禅の視点 - life -

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「ごみ箱」って「護美箱」っていう漢字だったの!? いえ、当て字です。

ごみ箱,漢字

「ごみ箱」って「護美箱」っていう漢字だったの!? いえ、当て字です。

永平寺で雲水として修行をしていた頃、廊下を歩いている時などに、たまに参拝者の方から質問を受けることがあった。
タイトルの文字についてである。「護美箱」という。
じつは永平寺の廊下には「護美箱」と墨書された箱が、ところどころ参拝通路の壁に掛けられているのだ。


「すみません、これってやっぱり、ごみ箱のことなんですか?」
「ええ、そうですよ」
「ごみ箱って、こういう漢字だったんですね」
「いえいえ、当て字です。でも『護美箱』としておくと、だいぶ意味合いが変わって面白いですよね」
参拝者とのそんなやりとりが何度かあった。


当て字でなく、「ごみ」という字に正しく漢字を当てるなら、「芥(あくた)」や「塵(ちり)」になるという。
ただしどちらも「ごみ」と発音して読むことはない。
意味が「ごみ」に類するものだから「ごみ」の語に選ばれているというだけ。


したがって「芥箱」と書けば、意味の上では「ごみばこ」と読めることになる。
あるいは「塵箱」と書いても「ごみばこ」と読めることになる。
芥箱も塵箱も、意味としてはゴミ箱に通じるのだろうが、社会のなかで実際にそのような言葉を見聞きすることはなく、慣れないせいかとても読みにくい。
というか読めない。


「芥箱」を何と読むか? と人に問うても、おそらく「ごみばこ」という回答はほとんど聞けないだろう。
圧倒的に「あくたばこ」が多く返ってくると思われる。
芥川龍之介にちなんだ箱か?」 
と思われる程度ではないか。


そんな芥箱の親戚というか、ごみ箱の兄弟に「屑かご」というのがいる。
それから「屑入れ」という兄弟もいる。
これら2つは、ともに「ごみ箱」の意味で実際に使われている言葉である。
屑も「ごみ」と同じようなものだから、屑かごというネーミングは「芥箱」や「塵箱」と同じ発想ということになり、どうしても「ごみ箱」を漢字で表記したいというときは「屑籠」がもっとも近いかもしれない。


しかしそうなると、今度は読み方がどうしても「くずかご」になってしまい、「ごみばこ」でなくなってしまう。
歩み寄りによって「屑箱」という折衷案にまずは辿り着きたいところだが、なかなか折り合いをつけるのは難しいようで、実際に「屑箱」という言葉を聞いたことはない。
「芥箱」や「塵箱」よりかは「屑箱」のほうがよりわかりやすい気がするのだが。


もっとも、実際に使われているというのなら、「塵取り」も実際に使われている言葉だ。
ごみ箱の従兄弟のような関係になるだろうか。
掃除機が普及した現代においては、その姿を目にするのは学校の掃除の時間くらいとなってしまった感があるが、それでも塵取りは現に生きている言葉である。


以上のように、考えればいくつもの「ごみばこ」の漢字候補はあるわけだが、永平寺に設置された箱には「護美箱」の文字が選ばれた
それも永平寺に限らず、日本の観光地ではけっこうこの「護美箱」という当て字を使っているところが多い。
特に寺院や神社で多い。
なぜなのだろうか。


護美箱は、ごみを入れる箱ではない

「護美箱」は正しい字ではない。当て字である。言葉遊びである。
それでも永平寺ではこの文字が選ばれた。
選ばれるだけの理由を考えてみると、なるほど確かにこの言葉には「芥箱」や「屑籠」や「塵取り」たちとは根本的に異なる性格がある。
「芥箱」や「屑籠」や「塵取り」たちでは表現できないものを、見事に伝えることに成功している。


つまりこれは「ごみ」を捨てるための箱なのではなく、「美しさを護る」箱なのだ。
何を入れるかではなく、何のためにあるのか
どこに主眼を置くかで、これほどまでに意味合いが変化する点が面白い。


そしてさらに興味深いことに、この当て字は禅の思想に通じるところもある。


禅では、存在に固定的な価値は存在しないと考える。
この社会に存在する価値とは、それを価値と見る人の目によって上がったり下がったりするものであり、不確かなものだ。
空き缶はゴミだといって捨てられるが、アルミという資源なのだと捉える視点から見れば宝である。
じゃあ一体、空き缶はゴミなのか、宝なのか。


本当は、どちらでもない。
それを価値と見るのも無価値と見るのも、どちらも人の目に映る価値観であって、空き缶そのものをみてはいない。
空き缶に付属するものを見ているのであって、それは空き缶ではない。
つまり、それが自分にとって無用なものか有用なものか。
人が下す価値の判断は、詰まるところそれなのである。
自分にとって、価値があるか、価値がないか
それによって、物は「ごみ」にもなり「宝」にもなる。


しかしそのような判断は、そのもの自体を見てはいない。
空き缶は空き缶であって、本来ごみでも宝でもない。空き缶である。
「価値」という視点でみれば、空き缶は価値か無価値かのどちらかに振り分けられてしまうが、そもそも価値という視点で物事を眺めること自体がつまらないのだ。
存在は、価値か無価値かで振り分けられてしまうものなのか。
もっと面白い、存在そのものを見抜く視点で世の中を見れば、存在は驚くほど自由に堂々と自分の在り方を全うして存在していることを知ることができるというのに。


空き缶は空き缶であって、パンの袋はパンの袋であって、「ごみ」ではない。
この箱は、存在しない「ごみ」を入れるのではなく、美しさを護るための箱である
ゆえに「護美箱」という。
もし「ごみ箱」と表記してしまえば、あたかもこの世界に「ごみ」などというものが存在するかのごとき誤解を与えてしまう
それではいけない。


……とまあ、本当にそんな理屈で設置したのかは知らないが、これを「ごみ箱」とせずに当て字でしかない「護美箱」と墨書して設置した人の決断力と、「護美箱」という当て字を思いついた人の発想力を、私はちょっと尊敬している。