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「宗教」という言葉は5分で理解できる - 日本人が宗教に馴染みがないのはなぜか? -

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宗教という言葉は5分で理解できる

宗教」という単語は、じつは比較的新しい言葉である。
明治期に輸入された「Religion」という単語の翻訳語として、宗教という言葉は日本に生まれた。
ただ、昔から存在していたわけではない言葉ということもあって、私たち日本人はこの宗教という言葉が何を指しているのかを、はっきりと把握することが難しい
そもそも「Religion」に相当する言葉があったら、それを和訳としてあてはめればよかったのだが、それに相当するものが思いつかなかったから、「宗教」という新しい言葉を生み出したのだ。
概念が存在しない新しい言葉を理解することが難しいのは、当然といえるだろう。


それで、宗教という言葉が生まれて100年以上を経て、日本人はこの言葉をどのように捉えるようになったのかというと、「宗教=教団宗教」と考えるようになった。
特に、キリスト教と新宗教がその典型とされた。
仏教と神道は宗教というよりも、地域や生活に昔から根付いているものとして受容されていったようで、ことさらにそれを宗教と意識する人は少なかったようである。
宗教という新しい概念には、見慣れたものではなく真新しいものでなければうまくイメージに当てはまらなかったのかもしれない。


ただ、それで宗教というものが把握できたかというと、そんなことは全然ない。
信仰とか、神を信じているとか、漠然とそんな意識はあっても、それ以上のイメージが湧かない。
やっぱり、実感として掴み所がないのである。
もっとなにかこう、日本人の誰もが理解できるような訳はないのだろうか。
……それが、あるのだ。

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宗教とは「道」である

大学で宗教社会学を学んでいるときに知った、とある日系二世の宗教社会学者の説明はまさに目から鱗であった。
彼は日本とアメリカの両方の土地で暮らしてきたという生い立ちであったため、両者の文化をともに肌で感じて育ってきた。
だから日本人が感じる「宗教」と、アメリカ人が感じる「宗教」を、ともに感覚として知っていた。
彼が思ったのは、両者が「宗教」という言葉に対してイメージするものに、だいぶ隔たりがあることであった。
そこで、アメリカ人が抱く「宗教」に似た日本語がないかを模索した。
そして、非常に似た概念を有する言葉が日本にも存在することに気が付いた。
それが「(どう)」である。
剣道、柔道、書道……という、あの「道」だ。


道と名のつくものは、礼が非常に重んじられる。
畳に上がる時には一礼をするなど、誰も人がいなくても礼をする。
では一体何に対して礼をしているのか?
何でもない。
誰がいなくても、ただそこに礼を尽くす心が「道」なのである。
「心技体」の筆頭に挙げられるほど、そこでは心が重要視される。
心とは、言うまでもなく「道」の心である。


この「道」という概念は、言葉で説明することができなくても、我々日本人ははっきりとその意味を摑むことができる。
「道」と付かなくても、たとえば野球のはじまりにもグラウンドに向かって一礼をする選手を見るが、その姿を見ても我々は何も違和感を覚えない。
単に原っぱで頭を下げている人を見かけたときは、違和感を覚えるだろう。
どちらも、「何ものでもないもの」へ頭を下げているのに、なぜ違和感に差があるのか。
「道」か、そうでないかの差である。
この場合、野球道とでも呼べばいいだろうか。


あるいは、バスケットボールのように手で扱うものを足で扱うようなことがあると、私たちは非常に違和感を覚える。
同じボールであるサッカーボールを足で扱っても何も違和感などないが、バスケットボールを足で蹴ろうものなら、
「お前にバスケをやる資格はない」
とまで思う人もいるだろう。
バスケ道である。
この感情は何なのか。
それが「道」の感覚なのだ。
そしてこの「道」こそが、アメリカ人が「宗教」という言葉に対して抱くイメージに非常に似ているのだという。

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無宗教であることの意味

海外、特に信仰心の篤い国や地域で
「私は無宗教です」
ということを言うと、
お前は本当に人間か!?
という反応が返ってきたという話を何度か耳にしたことがある。
日本人にとっては、宗教を持たないだけで何をそんなに驚かれるのかと、理解に苦しむ方も多いと思われる。
しかし相手にしてみれば、
私はバスケットボールを足で蹴ることに何のためらいも感じません
野球場に入る際に一礼する気持ちを持ち合わせていません
ということを堂々と言ってのけるのと同じに聞こえるわけで、
「お前は本当に人間か!? なんてふてぶてしい失礼なヤツだ」
と思われているというわけだ。
それさえ理解できれば、「無宗教」ということがどのように捉えられるかがすんなりと理解できるのではないだろうか。


「宗教が無い」とは、単に神を信じていないというだけの意味にとどまらない。
そこで語られる神とは、必ずしも超越的な存在として明確な輪郭をもつ神ではなく、日本人が誰もいない道場に向かって、あるいはグラウンドに向かって礼を尽くすときと同じように、「何ものでもないもの」をも含むのである。
「何か」を言葉で表すのは難しいが、その「何か」を大切に思う心もまた、立派な「宗教心」なのだ。
ゆえにこの心がないということは、目に見えないものを大切に思う心がないことと同義と受け取られても仕方がないのである。

宗教とグローバル化

宗教と「道」が完全にイコールで結ばれるわけではないが、自分の経験と照らし合わせることが可能となるだけで、随分と宗教というものが身近に感じられはしないだろうか?
今後、グローバル化がさらに進むなかで、他国・他民族の理解が重要になることは間違いない。
そこには、日本人に馴染みのない「宗教」という言葉が存在してくる。
ただ宗教とは、「宗教」という言葉に訳してしまったがために馴染みがないのであって、その心は日本人であってもよく知っているのだ。
むしろ日本人は、「何ものでもないもの」を敬う心を自ずと身につけているという点で、非常に宗教的な民族であると私は思う


宗教=信仰=神。
この図式にとらわれないだけで、世界はもっと近くなる。