十牛図に秘められた悟りの諸相
十牛図とは、禅の極意である「悟り」というものを視覚として摑むことができるよう、牛を題材にした十枚の絵によって「悟り」のプロセスを描き表したものです。
したがって十牛図は絵画であり、または教本であり、あるいは芸術であるともいえるでしょう。
この十牛図の面白さは何と言っても、一般にはイメージすることが難しい「悟り」という事柄を表現するのに、文字ではなく絵図を用いた点。
言葉で説明を重ねるのではなく、絵を見て直感的に仏の教えを感じ取るという点が他には類を見ず、何ともユニークで素晴らしい。
十牛図が説くもの
十牛図が説こうとする悟りとは、言い換えるなら「自分とは何か」ということに近い。
「自己を摑む」「自己を知る」といったことを指して悟りとしているのだと。
そしてその悟りの象徴として描かれているのが牛です。
つまり牛とは「真実の自己」のようなものだということです。
悟りの象徴として牛を描き、目に見える形で具現化させ、悟りであり自分でもある牛を発見しに行こうとする「尋牛」と題された1枚の絵図から、十牛図ははじまります。
十枚の図を順に辿ることで、悟りの段階、つまりは自己を摑む段階が記されているというわけです。
悟り、で終わりではない
ただし、いわゆる「悟りを開く」といった事柄はゴールではありません。
自己を知る、自己を掴む、そうした事柄があって、さらにその先に何があるのか。
ここを示したのが十牛図の真骨頂ともいえるでしょう。
禅における悟りとは何なのか。
また最後に待っているものは何なのか。
十牛図が示すそれらを知ることが、十牛図を知るということにつながります。
廓庵師遠禅師と十牛図
十牛図と一口に言っても、じつはいくつかの種類があります。
もっとも有名なのは、おそらく中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧である廓庵師遠(かくあん・しおん)禅師が描いた十牛図。
これは廓庵禅師が十枚の絵を描き、それら1枚1枚に頌(じゅ)と呼ばれる詩文を添えた十牛図なのですが、廓庵禅師の法孫(弟子のようなもの)である慈遠(じおん)禅師が序文を加筆したものが現在に伝わっています。
解説というか補足というか、廓庵禅師の十牛図を解りやすくするために慈遠禅師が各項目に序文を付けたのです。
今回ご紹介する十牛図も廓庵禅師の十牛図を元にしているので、序文付きとなっています。
十牛図を紹介にあたり、現存する廓庵禅師の本物の十牛図を用いることができれば最適なのですが、当然のことながら本物の十牛図の絵図など持ち合わせていません。
そこで荒唐無稽な手法になるかもしれませんが、牛の写真でもって十枚の図の代わりとし、廓庵禅師の頌と慈遠禅師の序文を現代語に訳し、その内容を紹介するということにしたいと思います。
ちなみに、十牛図自体の絵図は検索すればいくらでも見ることができますので、興味があればどうぞ。
十牛図の各項目
廓庵禅師の十牛図は以下の10の項目から成り立っています。
- 尋牛(じんぎゅう)
- 見跡(けんせき)
- 見牛(けんぎゅう)
- 得牛(とくぎゅう)
- 牧牛(ぼくぎゅう)
- 騎牛帰家(きぎゅうきか)
- 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
- 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
- 返本還源(へんぽんげんげん)
- 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
以上の10項目が、それぞれの絵図のタイトルです。
正確にはこれらの10項目に先立ち、冒頭に「総序」という序文が書かれているので、この総序も含めたものを現代語に訳していきたいと思います。
繰り返しになりますが、廓庵禅師が描いた(書いた)ものは「絵図」と「頌」で、慈遠禅師が書いたものが「総序」と各絵図に対する「序」です。
原文を読むのは大変なので、とばしていただいてもかまいません。
それでは慈遠禅師が書いた総序から読みすすめていきましょう。
総序
夫れ諸仏の真源は衆生の本有なり。
迷いに因るや三界に沈淪し、悟りに因るや頓に四生を出ず。
所以に諸仏として成るべき有り、衆生として作るべき有り。
是の故に先賢悲憫して、広く多途を設く。
理は偏円を出し、教は頓漸を興こし、麁より細に及び、浅より深に至る。
末期に青蓮を目瞬して、頭陀の微笑を引き得たり。
正法源蔵、此れより天上人間此方他界に流通す。
其の理を得るや、超宗越格、鳥道の跡無きが如く、其の事を得るや、句に滞り言に迷いて、霊亀の尾を曳くが若し。
間、清居禅師有り。
衆生の根器を観じて病に応じて方を施し、放牛を作りて以て図を為し、機に随って教を設く。
初め漸白より、力量の未だ充たざることを顕わし、次いで純真に至って根機の漸く熟するところを表す。
乃ち人牛不見に至って、故に心法双び亡ずることを標わす。
其の理や已に根機を尽くし、其の法や尚お莎笠を存す。
遂に浅根をして疑悞せしむ。
中下は紛紜として、或いは之を空亡に落つるかと疑い、或いは喚んで常見に堕つると作す。
今、則公禅師を観るに、前賢の模範に擬え、自己の胸襟を出し、十頌の佳篇、光を交えて相映ず。
初め失処より、終わり還源にいたるまで、善く群機に応ずること、飢渇を救うが如し。
慈遠、是を以て妙義を探尋し、玄微を採拾す。
水母の以て飡を尋ぬるに、海蝦に依って目と為すが如し。
初め尋牛より、終わり入鄽に至って、強いて波瀾を起こし、横まに頭角を生ず。
尚お心として覓むべき無し、何ぞ牛として尋ぬべき有らんや。
入鄽に至るにおよんでは、是れ何の魔魅ぞや。
況んや是れ祖禰了ぜざれば、殃い児孫に及ばん。
荒唐を揆らず、試みに提唱を為す。
現代語訳
そもそも仏になる、悟りを開くといったものの根源は、我々人間自身にはじめから具わっている。
それに気が付かないでいれば世界中を探し回ることになり、気付けば迷いの世界から抜け出すというだけのことだ。
したがって「気付く」ということがまさに境目となり、気付けば仏で、気が付かなければ凡夫のままとなる。
だからブッダは気付かない人々を憐れんで、それぞれの人に適した仏への道を説いた。
細かなことを説くこともあれば、全体的なことを説くこともあった。
はじめから本質を説くこともあれば、徐々に深めるということもあった。
いずれにせよ、粗いものから密なものへ、浅い境地から深い境地へ移るように法を説いた。
ブッダは生前に、自分の教えは弟子の摩訶迦葉に伝わっていると言った。
師から弟子へと受け継がれることで、仏法は世界中へと広まっていった。
本当に正しいことは何かという、仏法の極意、つまりは世界の「理(ことわり)」を知れば、あらゆる固定観念・執着を超越して、大空を飛ぶ鳥のようにどこにも跡をとどめない自在さを得る。
しかし物事の表面だけを見て最奥を知ったと勘違いしてしまえば、言葉にまどわされて迷いを深めただけで、亀がしっぽを引きずって跡を残してしまうような愚行でしかない。
さて、このところ清居(せいご)禅師という方が、迷いのなかにある人々を救おうと絵を描いた。
すなわち、牛を題材にした10の絵図を画いて教えを添えて、人々に施す薬とした。
絵のはじまりでは牛は黒く、進むにつれて徐々に白くなっていく。
白いほど迷いや執着から離れた状態を表現しているというわけだ。
最後には純白となり、境地が熟したことを示している。
純白となって何も描かれていないまっさらの最後は、あらゆるものが無になるかのごとき印象を受ける。
この教えは真理の最奥を垣間見せたかのようでいて、なおも最奥に踏み込めない一歩を残している。
この導き方では、初学者はもちろんのこと、少し仏教を学んだ者であっても悟りというものを誤解する恐れがある。
人も牛も描かれていない図を見て、最後に待つものは虚無でしかないのかと思うかもしれないし、無というものがあたかも存在するかのような観念にとらわれるかもしれない。
だから私(慈遠)は今ここで廓庵禅師の十牛図を紹介したいと思うのだ
廓庵禅師の十牛図は、これまでの先人の叡智を踏襲しながらも、そこに禅師自身の独自性を織り交ぜ、10の絵図と頌とが互いに互いを補い合い高め合い、互いに光を当てている。
牛を探しに行く冒頭から、最後に牛がどうなるのかも含め、どのような人にも相応しい内容を備えた秀作だ。
まるで飢えや渇きに苦しむ人に食べ物や水を施すかのように、求める者に救いを与える良薬のようである。
そして何を隠そう、私自身がこの十牛図によって禅の要諦を知り得、深い理解を得ることができた。
まるで目のないクラゲが餌を捕まえるのにエビの目を借りるようなものである。
私は廓庵禅師の十牛図を紹介するにあたり、冒頭の「尋牛」から最後の「日鄽垂手」の10項目すべてに序を添えた。
それはもしかしたら牛の横顔に角を生やそうとするような余計な行為だったのかもしれない。
十牛図では自己を探すと言うが、自己を探そうとしているこの自分こそが自己にほかならない。
それなのになぜ自己を探す必要があるのか。
最後の「日鄽垂手」も一筋縄では会得できない。
だからこそ、これら十牛図の解説を試みて、廓庵禅師の意図を後の世の者達にも理解できる形にしておかなければ、遠い子孫にまでわざわいが及ぶだろう。
私の拙い講釈が的外れなもので、恥を披露するだけであってもかまわない。
それでも私はあえて廓庵禅師の十牛図の講釈を試みたい。
第一 尋牛(じんぎゅう)
牛を尋ねる。
本当の自分を探す旅のはじまり。
序
従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
背覚に由って、以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。
家山漸く遠く、岐路俄かに差う。
得失熾然として是非鋒の如くに起こる。
現代語訳
本当の自分を探すなどと言ったところで、自分とは自分を探そうとしているこの自分に他ならない。
それなのになぜ、自分を探そうなどという見当違いを起こす必要があるのか。
はっきりとここに存在する自分に目を向けず、今の自分は本当の自分ではないと思う、あるいはそう望む自我意識によって、却って人は自分から遠ざかる。自分を見失う。
歩けば歩くほど自分という原点から遠ざかり、分かれ道にさしかかっては道を間違える。
自分を見つけたいという思いとは裏腹に、迷いを深める現実に苛立ち、今歩いている道が本当に正しいのか、自分でももはやわからなくなる。
自分に向けられた疑惑によってすり減った心は、まるで鋭利な刃物のよう。
頌
茫茫として草を撥い去って追尋す。
水濶く山遥かにして路更に深し。
力尽き神疲れて覓むるに処なし。
但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずるを。
現代語訳
行く手を阻むかのような草を払いのけて、ひたすら牛(本当の自分)を探し求める。
大きな河に差し掛かることもあれば、果てしなく高い山を上らねばならぬときもあり、自己を見つける道はどこまでも遠い。
疲れて力尽き、歩く気力も立ち上がる気力も失って、どこへ向かえばいいのかもわからない。
楓の木の下に座り込んで、ただ蝉の鳴き声を聞くばかりだ。
第二 見跡(けんせき)
牛の足跡を見つける。
本や経典などから仏の教えの存在を知る。
序
経に依って義を解し、教えを閲して跡を知る。
衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す。
邪正弁ぜずんば真偽何ぞ分たん。
未だこの門に入らざれば権に見跡と為す。
現代語訳
文字を読んで仏法を知り、言葉を聞いて自己の足跡を見つけた。
どのような形をした器であっても、もとはみな同じ金属であったように、万物は自己にほかならない。
しかし真偽を見極める眼を持たなければその真実も見分けることはできない。
やはりまだ門の中に入れたわけではなく、あくまでも足跡を見つけたに過ぎないのだ。
頌
水辺林下、跡偏に多し。
芳草離披たり見るや也たいなや。
縦是れ深山の更に深き処なるも、
遼天の鼻孔怎なんぞ他を蔵さん。
現代語訳
水辺や林のいたるところに探し求めている自分の足跡が残されている。
草むらのなかにある牛の姿が、あなたには見えるだろうか。
たとえ深い山の奥地であったとしても、
牛の鼻は天にまで届くほどの明らかに存在しているのだから隠しきることなどできはしない。
第三 見牛(けんぎゅう)
牛を見つける。
教えを受けて自己の片鱗が垣間見える。
序
声より得入すれば見処源に逢う。
六根門著々差うことなし。
動用の中頭々顕露す。
水中の塩味、色裏の膠青。
眉毛を貶上すれば是れ他物に非ず。
現代語訳
耳をたよりに道を進んでいけば、自己の源にたどり着くことができる。
耳だけでなく、身体の6つの感覚器官「眼・耳・鼻・舌・身・意」のすべては自己と一体のものであるから、日々の生活のどの場面であってもそれらによって自己を見つけることはできる。
海のなかに塩が溶け込んでいるように、絵具のなかに「にわか」が溶け込んでいるように、自己は当たり前の日々にすっかり溶け込んでいる。
だから眼を見開いてしっかりと見れば、紛れもない自己を見つけることができる。
頌
黄鶯枝上一声々。
日暖かに風和して岸柳青し。
ただ此れ更に廻避する処なし。
森森たる頭角画けども成り難し。
現代語訳
うぐいすが木の上で麗しく鳴いている。
陽光は暖かく、やさしい風が吹き抜けて岸辺の柳は青々と揺れている。
そのすべてが真実そのものであるから、それらを見逃して自己を見つけることはできない。
立派な牛の角を描こうとしても、角そのものを描くことはできないのと同じように。
第四 得牛
牛を得る。
どうにか自己を捕まえた。
序
久しく郊外に埋もれて今日渠に逢う。
境勝れたるに由って以て追い難し。
芳叢を恋いて而も已まず、
頑心尚お勇み、野生猶お存す。
純和を得んと欲せば必ず鞭撻を加えよ。
現代語訳
ずっと見つけることのできなかった牛に、今日、ようやく出逢うことができた。
しかし牛の動きは機敏でなかなか追いつけない。
草を求めてさらに奥へと逃げていってしまう。
その心は野生の牛のごとくまだ荒い。
手なずけるためには鞭を加えるしかない。
頌
精神を竭尽して渠を獲得す。
心強く力壮んにして卒には除き難し。
有る時は僅かに高原の上に到り、
又煙雲深き処に入って居す。
現代語訳
必死の思いで牛を捕まえにかかった。
しかし牛の気性は荒く、力は強靱で、簡単には得られそうもない。
たまには遠くの丘の上に姿を見せもするが、
すぐに霧と雲に包まれた森の奥へと隠れてしまう。
第五 牧牛(ぼくぎゅう)
牛を手なずける。
自己をしっかりと摑むために修行に励む。
序
前思わずかに起これば、後念相随う。
覚に由るが故に以って真となり、迷に在るが故に而も妄となる。
境によって有なるにあらず、唯だ心より生ず。
鼻索牢く牽いて擬議を容れざれ。
現代語訳
一つ何かを考えると、それにつられて次の考えが浮かぶ。
真実について考えれば正しいが、妄想であれば邪に堕ちる。
しかし物事それ自体には正邪などというものはない。すべては自分の心から生じていくるものだからだ。
牛の綱をしっかりと牽いて、邪心をのぞかせないように。
頌
鞭策時々身を離れず。
恐らくは伊が歩を縦にして埃塵に入らんことを。
相将いて牧得すれば純和せり。
羈鎖拘することなきも自ら人を逐う。
現代語訳
鞭も綱もまだ手放すことはできない。
牛はまだ勝手に動き回り、埃や塵にまみれてしまうから。
すぐ隣に寄り添って共に暮らせば、やがては温和しくなるだろう。
そうすれば手綱を握っていなくても、独りでに後をついてくるようになる。