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お彼岸とは何か? 仏教行事として考える彼岸の意味

お彼岸、仏教行事

お彼岸とは何か? 仏教行事として考える彼岸の意味

暑さ寒さも彼岸まで。ということで、今週は春のお彼岸だ。
朝晩の冷え込みも緩まり徐々に暖かさへと向かう今の季節は、外に出るのが楽しみに感じられる。
梅や早咲きの桜の花が開いていたり、緑が濃くなり茂りはじめた境内のあちらこちらから水仙の芽が飛び出ていたりするのを見つけると、いよいよ春だなあとの感慨にふけってしまう。
ついつい腕を空に向かって突き上げて背伸びをしたくなるのは、人も草も同じなのだろうか。


冬から春へ。夏から秋へ。季節の変わり目の時期にやってくるお彼岸は、昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を中日とし、前後それぞれ3日を含めた計7日間にわたる行事である。
つまりお彼岸は年に2回、春と秋にそれぞれあるわけだが、一般的に「お彼岸」といえば秋彼岸を指していることが多い。
ちょうど真紅の彼岸花が咲き誇る時期が秋だから、どうしても秋をイメージしてしまうのかもしれない。


意外と知られていないお彼岸の意味

お彼岸というのは当然のごとく仏教行事と考えられているが、意外にももともと仏教に彼岸という行事はなかった
インドにも中国にも彼岸という仏事は存在せず、不思議なことにこれは日本独自の行事なのである。
しかも日本における彼岸の歴史は古く、『日本後紀』には崇道天皇の供養のために日本諸国の国分寺の僧侶が集まり仏事が営まれたことが記されており、これが彼岸という仏事に関するもっとも古い記録となっている。


彼岸の時期に墓参りをするという方は大勢いらっしゃることと思うが、そもそも彼岸とは何なのか、なぜ「彼の岸」と書くのかを知っている方は少ないのではないだろうか。


彼岸という言葉は、サンスクリット語の「パーラミタ」の漢訳である。
漢訳のなかでも意訳であり、音訳のほうはというと「波羅蜜多」(はらみった)になる。
般若心経の正式名称、『摩訶般若波羅蜜多心経』にも登場する、あの波羅蜜多。
もとのサンスクリット語の発音がパーラミタだから「はらみった」という似た発音をする漢字を当てはめたわけだ。
だから波羅蜜多という漢字自体には何の意味もない。ただ発音が似ているというだけ。


パーラミタも波羅蜜多もどちらも同じで、意味は「向こう岸に渡る」といったものであり、したがって対岸を意味する「彼の岸」と意訳される。これが彼岸という言葉の意味である。
向こう岸に渡るという表現をもう少しわかりやすくし、「修行を完成させる」と説明されることもあるが、もちろんこの理解でも問題ない。


つまりこちらの岸(此岸)は迷いの岸で、あちらの岸(彼岸)は悟りの岸で、その間に流れる煩悩と欲望と執着の河を渡ることが修行に相当し、その末に彼岸に到るということである。
そのため、単なる彼岸ではなく到彼岸(とうひがん)と意訳されることもある。
こちらのほうが「渡る」という意味が強調されているのでわかりやすいかもしれない。


いうなれば彼岸の7日間というのは「集中修行週間」なるものであり、この期間はみんなで修行に励もう(河を渡って向こう岸に到ろう)という期間なのである。
秋の読書週間のような発想ともいえるだろうか。
仏教的な見地から言えば、彼岸とはそのような仏事(期間)となっている。

道元禅師が説く彼岸

修行を経て徐々に悟りに近づく。階段を一歩一歩上がるように、善行を積み重ねて高みに近づく。
修行観というのは一般的にそのように考えられるものだと思う。
仏教もこのように修行というものを位置付けて、日々修行につとめることが重要であると考えている。

お彼岸、仏教の修行観6


しかしながら、永平寺を開いた道元禅師の修行観というのはこれとは少し違う。
道元禅師は、修行と悟りは同時に発生するものだと考えた。
仏というのは、仏としての行いをしているから仏なのであって、仏としての行いをしていない仏というのはおかしい。
何もしない善人も、何もしない悪人も、やはりおかしい。
はじめから人は仏なのでも善人なのでも悪人なのでもなく、行いによって何者にでもなる
つまりその人を規定するものは「今の行い」以外にはありえないと考えたわけだ。


そうであるから、修行をしているとき、つまりは道を正しく歩んでいるとき、その人は仏と呼ぶべき状態にあるから、仏になっていると考えた。
逆に修行をしていないときは、仏ではありえない。
だから徐々に仏に近づくのではなく、仏行をすればそのとき人はもう仏になっており、仏行をやめればその瞬間に凡夫になると考えたのである。
悟りはゴールを意味するのではなく、目標に向かって歩む行程のすべてが悟りにほかならないと考えたわけだ。

お彼岸、道元禅師の修行観

到彼岸と彼岸到

こうした伝統的な仏教の考え方と、道元禅師の考え方の違いは、パーラミタの漢訳の仕方にもあらわれている。
通常であればパーラミタは「到彼岸」と訳されるが、道元禅師はパーラミタを「彼岸到」と受け取るべきではないかと主張しているのだ。「到」が「彼岸」の前にあるか後ろにあるかの違いである。
到彼岸と彼岸到では何が違うかというと、到彼岸は修行の末に悟りを得るという構図であるのに対し、彼岸到はすでに彼岸に到っているという考え方になる。
悟りというのは修行の末にあるものではなく、修行をするその瞬間にすでに現れるものだと考えたのである。

波羅密、到彼岸


つまり、迷いの世界や悟りの世界といった区別がすでに迷いであり、世界ははじめから迷いでも悟りでもなくただの世界で、そこで仏として生きるときに仏となり、凡夫として生きるときに凡夫となるだけだということ。
「彼岸へ到る」ではなく、最初から「彼岸に到っている」というわけだから、ここでいう彼岸は此岸でもあり、此岸は彼岸でもあることになる。どちらも一緒というわけだ。
こちらとあちらというふうに相対的な考え方をしないということは、1つのなかにすべてが含まれているということなのだから。


たとえ彼岸に立っていようと、仏としての行いをしなければ仏ではない。
たとえ此岸に立っていようと、仏としての行いをしているとき、人は仏になっている。
そうであるなら、もはや彼岸や此岸といった区別に意味はなく、「今、どのように生きているか」が重要となる。
生き方によって自分の立っている場所が彼岸にも此岸にもなりえるともいえるだろう。もともと此岸も彼岸も、河の下では同じ1つの大地としてつながっているのだから。
これが道元禅師が説く彼岸到の意味である。

波羅密、彼岸到


6つの修行徳目「六波羅蜜」

彼岸の理解が到彼岸でも彼岸到でも、重要なのはやはり「修行をする」点にあるだろう。
しかし漠然と修行をしようと思っても、具体的に何をしたらいいかわからないと困惑してしまうかもしれない。


そこで仏教では、パーラミタのために具体的な修行項目を6つ挙げている。
それが六波羅蜜(ろくはらみつ)とよばれるものである。6つのパーラミタだから六波羅密。
お彼岸の一週間を、以下に挙げる6つの修行に挑戦する一週間として考え行じていただければ、人はお彼岸のあいだ仏として生きたことにもなる。
ぜひお彼岸を仏週間にしてしまおう。

布施(ふせ)

布施というのは物や言葉など、相手のためになるものを施すことで、見返りを求めることのない行いをいう。
そうした無償の行為というのは執着を離れることで可能になるものでもあるため、布施とは執着心から離れることとも言い換えれる。

持戒(じかい)

持戒とは人の迷惑にならないよう、悪い言葉や行いを慎むことをいう。それはつまり戒を持続させることと同義であるため、持戒という。
独りよがりの行為は、たとえ自分は相手のためになると思っていても、実際には迷惑でしかないという事態にもなりえる。
相手の気持ちを第一に考えるというのも、持戒の1つ。

忍辱(にんにく)

耐え忍ぶというのも忍辱の理解として間違いではないだろうが、それよりも、自分の未熟さから目をそむけずに見据えると受け取ったほうがいいかもしれない。
たとえば注意を受けてただ我慢をするのではなく、自分の何が至らなかったのかを冷静に省みることのほうが、成長という面から見て重要だからである。
本当の辱は、自分の過ちを改めないこと。ここを見据える修行が忍辱なのではないか。

精進(しょうじん)

精進とは、正しく生活しようと努力を続けること
人間誰しも怠け心があるもので、そうした心があることも受け入れた上で、もうちょい頑張ってみるか! と自分を鼓舞する精神を失わないことともいえるかもしれない。
ただし推進力だけ生み出すことができても、肝心の方向性が誤っていたらどうにもならないので、歩むべき道を間違えない羅針盤のような心を持つことが精進であるともいえる。

禅定(ぜんじょう)

禅定とは、澄んだ心の状態を保つこと。
いわゆる坐禅をしているときの精神状態が禅定であるが、それはなにも坐禅のときだけに求められるものではない。
日常生活のあらゆる場面を、坐禅のような整った心ですごすこと
こうした修行を禅定という。

智慧(ちえ)

最後は智慧。
本当に正しいことは何かと考え、我見にこだわらず、人の意見に流されず、情報を鵜呑みにもせず、真理を見極めていこうとする頭のはたらきのこと。
正しさとは何かと自分自身にむかって問い続けるという態度は極めて重要で、仏教においてもこの智慧を身につけることが最終的な目標とされている。

六波羅蜜の相補性

六波羅蜜は便宜上6つにわけられているが、実際にはこのようにはっきりと区別できるものでもない。
布施という行為のなかには持戒や忍辱や精進など、他の六波羅密の徳目も含まれており、したがってこれらはすべて複雑に関係し合っていると考えたほうがいい。
こうした修行によって人は仏として生きることができるという、6つの例のようなイメージで理解していただければ幸いである。


先祖の供養とともに、ぜひ自分自身の修行期間であるとの認識を深めて、春と秋の「集中修行週間」であるお彼岸を過ごしてみてはいかがだろうか。