読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

娑婆(しゃば)って、どういう意味? ~身近な仏教用語~

f:id:zen-ryujo:20170323230550j:plain


【娑婆】身近な仏教用語の意味

刑期を終えた男が刑務所から出てくる。
「もう戻ってくるなよ」
看守のつっけんどんなはなむけの言葉を背に受けて、数年ぶりの外の世界へ歩き出す。
男は空を眺めて思った。
ああ、久々の娑婆の空気は美味いな


……使い古されたシチュエーションを再利用してしまったが、このようなストーリーのなかで登場することの多い言葉が、「娑婆」。
世間から隔離された場所や異質な世界から一般社会を指す言葉として使われることの多いこの娑婆という言葉は、じつは仏教用語なのである。


娑婆という漢字を見ると、なんとなくお婆さんを連想してしまうのは私だけかもしれないが、漢字自体には何の意味もない。
それもそのはず、娑婆という言葉はサンスクリット語の「サハー」という言葉の音訳で、単純に「サハー」という発音に似た音のする漢字を当てただけだからである。
つまり「シャバ」と「サハー」はまったく同じ言葉ということ。


したがって重要なのは「サハー」という言葉の意味の方なのだが、これはだいたい「忍土(にんど)」と意訳されることが多い。
忍ぶ土。
忍ぶというのは耐え忍ぶことで、土というのは土地、社会、世間、人が生きるこの世界を指している。
つまり私たちが生きるこの世界は、耐え忍ぶことを前提とした世界であるというのが、娑婆という仏教用語の意味なのだ


耐え忍ぶことが前提……。
なんだかとても気分が滅入るような前提である。
楽々が前提、とは言えない現実が厳然として世界には存在しているから、安々と軽い言葉は発せられないが、それでも耐え忍ぶことが前提にあってその世界を生きるという発想は、素直にはちょっと受け入れがたい
せめて50/50のイーブン。水戸黄門の「人生楽ありゃ苦もあるさ」くらいのほうが、一般には受け入れられそうな気がする。


そんなことも相まって、仏教の世界観というのは悲観的だと考えられることがある。
ブッダ自身「生きることは苦である」と真実を悟ったといわれている。
随分と辛い真実を悟ってしまったものだと思う。
生きることは苦だなんて。


ただ、争いが絶えず、病から逃れられず、人には必ず死がそなわっているという現実を見れば、生きることは確かに苦なのかもしれないと、奥歯を噛みしめたくもなる。
微力ながら支援をさせていただいている「認定NPO法人 国境なき子どもたち」から届くニュースレターを読んだ時など、その思いはより一層強くなる。
親の愛を知らず、優しさや温かさに触れることもできず、ストリートチルドレンとして苛酷な人生を生きている子どもたちにとって、この世はまさに忍土以外の何ものでもないのではないか。

【スポンサーリンク】


「苦」とは「思いどおりにならない」こと

「生きることは苦である」というブッダの言葉に代表されるように、仏教では「苦」というものを非常に重要視している。
そして仏教では「苦」の本質を、「思いどおりにならないこと」だと考えるに至った。
世間一般で考えられているような単なる「苦しみ」という意味ではなく、「思いどおりにならない」ことが「苦」の本質だと捉えたのである。
どういうことか。
これは僅かな言葉の違いのようでいて、じつはとてつもなく大きな違いを含んでいるので、ちょっと注意して理解する必要がある。


仏教では、「苦しみ」というもの自体が世界に存在しているのではなく、自分の思いどおりにしたいという欲求が満たされない時、人は「苦」という感情を抱くと考える
苦とは、自分の欲求と、それが満たされない現実との間にある「隔たり」のことで、苦しみ自体が世界に存在しているのではない
あくまでも苦しみは隔たりから生じており、したがって隔たりがなければ「苦」という感情を抱くこともないと考えるのである。


たとえば、こういうこと。
贅沢に暮らしたいと思いながらも、金がなかったとする。
思いと現実の間にこのような隔たりが生じるとき、人は「苦」という感情を抱く。
この「苦」の原因を「金がないこと」にあると考える人は多いが、そうじゃない。
金がなくても「贅沢に暮らしたい」と思わない人は、「苦」を感じていないからである
金のあるなしによって「苦」を感じているのではなく、思いと現実の隔たりによって「苦」を感じているという事実が、これで理解していただけるのではないだろうか。
あらゆる「苦」はこれと同じように、思いと現実の間に隔たりが生じたときに湧き起こる感情なのである。
現実だけで「苦」は生じない。


娑婆という仏教用語は、人が生きる世界を耐え忍ぶ世界と考えた言葉である。
その耐え忍ぶという言葉の意味も、「苦」と同じ種類のものなのではないかと私は思っている。
心によって出現した「苦」に、耐え忍ぶ世界
最初から世界に耐え忍んでいるわけではない。
最初から「苦」が存在するわけではない。


思いと現実との隔たりによって「苦」が出現するなら、たとえ忍土であっても救いはある。
現実を変えることができなかったとしても、心さえ整えることができれば、幸せを感じることができる可能性が残されているからだ
幸せの根源は外界ではなく、あくまでも内界にある自分の心。
だからその一点、心に、禅はこだわり続けるのだろう。


心を整えるには、身を整える必要がある。
身を整えるには、環境を整えることも重要。
特に子どもの場合は外界からの影響をより強く受けてしまう。
まだ成長途中の子どもにとっては、強靱な精神でもって環境に関係なく身を整えるということは容易なことではない
だから援助が必要なのである。


「国境なき子どもたち」をはじめ、困窮する人々に援助の手を差し伸べようと最前線で活動されているすべての方々に対して、本当に頭が下がる思いを抱く。
微力ではあるが、自分にできることを考えて、支援をさせていただきたい。
忍土と呼ばれるこの娑婆にあって、それが子どもたちの幸せにつながるのなら、なおさら。