【禅語】妄想すること莫れ(もうぞうすることなかれ)
たとえば、次のようなことを考えた人がいたとする。
あの人は若くして亡くなったから不幸で、この人は100歳まで生きたから幸せ者だった、とか。
隣の家は高級車に乗っているから幸せで、向かいは車がないから不幸なもんだ、とか。
あの家では牛肉を食べているけれど、うちは鶏肉しか買えない。ああ、なんて不幸なんだ……とか。
いやいや、そうじゃないのだ。
本当に不幸なのは、他人と比較をすることで、幸せ・不幸せを判断してしまうその思考のほう。
比べなければ幸せを感じることができないのなら、それは本当には幸せでないということの証しだろう。
禅は比較によって意味を付与しようとする思考を「妄想(もうぞう)」と呼んで厳しく戒める。
「妄想すること莫れ」という禅語は、つまりはそういう意味だ。
あれとこれを比較して考えることをやめなさいということ。
相対的貧困
相対的に物事を眺めること、そこに上下の烙印を捺すことをやめなさい。
禅がそう説くのには理由がある。
妄想することで人は、不幸という概念を自分で築きあげて、その築きあげた楼閣のなかに自分を住まわせてしまうからである。
本当は不幸でないのに、人と自分を比べた途端、なんだか自分が不幸なように感じてしまう。
実際には存在することのない、自分がつくりだしたただの概念でしかない不幸によって、自分を不幸にしてしまう。
そんな不幸があるだろうか。
妄想とは、本当に恐ろしい行為なのである。
たとえば相対的貧困という言葉がある。
これは食料や生活必需品を購入することができる所得に達していない絶対的貧困とは異なる概念の貧困で、要するに国内の所得格差のことを指している。
十分に暮らしていけるだけの所得があっても、周囲の家々の暮らしが裕福なものであると、なんとなく自分が貧しい暮らしをしているように感じてしまうというようなものだ。
したがって相対的貧困とは、国内の所得格差が小さく、周り近所がみんな同じくらいの生活様式であれば感じることのない貧困感ということになる。
贅沢ができなくても、みんな同じなら貧乏とは思わない。自分を不幸だとも思わない。
みんな同じなら、「そういうもの」で過ぎていけてしまう。
一方で、たとえば不自由することのない暮らしをしていても、周り近所が自分よりも裕福であると感じた時には、不自由がなくても自分が貧乏なように感じてしまうことがある。
我々人間というのはどうしても周囲を気にしてしまう生き物で、他人との比較によって幸せ・不幸せを感じてしまうということは珍しいことではない。
しかし、そうした比較によって感じる幸福感・不幸感は、真実のものとはいえない。
自分を見ずに、他者を見て自分の幸・不幸を判断しているからである。
これを妄想と言わずして何と言うのか。
比較に捉われることで苦しむ
比べない。
比べることをしない。
単純で明快で的確な助言だ。
比べないということを裏返せば、それは畢竟「自分という存在を究明しなさい」という言葉に集約されていくことになる。
比較ではなく、比較する以前の自分を問題とするところに禅があるといえるだろう。
まあそれでも、わかっていたとしても、他者と自分とを比べずにいるというのはなかなかに難しい。
誰かから認められなくても、自分で自分を認めることができればそれでもう人は幸せになれるのだが、そこにいたるまでには比較の世間を生きなけらばならない。
社会で生きていけば人間関係がつきまとい、いやでも他者を意識してしまうような状況がそこかしこにある。
そんな時は、一度こんな想像をしてみてはどうだろうか。
みんな、ドングリ。
人はみんなドングリで、ドングリがドングリと幸せ比べをして時間を空費していく光景を。
私の体はこんなにも艶やかに輝いているわ。
俺の帽子は形も大きさも最高級なんだぞ。
私なんて樹齢500年のブナの木から生まれてきたのよ。
それより僕のまん丸の体を見て。
いやいや、吾輩の体のほうがもっと大きい。
私を見て、私はもっと――。
世の中に溢れる自己主張と比較の正体は、こんなドングリの言葉を人の言葉に置き換えたものばかり。
気にするほどのことでもなければ、耳を傾けるほどのことでもない。
結局、比較が何をしているのかといえば、ひたすらドングリの背比べ。
私のほうが高いとか、私のほうが立派だとか、私のほうがダメだとか。
ほかのドングリと比べ合って、勝った負けた、幸福だ不幸だと、ひたすら比べ合っているのがドングリと化した世の諸相である。
ドングリの背比べに勝てなければ、本当に幸せを感じられないのだろうか。
ドングリの背比べに負けることが、本当に不幸なことなのだろうか。
どのドングリの背が高かろうと、そんなのはどうでもいいことではないだろうか。
自分に目を向けず、他人に目を向けることによって、自分を不幸だと感じる。
比較という妄想をすることで、本当はありもしない不幸という概念を抱き、自分を不幸にしてしまう。
それでは人の生き方として悲しすぎる。
誰も自分を不幸になどできないのに、自分だけが自分を不幸にできてしまうのである。
もちろん、逆もそうだ。
だれも自分を幸せにはできないが、自分だけは自分を幸せにすることができる。
心の在りようで人は幸福にも不幸にもなる。
いや、なってしまう。
だから禅では、口を酸っぱくして何度も言うのである。
くれぐれも「妄想すること莫れ」と。