『参同契』を現代語訳するとこうなる ~同と別を結びつけた思慮を説くお経~
曹洞宗には禅の要諦を説いたとされる重要な経典がいくつか伝わっている。そのうちの1つに『参同契(さんどうかい)』がある。
曹洞宗では、奇数日に朝の読経でこの『参同契』を唱えることが多く、そのため曹洞宗僧侶にとってこの経典は非常に馴染みが深い。
『参同契』は、禅が中国に伝わってから8代目にあたる石頭希遷(せきとう・きせん)禅師によって著された書物である。
西暦8世紀頃の著作であるので、原文はもちろん漢文で構成されており、五言をもって一句となし、句は全部で44句。
計220字からなる比較的短い経典だ。
『参同契』は禅の要諦を説いた奥義書の1つとされているが、確かにこの経典の説くところは奥深い。
「現象」と「真理」という両極にまたがるように存在する、あらゆる「存在」の本質を照らしだそうとする経典なのだが、一読しただけではおそらくこれを理解するのは難しい。
意味を理解したあとに和文で読むと、『参同契』という経典が持つ独特の雰囲気を味わうことができるので、意味を知ったあとにぜひ一度和文でも読んでみていただきたい。
細かな説明をほどこさない詩の形式であることが、格調高さを引き立たせていて非常にすばらしい経典に感じられることと思う。
慣れれば流れるような語調が美しく、歌詞を口ずさむかのように自然と唱えることもできてしまう。
なんとも魅力的な経典である。
『参同契』に限った話ではないが、経典は総じて唱えやすいものが多く、また語調も流麗であるものが多いことから、仮に内容が理解できなくても呪文のように唱えることができてしまう。
しかし経典の本質はその内容、つまりはそこで説かれている教えにこそあるのであって、したがって『参同契』も内容を読み解く段にまで足を踏み入れることが望ましいことは至極当然のことである。
以下に『参同契』の現代語訳を書いたが、まず全体を6節に分け、それぞれの節においてはじめに原文(漢文)、次に書き下し文、最後に現代語訳を記載するという順番で記載をした。
第1節 原文
竺土大仙心 東西密相付
人根有利鈍 道無南北祖
靈源明皎潔 枝派暗流注
執事元是迷 契理亦非悟
書き下し文
竺土大仙の心、東西密に相附す。
人根に利鈍あり、道に南北の祖なし。
霊源明に皓潔たり、支派暗に流注す。
事を執するも元これ迷い、理に契うも亦悟りにあらず。
現代語訳
インドに生まれ、人の道(仏法)を説き続けたブッダの教えは、西から東へ、つまりはインドから中国へと大切に伝えられた。
これを理解しようとする人々の頭脳は、当然のことながら一人ひとり異なっている。
賢い者がいれば愚鈍な者もいる。
しかし仏法は誰にでも理解することのできる普遍的な教えであるから、いずれは誰でも知ることができる。
教えの源であるブッダの言説まで遡れば、その説くところに歪みはない。
透き通った水のように、教えの底まで見通すことができる。
しかし時代を経るにつれ、教えの解釈は樹木のように枝分かれし、少しずつわかりにくくなってしまった。
細かな支流の1つだけを見て、それが教えのすべてかと思い込んでしまえば、もはや源を見失ってしまったのも同然だろう。
では教えの源さえ知れればもうそれでいいのかといえば、それもまた悟りとはいえない。
第2節 原文
門門一切境 迴互不迴互
迴而更相渉 不爾依位住
色本殊質象 聲元異樂苦
暗合上中言 明明清濁句
四大性自復 如子得其母
書き下し文
門門一切の境、回互と不回互と、
回してさらに相渉る。 しからざれば位によって住す。
色もと質像を殊にし、声もと楽苦を異にす。
暗は上中の言に合い、 明は清濁の句を分つ。
四大の性おのずから復す、 子の其の母を得るがごとし。
現代語訳
人には感覚器官という外界を感じる6つの門がある。
眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身で物を触れ、意識で思い考える。
そうして外界を知覚し、外界を理解し、外界と自分とが別物でないことを体験的に感じていく。
こうした自然と自己が相互に関係し合う世界を感じることができなければ、人は断絶した「個」の世界に閉じこもるしかない。
物体は様々で、見た目も性質も異なっている。
声一つとってみても、高い低いの別があり、心地良いうるさいの別がある。
それらに対して好き嫌いをいわなければ、そこに優劣は生まれない。
みな平等だ。
しかし分別して別物と認識することで、人は区別の世界を生きることになる。
物体を構成する要素は元々すべて自然に帰するものであり、自然と一体のものであるにもかかわらず。
あたかも母を求める子どものように、自然と自己とは一心同体のもの、人間は自然の一部なのである。
本来、分けて考えることなどできないはずのものであろう。
第3節 原文
火熱風動搖 水濕地堅固
眼色耳音聲 鼻香舌鹹醋
然依一一法 依根葉分布
本末須歸宗 尊卑用其語
書き下し文
火は熱し風は動揺、水は湿い地は堅固、
眼は色耳は音声、鼻は香舌は鹹酢。
しかも一一の法において、根によって葉分布す。
本末すべからく宗に帰すべし、 尊卑其の語を用ゆ。
現代語訳
自然を眺めてみれば、火は熱く、風は吹き渡り、水は潤い、大地は堅固にして万物を支えている。
人間を観てみれば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった区別がある。
それら一つひとつの事柄は、根本から枝分かれしていった末端のようなものと考えられる。
末端とは何か。
根源とは何なのか。
物事は本当に分かれているのか。
それとも同じなのか。
重要なのはここである。
たとえば世界の人々はその国独自の言語によって言葉を発している。
「日本語」「英語」「フランス語」といった言語という区別はあるが、それはどれも言葉という大きな源から生まれたものだろう。
表面上は違うように思えるが、根本は何も違わない。
第4節 原文
當明中有暗 勿以暗相遇
當暗中有明 勿以明相覩
明暗各相對 比如前後歩
書き下し文
明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ。
暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ。
明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし。
現代語訳
自分と自然とを区別する、あるいは根源と末端を区別するというような物の見方をしていても、ふと、それらが別物ではないと感じる時がある。
ではそれらは同じものかと言えば、現象としては別物として存在している。
認識というのは曖昧で、同じようにも思え、別のようにも思えるものなのだ。
それをどちらか一方に限定する必要はない。
事実私たちは、明暗という対極の認識を行ったり来たりしながら生きる者だからである。
右足を出せば、今度は自ずと左足が前に出るだろう。
私たちの生き方はこの両足と似ている。
第5節 原文
萬物自有功 當言用及處
事存函蓋合 理應箭鋒哘
承言須會宗 勿自立規矩
書き下し文
万物おのずから功あり、当に用と処とを言うべし。
事存すれば函蓋合し、 理応ずれば箭鋒さそう。
言を承てはすべからく宗を会すべし、 みずから規矩を立することなかれ。
現代語訳
あらゆる存在には、その存在特有の性質が備わっている。役割と言ってもいい。
そうであるから、役割に応じた居場所を見つけることはとても大事なことだ。
たとえば火は熱い性質を持っており、調理の際などに非常に役立つ。
役割と居場所が噛み合えば、箱と蓋が合致するように物事はうまく進む。
また、その役割が真理にかなうものであれば、2本の矢の先端がぴったりと合わさったかのごとく、的確に当を得ることができるだろう。
話を聞くときも同じだ。
どのような話でも、そこから真理を学ぶのでなければ、真にその話を聞けたことにはならない。
くれぐれも自分勝手な解釈を持ち出して、真理を歪めて受け取ることがないように。
第6節 原文
觸目不會道 運足焉知路
進歩非近遠 迷隔山河固
謹白參玄人 光陰莫虚度
書き下し文
触目道を会せずんば、 足を運ぶもいずくんぞ路を知らん。
歩みをすすむれば近遠にあらず、迷うて山河の固をへだつ。
謹んで参玄の人にもうす、光陰虚しく度ることなかれ。
現代語訳
歩むべき道がわからない時、闇雲に歩を進めても正しい道を見つけることはできない。
歩けばどこかに近づく。どこかからは遠ざかる。
そんなふうに当てずっぽうで思慮なく生きる者は、深い森に迷い込んでしまうだけだ。
正しい道を歩まなければ、人の道を歩んでいることにはならない。
だから「道」を歩もうと志すすべての人に申し上げる。
二度と廻ってくることのない「今」をないがしろにして、人生を虚しく空費するような生き方だけは、どうかしないでほしい。
『参同契』とはなにか
以上が禅の奥義書の1つと黙される『参同契』のおおよその内容である。
最後に「光陰虚しく度ることなかれ」と締めくくるあたりなど、道を志す人々への優しさのようなものが溢れているように感じられるのだが、いかがだったか。
じつは『参同契』という経題と、経典の内容とは密接に関連している。
というのも、「参」とはあらゆる存在を別物と観ることを意味し、「同」とはあらゆる存在を同じものと観ることを意味する言葉なのだ。
「契」とは契りの意で、両者を結びつけることを意味する。
つまり別と同を結びつけた思慮こそを説く経典なのである。
存在を別ものとして捉える物の見方は、禅の専門用語で「差別(しゃべつ)」「分別(ふんべつ)」と呼ばれる。
逆に、存在を同じものとして捉える物の見方は、「無差別」「無分別」と呼ばれる。
禅が尊ぶのは大抵の場合「無差別」「無分別」のほうであるが、『参同契』は少し違う。
現象として物事は別の姿をしているのだから、それもきちんと重視する。
このあたりは「空(くう)」の解釈と事情が似ているように思える。
あらゆる存在は姿を変える自性を持たないものであるが、現に存在するためには何らかの形をとらざるを得ない。「空」を突き詰めると、必ずここに行き着く。
本質として不変の形はないが、現象として形は存在するという、両極の視点のどちらをも含むものでなければ、結局は現実主義が理想主義かといった一方に偏ってしまうのかもしれない。
それでは、真ん中の道こそ人の道だとする仏教や禅にはならない。