禅の視点 - life -

禅語の意味、経典の現代語訳、仏教や曹洞宗、葬儀や坐禅などの解説

坐禅の奥義書『普勧坐禅儀』を現代語訳するとこうなる 

普勧坐禅儀,坐禅,座禅

坐禅の要諦を説いた『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

禅宗とは、坐禅宗の意であるといっても過言ではないほど、その中心には坐禅が据えられている。
なぜ坐禅を重んじるのかといえば、坐禅こそがブッダから伝わる正しい仏法であると考えられているからだ。


そんな禅門において行われる坐禅には、何かを得ようという意味の目的がない。
坐禅をする姿が悟りの姿そのものであるから、坐禅をすること自体が目的なのであって、それよりほかに目的を想定しないのである。


これは逆に言えば、坐禅という行為を目的を得るための手段にしないということでもある。
悟りとは坐禅をする姿そのものであって、坐禅の末に悟りを開くのではないということが、禅においては非常に重要なポイントとなっている。


難解な『普勧坐禅儀』

そういった坐禅の要諦を多くの方々に知ってもらうことが大切なのだと、曹洞宗の開祖である道元禅師は考えていたようだ。
実際、道元禅師は、仏法を学ぶために留学していた中国から日本に帰ってきた際に、坐禅に関する短い書物を著している。
それが『普勧坐禅儀』である。


訳せば、「普く人のために坐禅の要諦を記した書物」となる。
この書物には坐禅の意義・方法・注意点などが述べられており、道元禅師が坐禅を広めようとした痕跡がありありと感じられる。


ただ、日本語で書かれたこの書物も、800年近い時間の経過とともに馴染みのない言葉となってしまったことは否めない。
日本人であっても、この書物を原文のまま読んで意味がすんなりとわかるかといえば、そうとはいえないだろう。


坐禅をしている方、興味のある方、またそうでない方にも、ぜひ一読していただきたい内容となっているのだが、意味がわからなければ伝わらない。
現代語訳を行う背景には、そのような理由がある。

『普勧坐禅儀』の現代語訳

以下に『普勧坐禅儀』の現代語訳を綴る。
原文を13の段落に分け、それぞれの段落の書き下し文を記した後に、現代語訳を書いていきたい。
特殊な漢字の読み方も多く、ルビを多くふったために読みにくいか箇所も多々あるかもしれないが、何卒ご容赦いただきたい。

書き下し文①

(たず)ぬるにそれ、道本円通(どうもとえんづう)いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。
宗乗自在(しゅうじょうじざい)なんぞ功夫(くふう)を費さん。
いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。
おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。

現代語訳①

そもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。
眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。
その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。


塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。
また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。


今自分がいるこの場所で十分なのである。
特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではないということを、まず知っておいてほしい。

書き下し文②

しかれども、毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔り、違順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心を失す。
たとい、会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道を得(え)、心を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

現代語訳②

ただ、真理を悟ることに特別な技法は存在しないと言っても、真理を見つめる自分の眼に少しでも自分本位な部分があったなら、眼に映る世界は真実の世界からかけ離れたものになってしまうだろう。


真実を悟ったとか、自分の理解はすばらしいだとか、物事の本質を摑んだとか言って、有頂天になってしまったなら、それはもはや真実を知る道を自分でふさいでしまったに等しい。

書き下し文③

いわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。
少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。
古聖すでにしかり、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。
ゆえに、すべからく言(こと)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。
すべからく、回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。
身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。
恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼(いんも)の事を務めよ。

現代語訳③

仏法を学ぶ者は知っていることだろうが、かのブッダは6年間の苦行の末に坐禅を行い悟りを開いた。
ブッダの心を受け継いだ達磨禅師は、9年間もの永きにわたって壁に向かってひたすら坐禅をした。


昔の偉大な方々は、これほどまでに坐禅を重要視してきた。
我々が坐禅をしなくてよい道理など、あるはずもない。


人の言葉や書物の文字から真理を摑もうというのは、所詮、観念的な理解の域を出ないものだ。
外から何かを学ぼうというのではなく、坐禅によって、真理を自己の内側に求めるのでなければ、いつまでたっても真理を知ることはできないだろう


身と心が坐禅となりきったとき、真理はありのままに目の前にあらわれる。
この道理を知りたいと思うならば、実際に坐禅をはじめる以外に方法はない。

書き下し文④

それ、参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり。
諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。
あに坐臥(ざが)に拘わらんや。

現代語訳④

さて、坐禅を行う際の方法であるが、まず坐禅を行うのは静かな場所がいい。
また、食事の直後のように腹が膨れた状態や、空腹の状態での坐禅は避けたほうがいい。


人は日々、いろいろなことを考えながら生きているが、何かを考えることをすべて一度やめて、良いとか悪いとか正しいとか間違いだとかいう判断も下さずに静かに坐りなさい。
心で何かを感じようともせず、頭で何かを考えることもせず、もちろん悟りを開こうなどとも思わずに坐るのだ。


こうした坐禅は、日常生活のなかでただ単に座ることとはまったく別の話である。


書き下し文⑤

尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。
あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)
いわく結跏趺坐は、まず右の足をもって左の腿の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。
半跏趺坐は、ただ左の足をもって右の腿を圧(お)すなり。
(ゆる)く衣帯を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。
次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。
両の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。

現代語訳⑤

通常の坐禅は、座布団などの厚い敷物を敷き、その上に坐蒲という丸い蒲団をのせて、その上に自分の腰を据える。
坐り方には、結跏趺坐と半跏趺坐がある。


結跏趺坐とは、まず右の足先を左の腿の上にのせ、つぎに左の足先を右の腿の上にのせる形をいう。
半跏趺坐とは、右足は動かさず、左の足先を右の腿の上にのせるだけの形をいう。


服装についてであるが、窮屈なものはよくない。
ゆったりとした服がよいが、くれぐれもだらしなく着ることのないように、きちんと整えた上で坐禅をすること。


足を組んだら、次に右手を、手のひらを上に向けた状態で左足の上におき、その上に左手を、やはり手のひらを上に向けた状態でのせる。
そして両手の親指の先を、微かに触れる程度にくっつけて法界定印を結ぶ。

書き下し文⑥

すなわち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。
耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。
舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、すべからく常に開くべし。

現代語訳⑥

坐禅の形が出来上がったら、必ず背筋を伸ばして真っ直ぐに姿勢を正すように。
左右どちらかに傾いたり、前に俯いたり、後ろにのけぞったりした状態で坐禅をしてはいけない。


両耳を結ぶ線と両肩を結ぶ線が平行になり、その線に鼻と臍(へそ)を結ぶ線が垂直になるように意識すること。
舌は上の前歯の付け根のあたりにくっつけて、歯を噛み合わせて口を閉じる。
眼は必ず半眼にして、閉じずに少し開けておく

書き下し文⑦

鼻息(びそく)微かに通じ、身相(しんそう)既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、この不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。
不思量底、如何(いかん)が思量せん。
非思量(ひしりょう)
これすなわち坐禅の要術なり。

現代語訳⑦

呼吸はゆっくりと鼻で行う。
そのようにして坐禅の姿勢が整ったら、一度大きく深呼吸をして、体を左右にゆっくりと揺らすのを繰り返しながら、中心となる場所を感じ取ってどっしりと不動の坐を結ぶ。


大切なことなので改めて言うが、坐禅とは頭での理解ではない
考えるという営み自体は非常に重要だが、本当の理解とは、頭で考えて得られるものではない。


理解ではないと理解することが坐禅を会得する第一歩なのだが、それを理解したところで、それもまた結局は頭での理解にほかならない。
では理解ではないところの理解とは何なのか。
それは、理解ではないものへの理解である。


頭のはたらきから離れた境地、是非や善悪といった価値判断を忘れ去った境地。
そういった理解ではないものを理解するとき、自分と他者を隔てる壁が消失したような心地に至ることがある。


そこにはもはや、坐禅を理解しようなどという思い自体が存在しない。
坐禅という概念すらあやふやになって、自己と坐禅とが別のものではなくなるのである。
世界を感じ、世界そのものとなる。


それが坐禅の妙味であるといえるだろう。

書き下し文⑧

いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。
ただこれ安楽の法門なり。
菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。
公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。
もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。
まさに知るべし、正法(しょうぼう)(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。
もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。
卒暴(そつぼう)なるべからず。

現代語訳⑧

いわゆる坐禅というものを、心を落ち着ける技法とか、悟りを開くための修行法と考えてはいけない。
坐禅とは、安らかに生きる入口である
日常生活のあらゆる場面で、坐禅をしているときのような心で生きることが大切であるから、坐禅は入口なのだ。


坐禅は仏の姿にほかならない。
人が、人でありながら仏となる坐禅は、まことに尊い姿である。
それは悟りのあらわれであるともいえる。


自分本位の自我意識を忘却すれば、身と心は本当に自由なものになるのだ。
それはあたかも、龍が水を得て本来の力を発揮するように、虎が山に入って本分をまっとうするように、存在が本来あるべき姿を取り戻すことに似ている。


存在の真実は、いつでも目の前にあらわれている。
それに気が付きさえすれば、迷い悩む心は消失する。


坐禅を終える際についてだが、ゆっくりと体をほぐしながら、坐禅の心を維持するように安らかに立ち上がるように気を配ること。
急いだり、荒々しく動いたりしてはいけない。


書き下し文⑨

かつて観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力に一任することを。
いわんや、また指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、仏拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、いまだこれ思量分別のよく解するところにあらず。
あに、神通修証(じんづうしゅしょう)のよく知るところとせんや。
声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。
なんぞ知見の前(さき)の軌則にあらざるものならんや。

現代語訳⑨

かつての禅者のなかには、凡聖などという人間の計らいを超えた人物や、坐禅を組んだまま亡くなるという傑物が何人も存在した。
そのような力はすべて坐禅から生まれたものだ。


また、禅師が弟子等を導く際には、機敏に心をはたらかせて様々な方法が用いられてきたが、そのはたらきの根源にあるものは知識などではなく、やはり坐禅であった。
このような坐禅の力は、不可思議な力、つまりは神秘的な能力などとは関わりがない。


目の前にあらわれているあたりまえの世界を、真実の世界だとはっきり受け取ることが重要なのであって、眼に映る存在の裏に何かが隠れているのではないかとか、不思議な力があるのではないかと考えることが坐禅なのではない。

書き下し文⑩

しかれば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ。
専一に功夫(くふう)せば、まさにこれ弁道(べんどう)なり。
修証(しゅしょう)(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)さらにこれ平常(びょうじょう)なるものなり。

現代語訳⑩

坐禅において、頭の良し悪しや、学歴や学問の有無などといった事柄は、まったく何の不都合ももたらさない。
自分本位の心を放り捨てて一心に坐禅に励めば、それ以上の坐禅は存在しないからである。


坐禅とは修行でありながら、同時に悟りの姿でもある。
過程でありながら、すでに結果なのだ。
特別なものは何もなく、難しいこともなく、ただ静かな心で坐ることで、誰もが坐禅とは何なのかを知ることができる。

書き下し文⑪

およそそれ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅(ほしいまま)にす。
ただ打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。
万別千差というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。
なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。
もし一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。

現代語訳⑪

どのような世界に生きる人であっても、インドでも中国でも日本でも、仏道を学ぶ者は坐禅によって世界の真理を感じ取ってきた。
悟りのあらわれである坐禅を続けることで、真理を摑んできたのである。


人は一人ひとりみな異なっており、その導き方も人の数だけあると考えられるが、坐禅をして修行に励むという点に関しては共通していなければいけない。
坐禅はどこか遠くへいかなければできないものではない。
修行とは外に求める心を起こすことではない。


今自分がいるこの場所で、自分の内側に眼を向ける
それが重要なのであって、そこを間違えれば坐禅は坐禅でなくなってしまう。

書き下し文⑫

すでに人身の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ることなかれ。
仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。
しかのみならず、形質(ぎょうしつ)は草露のごとく、運命は電光に似たり。
倐忽(しゅくこつ)としてすなわち空じ、須臾(しゅゆ)にすなわち失す。

現代語訳⑫

不思議なもので、私たち人間は、気が付けばいつの間にか人間としてこの世界に生まれていた。
人間として生まれたのであれば、人間としてまっとうに生きるのが常なのであって、無駄に時間を費やすようなことをしていては空しいだけだ。


だから一時の快楽を追い求めることや、易きに流れるような生き方をしてはいけない。
私たちの命は、いつでもすぐに消えてしまうほど儚いものである。
無常の世界にあって、時間が無限にあると思い込んでしまうと、本当に大切なことを知ることなく、生を終えてしまうことになりかねない


書き下し文⑬

(こいねがわ)くは、それ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って真龍(しんりゅう)を怪むことなかれ。
直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣(てきし)せよ。
久しく恁麼(いんも)なることを為さば、すべからくこれ恁麼(いんも)なるべし。
宝蔵(ほうぞう)(おのずか)ら開けて、受用(じゅゆう)如意(にょい)ならん。

現代語訳⑬

最後に、仏道を学ぼうと志す人たちに申し上げる。
人の言葉や、書物の文字、知識の一端から垣間見た坐禅で、坐禅を理解したと思い込むことだけはしてはいけない。
必ず自分自身で坐り、そのようにして修行をする人の姿から学び、先人が切り開いた心を自分の心にも生じさせ、ブッダから伝わる坐禅を正しく受け継がなくては、それは坐禅ではない


ブッダの坐禅をあなたが行えば、あなたはブッダと同じ坐禅をしたことになる。
その時、あなたの心は平安に満ちて、眺める世界がすべて真理のあらわれであったことに気が付くことができる。
それが、ブッダから伝わる坐禅である。

おわりに

永平寺で修行をしていたころ、この『普勧坐禅儀』を毎日のように読んだ。
永平寺では毎晩1~2時間の坐禅をするが、その終わりに必ず『普勧坐禅儀』を読むのである。


ほの暗い禅堂の中で、足を組み坐禅をしながら、修行僧が声を合わせて朗々と読みあげる。
それは経典というよりも、道元禅師の想いが綴られた手紙のようであった。
道元禅師がその生涯をかけて伝えようとした坐禅。


その想いが綴られた坐禅の奥義書が、この『普勧坐禅儀』。
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