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【禅語】愚の如く魯の如し ~愚直という偉大な生き方~

愚の如く魯の如し

愚の如く魯の如し ~愚直という偉大な生き方~

「偉大な大工は、誰も見ないからといって、キャビネットの裏側にひどい木材を使ったりはしない」

これ、スティーブ・ジョブズの言葉なんですってね。誰からも見られないところや目立たないところだから、手を抜こうと思えば抜ける。抜いたって、もしかしたら誰も気づかないかもしれない。けれども手を抜かない。目立つところだけに一生懸命になるのではなく、自らの仕事を細部に至るまで完遂する。偉大な大工ってのはそういうもんだ。


なるほど鋭い言葉だと思います。鋭いし、巧い。たとえば掃除をするとき、表のほうばかりをよく掃除してしまうってことが私自身も多々ありますもの。人からよく見られるところ、目につくところ、そういったところに多くの時間を割いて、裏庭とか、人目につかないところはそれなりに……。「キャビネットの裏側にひどい木材を使ったりはしない」というジョブズの言葉は、こういった思考への戒めなのでしょう。なんだか図星といったふうに指摘されているみたいで恥ずかしくなってしまいます。


誰も見ていないところで、誰にも知られないところで、それでも変わらずに努力を重ねることができるか。人の真価とはそういうところに現れるのかもしれません。「神は細部に宿る」なんていう言葉もありますしね。だから、他人からどう思われるかが自分の価値だと思って表面ばかり取り繕っているようでは、ジョブズの言う「偉大な大工」には永遠になれないのでしょう。あるいは物事を考えるときに効率ばかりを優先してしまうと、それもまた裏側で手を抜くという結果に結びついてしまいかねません。比較することをやめて、表裏ともに愚直なまでに平等に丁寧に行うことが、平凡のようでいてもっとも地に足の着いた生き方のように思えます。「偉大」とは、見上げた上空にあるのではなく、案外足元にあるものなのかもしれませんね。


何気ない、当たり前のことを当り前に行える力は、当り前には存在しない非凡な才能。損得勘定で生きれば、報われないかもしれない、何も生まないかもしれない行いに力を注ぐことはなかなかできません。リターンがあるから頑張れるのが人の世の常であり、そうではないことに全力になれる人はあまりいません。それがたとえ当り前に行うべきことであっても、です。


表面ばかりを取り繕ってしまうのは、「人からどう見られるか」が重要だと考えているからでしょう。だから「自分は何をしたのか」「自分はどう生きたのか」が重要だと考える人は、見てくれよりも実際の自分の行為に問題意識が向くはずです。自分の行動のなかにしか自分を自分たらしめるものがないから。だからそういう人は、たとえ人に見られないようなところでも力を抜くようなことはしないはず。人からの評価ではなく、自分の評価で生きているからです。禅が説くのは、こうした後者の生き方なんですね。


じつは禅にもジョブズの言葉と同じような意味の言葉がありまして、『宝鏡三昧』というお経に次のような一文があります。

潜行密用せんこうみつようは、ごとごとし。
ただよく相続そうぞくするを、主中しゅちゅうしゅづく。


ちょっと何を言っているのかよくわからないので現代語に訳すと、だいたい次のような意味となります。


「潜水艦のように人から見られないところでの行い、誰にも知られることのない行い、そういった行いを愚直に行っていく。ずっと続けていく。そうした生き方のなかにこそ、自分の人生を自分で生きるといった、真に胸を張れる主体的な生き方が現れてくる」


人からの評価で自分の価値が決まるといった考え方で、たった1度きりの人生を生きるのはもったいないと思うのです。評価する人が変われば、たとえそれまでは評価されていたことも評価されなくなるかもしれない。評価する人に合わせて生きようとしても、評価する人の考えが変わったらすべて水の泡となるかもしれません。そんな危うい、他人に依存する生き方を、たった1度の人生のなかで選択するというのは、ほとんど狂気に近い判断だとすら思えます。


誰かの考えに騙されたとか、誰かの価値観に合わせてあげたのにとか、どんな文句を言っても過ぎた時間は戻りません。取り返しがつかないのです。誰も自分の人生に責任なんか持ってくれませんし、そもそも持つことなんてできません。唯一、自分だけが自分の人生の主人公でいられる、というより、自分しか主人公はいないんですよ。そんな主人公である自分をないがしろにして、誰かの考えに依存して生きて、どうして「偉大」な人であることができるでしょう。


人からどう思われようと、自分の信じる生き方を貫いて、自分の価値は自分の行動のなかにしか存在しないんだと、他人が決められるものじゃないんだと自分を奮い立たせて、そうやって生きていくしか自分の人生の主人公であり続ける方法はありません。誰かの価値観で生きたなら、一体、自分は何者なのか。誰かの理想に合わせる必要などないのですから、自分の理想に向かって邁進すればいいのです。誰かの評価なんかに惑わされず、自分で自分を磨き続ければ、それでいいのです。人から偉大だと思われることが「偉大な大工」なのではなくて、自分のやるべきことに手を抜かないで最後までやり遂げるのが「偉大な大工」なのですから。


愚直という偉大さに敵うものはない。ご飯を食べながら新聞を読めば、目と口を同時に別々のことに使えて時間短縮で一石二鳥だと思うかもしれませんが、それも効率という名の罠。一見したところ賢いやり方のように見えるかもしれませんけど、それってじつはどちらも中途半端にしているだけなんですよね。二股をかけるってことはそういうことなんです。どうしたって疎かになっていくんです。だからご飯を食べるならご飯を食べることだけ。新聞を読むなら新聞だけ。時間を大切にするということはそういうことであり、愚直というのは大事なことなんです。