思いどおりにしたいと思う心から生じる
それが苦しみに関する真理である」


「2つ目の真理は、『苦しみが生じる原因』に関する真理である。
思いどおりにしたいという思考の根底には、必ず何かを望み欲する欲望が潜んでいる。
喉が渇いた人が水を求めるように、何かを欲しいと願う心から、思いどおりにならない苦しみは生まれてくる。
苦しみの原因にはいつだって欲望がある
それが、苦しみが生じる原因に関する真理である」


「3つ目の真理は、『苦しみの止滅』に関する真理である。
苦しみに欲望という原因がある以上、原因を取り除けば苦しみも止む。
苦しみが止滅した状態、つまりは安らかな心の状態というものもまた、明らかに存在するものなのだ。
それが、苦しみの止滅に関する真理である」


「4つ目の真理は、『苦しみを止滅させる方法』に関する真理である。
その具体的な行いは8つある。

  1. 正しく見る。
  2. 正しく考える。
  3. 正しい言葉を用いる。
  4. 正しく行う。
  5. 正しく生活する。
  6. 正しく努力する。
  7. 正しい意識を保つ。
  8. 正しく瞑想する。

以上の8つの道(八正道)が、苦しみを止滅させる方法に関する真理である」


「修行僧たちよ。これらの真理を知らなければ、人はなぜ自分が苦悩を抱くのかがわからず、迷いの世界から抜け出すことができない。
しかし4つの真理を知ることで、苦の正体を知り、苦を止滅させることができる
そうなればもう二度と、苦悩の人生を歩むことはない。


4つの真理に目を向けなければ、人は永遠に欲望に捉われてしまうことだろう。
しかし今、その妄執の根は断たれた。
もう二度と苦悩の人生を歩むことはない」


ブッダはそれからしばらくのあいだコーティ村にとどまり、人々に法を説いた。


第6節 死後に関する問い

ブッダらがコーティ村の次に向かったのはナーディカ村だった。
そこでブッダらはレンガ造りの家にとどまった。


ブッダが坐ると、アーナンダがブッダの近くにやってきて質問をした。
「このナーディカ村で、サールハという名前の修行僧が亡くなったそうです。
彼は亡くなったあとどうなったのでしょうか
彼はどこへ行ってしまったのでしょうか?」


アーナンダはそれからナーディカ村で亡くなった11人の名前を挙げ、その人々がどこへ行ってしまったのかをブッダに立て続けに質問した。
そのなかには、ナンダーという名前の尼僧や、スダッタという名前の在家信者などがいた。


「アーナンダよ。修行僧のサールハは諸々の煩悩を消滅させ、この世で心が解脱していたから、どこかの世界に生まれ変わるということはない。
尼僧ナンダーはこの世で解脱こそしていないものの、5つの煩悩への執着を断っていたから、どこかの世界に生まれ、そこで解脱するだろう。
苦しみの世界に還ってくることはない。
在家信者スダッタは3つの煩悩を断っていたから、一度だけ欲の世界に生まれたのち、解脱するだろう」
ブッダはそのようにして、12人の亡き人の行方をアーナンダに説いて聞かせた。


「アーナンダよ。人間が死ぬというのは、何も不思議なことではない
だから誰かが亡くなった際に、逐一その意義を尋ねられても、そのすべてに答えるのは労力を要する。
だから私は『法の鏡』の教えをここで説くことにする。
その鏡に自分の行いを映し出して正しい教えと照らし合わせれば、人々は自分の未来を自分で見究めることができるだろう。
たとえば、地獄は滅した、畜生の心も消えた、餓鬼の境涯も脱した。もはや苦しみの世界を生きることはない。自分は聖者の生き方に沿う者である。自分は悟りを開くことができる、というように」


ブッダは法の鏡について話しはじめた。
「法の鏡とは、3つの宝を敬う生き方をいう。
その1つ目の宝とは、真理に目覚めた者のことだ。
真理を悟った者を敬い、修行を完成させた尊者と敬うことが、1つ目の宝を敬うということである。


2つ目の宝とは、真理そのものを指している。
真理とは本当に正しいことであり、したがってそれは現実に観察することのできるものであり、誰もが理解できるものである。
そうした真理を敬うことが、2つ目の宝を敬うということである。


そして3つ目の宝とは、真理に沿って生きる人々にほかならない。
正しい道理に沿って生き、互いに手を取り合って生きる人々を敬うことが、3つ目の宝を敬うということである。


このような3つの宝を敬い、かつ戒律を保って生きるなら、人は自分の未来を見究めることができるだろう。
あたかも、鏡に映った自分の姿を見て、自分の姿を知るかのように」
ブッダはそのように教えを説いて、修行僧たちに自分の未来を自分で見据えて生きることを説いたのだった


第7節 商業都市ヴェーサーリー

ナーディカ村での滞在を終えると、ブッダは次に目指す場所をヴェーサーリーに決めた。
ヴェーサーリーは当時、商業の要所として大いに栄えていた都市である。
そしてブッダはヴェーサーリーに到着すると、これまでのようにどこかの住居にとどまるのではなく、林に住することにした。
その林は、アンバパーリーという女性が所有するマンゴーの林であった。


「修行僧たちよ。ここではよくよく気をつけておくように
気をつけるというのは、自分の身体や、感受器官や、心や、諸々の事象についてである。
それらを詳細に観察して、それらがどういった状態にあるのかを自覚し、欲や憂いを捨て去ることに努めていなさい」


ブッダが修行僧らに気をつけるよう言葉をかけたのは、そこが女性が所有する林であったからである。
情欲がいかに難敵であるかを知っていたからこそ、ブッダは修行僧たちにあらかじめ声をかけたのだった。


「修行僧たちよ。この林を出るときも、戻ってくるときも、よく気をつけておくように。
前を見るときも、後ろを見るときも、ちょっとした時間であっても気をつけておくように。
衣服を着るときも、食事のときも、大小便のときも、生活のなかのあらゆる場面で気を付けておくように。
意識を散漫にせず、常に集中し自覚しているように

第8章 アンバパーリー

ブッダが林にやってきてしばらくすると、その知らせを聞いたアンバパーリーがブッダに会いにやってきた
彼女はブッダに挨拶をして地面に坐ると、ブッダの話を求めた。
そこでブッダは法を説き、彼女を励まし、諭した。
彼女は教えを聞くことができたことで非常に喜び、ブッダにこんなお願いをした。


「尊い人、ブッダよ。
どうか明日、私の家で食事の施しを受けていただけないでしょうか
修行僧らとともに食事をなさっていただきたいのですが」


ブッダはその申し出を了承した。
すると彼女は喜び、ブッダに挨拶をしてその場を去って行った。


ちょうどその頃、アンバパーリーと同様に、ブッダの来訪を知ってブッダに会いにやってくる者達がいた。
ヴェーサーリーに暮らす貴族の一族であるリッチャヴィ族の若者たちである。
彼らは紺青、黄、赤、白など、色とりどりの衣や飾りを身につけていた。


彼らが乗り物に乗ってブッダのもとへ向かっていると、道の向こうから同じく乗り物に乗って向かってくる人物がいた。
ブッダの話を聞き終わり、食事の準備をするために家に帰る途中だったアンバパーリーである。
アンバパーリーは彼らのために道を開けようとはしなかった


「おい、アンバパーリー。なぜ我らに道を譲らぬのだ」
「私はこれから急いでブッダらに施す食事の準備をしなければいけないからです。
ブッダと修行僧たちは明日、私の家で食事をなされます」
「なんと、そういうことであればアンバパーリーよ、10万の金をお前にあげるから、ブッダらに食事のもてなしをするのは我々にやらせてくれ」
「貴公子さま方、たとえあなた方が私にあなた方の領土をくださったとしても、私はこのたびの食事のおもてなしを譲る気はありませんわ


アンバパーリーが言うことをきかないので、彼らはくやしそうに指を鳴らした。
「残念だ。まさか我々が女に負けるとは」
そうして両者は道をすれ違って行った。


ブッダはアンバパーリーが去ってからも同じく林の中に住していた。
すると遠くから複数の人が自分たちのほうへやってくるのが見えた。リッチャヴィ族の若者たちである。
そこでブッダは修行僧たちに声をかけた。
「向こうからリッチャヴィ族の若者たちがやってくる。
ヴェーサーリーに暮らす貴族の人々だ。
よく見ておきなさい」


やがてリッチャヴィ族の若者たちはやがてブッダのもとに到着すると、丁重に挨拶をした。
彼らが腰をおろすと、ブッダは話をはじめた。
法の教えを聞くことができて喜んだリッチャヴィ族の若者たちは、ブッダにこんな提案をした。
「尊い人よ。どうか明日は私たちの家で食事を召し上がってはいただけませんか?」
しかしブッダはその申し出を即座に断わった。
「申し訳ないが、私たちは明日、アンバパーリーから食事の施しを受けることになっているのだ
リッチャヴィ族の若者たちは残念そうに指を弾き、
「ああ、私たちはあの小娘に負けてしまった。なんと残念なことだ」
と嘆いた。
そしてブッダに礼を述べて、その場を去っていった。
ブッダは身分によって上下を定めることはせず、道徳に従い、先約を重んじた


一方、アンバパーリーは家に帰ってから食事の準備をはじめ、一晩中かかってご馳走を用意した
そして朝になるとブッダのもとへ赴き、食事の準備が整ったことを伝えた。
「食事を準備しております。いつでもお越しになってください」


ブッダと修行僧たちは衣服を整え、食事を受ける鉢を手に取り、アンバパーリーの家へと向かった。
家に着いて中に入ると、そこにはすでに料理と座席が用意されていた。
修行僧らが席に着くと、アンバパーリーは1人1人に給仕をはじめた。修行僧らの腹が満たされるまで。


やがて食事が終わると、アンバパーリーはブッダにこう申し出た。
「私はあのマンゴー林をあなた方へ寄進させていただきたいと思っています
いかがでしょうか。お受けになっていただけますか?」
ブッダはその申し出を受けた。
そしてアンバパーリーに法を説いて聞かせた。
戒律とは何か。精神統一とは何か。智慧とは何か。


ブッダはその後も、アンバパーリーのマンゴー林にしばらくのあいだとどまって、人々に法を説いて聞かせた。


第9節 病魔の足音

アンバパーリーの林を後にしたブッダらは、次にベールヴァ村に向かった。
そしてベールヴァ村に到着すると、ブッダは修行僧たちにこう告げた。
「まもなく雨期に入る。
遊行はしばらく中断となるから、そなた達はヴェーサーリーの近郊でしばらくのあいだ定住するように仕度をしなさい。
友人や知人を頼って雨期の定住である雨安居(うあんご)に入りなさい
私はこのベールヴァ村で定住に入ることにする」


毎日のように雨が降る雨期は、歩くことがままならない。
しかも雨の恵みを待ちわびていた生命が雨期になると一斉に芽吹くため、雨期に歩くと多くの生命を踏んでしまうおそれもある。
そうした理由から、ブッダをはじめとした修行僧たちは雨期には出歩かず、一箇所に定住して暮らすことにしていた
そうした修行期間を雨安居という。
修行僧たちはブッダの言葉にしたがって、ヴェーサーリーへと向かい歩いていった。


やがて雨期がやってきた。
するとブッダの体に異変が起こった。激痛をともなう病に罹ってしまったのである
痛みは凄まじかったが、ブッダは意識を冷静に保つようにつとめた。
「修行僧たちに別れを告げないで今ここで死ぬわけにはいかない。
元気を取り戻し、どうにか寿命をまっとうしよう」
ブッダはそう考え、なんとか病苦を乗り越えていった。


幸いにも、ブッダの病はやがて鎮まった
そして歩けるほどまで回復すると、ブッダは住居の外へ出て坐った。
するとその姿を見つけたアーナンダが近寄ってきた。


「ブッダ。お体はよろしいのですか
だいぶ回復されてきているようにお見受けられますが。
もう幾分か健康になられたのでしょうか?
私はブッダのお体が心配で、不安で、今でも体がこわばっています。
呆然としてしまって、方角すらわからないような状態でした。


けれども今、私にはある安心感があります。
ブッダが我々修行僧たちに最後の教えを説かないあいだは、ブッダがお亡くなりになられることはないだろうという思いが、私の心に芽生えています」


するとブッダは、やや諫めるようにアーナンダに話をした。
「アーナンダよ。修行僧たちは私に何を期待するというのだろうか。
私は何も裏に隠すことなく、ことごとくすべての理法を説いてきた
握り拳のなかに秘密の教えを残すようなことはせず、私の掌は常に開かれていた。
最後の教えなどという特別な教えは何もない。


もし私が、自分のことを修行僧たちを導く者だと考えたり、修行僧たちは自分を頼っていると考えていたら、後継者についてなどの言葉を残していたかもしれない。
しかし、私はただ向上することに努めた者であるから、そういった思いを抱くこともなく、語ることもない
そんな私が一体どのような特別な話を語るというのだろうか。何もありはしない。


アーナンダよ。
私はもう年老いた。人生の旅路を歩み続けて老齢に達した。もう80歳だ。
古く壊れそうな車が革紐で結びつけられてなんとか動いているかのように、おそらく私の体も革紐のようなものに助けられているのだろう


しかし、たとえどれだけ老いたとしても、心に何のわだかまりもない精神統一がなされれば、体は快適とも言えるのである。


だからよいか。
この世に生きる人々は、自分自身を頼りとしてこの不確かな人生を歩んでいきなさい
他人に寄りかかるような生き方をしてはいけない。
自分自身を灯明として、暗闇を照らして生きていきなさい。
ただし、誤った自己に頼っていては行き先を間違うこともある。
だから自分を頼りとすると同時に、その方向性は法(真理)に頼りなさい。法をよりどころとしなさい


進むべき道がわからない真っ暗闇の人生を照らすのは、自分という灯火であり、法という灯火であることを忘れてはいけない。
それは苦しみの海に浮かぶ島のようでもあり、河を渡る際の中州のようなものでもある


いつも体と精神と心と諸々の事象に意識を向け、欲と憂いを取り去ることに努めていなさい。
そのようにして、修行僧は自分を頼りとし、法を頼りとして生きていきなさい。


アーナンダよ。
今までももちろんそうであったが、私の死後も、そなたたちは自分を頼り法を頼って生きていきなさい。
他に寄りかかることなく、自分と法とを頼りとして生きる者は、この上なく優れた人物だ。
真理を学ぶ心があり、修行を続ける者は、誰であってもこの優れた人物になることができるのだ
それを、忘れないでいておくれ」


第2章 終わる


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