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【禅語】 露堂々 ~真理は目の前にはっきりとあらわれている~

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【禅語】 露堂々(ろどうどう)

家のなかでばかり生活をしていると、どうしても視界が狭くなりがち
どこを歩いても数メートル先には壁があって、解放された景色というものを見ることができない。
私はほとんどテレビを見ないが、仕事柄パソコンに向かっている時間は長い。
そんなときは、視界は数十センチ先の画面のみとなる。
およそ景色などという言葉とは無縁の世界。


それだけに、休憩中に境内に出たときには清々しく爽快な心持ちになる。
山あいに開かれた村のなかにある寺に暮らしているので、周囲の景色は自然そのもの。
田畑が広がり、山並みの稜線が幾重にも続いて、空は碧い。
草花を見ているとのんびりとした気持ちになって、とても和む。



そんなときに思い出すのが「露堂々(ろどうどう)」という禅語
「露」というのは「あらわれる」の意で、したがってこの禅語は「真理ははっきり堂々と目の前にあらわれている」といった意味の言葉である。


草は草としての本分をまっとうしてそこに存在している。
花は花としての本分をまっとうしてそこに存在している。
草が花になろうと無理をすることはないし、その逆もない。
目の前に広がる景色の1つ1つが、それぞれの真理を余すところなくあらわしている
それをはっきりと見よ、というのが、露堂々という禅語の主題というわけだ。


季節は少しずつではあるが毎日移ろっている。
気が付かなくても毎秒移ろっている。
春に向けて草は少しずつ成長するし、冬が近づけば葉は枯れていく。
人間の体の細胞だって、日々新しいものへと変わっていっている


そうした変化は無常という摂理そのもので、したがってそれらは無常という真理を説いていると受け止めることもできる。
あらゆるものが真理を露堂々と世界に表出させているのである。


しかし目の前に広がる真理があまりにも堂々としているものだから、人はかえってその真理には目を向けず、見えないところにこそ真理が潜んでいると考えてしまいがち。
深淵であり、容易には手に入れることのできないものを探そうとする。
それが真理だと考える。
そうでなければ真理でないと考える。


しかしそうした姿勢を、禅はすかさず指摘する。
跨いで通り過ぎてしまったその足もとにこそ、探しているものがあるんじゃないのかい?と。


頭で考えることはとても大切で、本から学ぶことも非常に多い
これは絶対に軽視してはいけないことである。
けれどもそうした知識とはまったく別な方法で、真理を感得する方法というものもあるのだ
花の姿も、花の香りも、花の感触も、本やテレビからは得られるのは断片的な情報にすぎず、真実は実際に花と出会うことでしかわからない。
そうした真実が世界には溢れている。
いや、世界すべてが真理にほかならない。


知識と体験。
あるいは体験的知識。
真理を探そうと思うなら、その探し物は自分の目の前にすでに堂々とあらわれているのだよと、人間の盲点を指摘し目を開かせようとするなんとも親切な禅語である。


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