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生前戒名に関する誤解【生前戒名希望者必読】

彼岸花

生前戒名に関する誤解

先日、知り合いのお寺へちょっと手伝いに行ってきましてね。檀家さん数名に生前戒名の授与をおこなうから式の手伝いをしてくれないか、との用件でした。お彼岸の最中でしたけど、ちょうど時間のとれる日でしたので伺いました。やっぱりいいですね、生前戒名。


そもそも戒名は生前に授かるべきもので、死後に授かるのは便宜上の話ですから、生前戒名が標準なんです。巷では戒名というと「亡くなった人の名前」だなんて思われてるみたいですけど、これはもちろん誤り。戒名ってのは「戒を授かった人に与えられる仏教徒としての名前」です。


キリスト教に入信して洗礼を受けると、クリスチャンとしての新しい名前を授かるでしょう。いわゆるクリスチャンネームと呼ばれる、あれ。新たに名前を授かるというのは精神的な生まれ変わりを意味していて、これからはキリスト教の教えとともに生きていきましょうという意味で心機一転、キリスト教徒としての名前が与えられるわけです。


これの仏教版が戒名。だから戒名のことをブッディストネームって表現する人もいますね。これ、発想として間違っちゃいません。ただ強いて言えば「戒を授かる」というニュアンスが欠けているのが玉に瑕。重要なのは「戒を授かる」ということですから。


ブッディストネーム? 戒名は生前に授かるべきもの? って疑問に思われる方は、そもそも戒名というものが何なのかをご存じないでしょうから、ちょっと補足を。


仏教には戒律という行動指針があって、仏教徒は基本的にその戒律を守って生活をします。そして戒律を守って仏教徒として生きていきたいと志を起こした方は、授戒じゅかいという式を経て戒が授けられ、その証しとして戒名が授与されます。戒を授かるから授戒。私も得度式とくどしきという出家の式のなかで授戒をおこない、師匠から戒を授かり、その証しとして「隆定」という戒名をいただきました。ですから戒が主で、戒名が従です。主従を間違えちゃあいけません。


授戒は僧侶に限らず、出家しなくても受けられます。在家のまま戒を受け、在家の仏教の篤信者として生きていくわけです。今回お手伝いした式も在家のまま戒を授かって、戒を守って仏教徒として生きていくという新たなスタートを切る式でした。だから当然、生きているうちに仏教者として生きていく心を起こして戒を授かるのが自然です。死後に戒名を授かるほうが明らかに不自然なのがおわかりいただけるでしょう。仏教徒として生きようにも、もう生きていないんですから。


じゃあなんで死後に死者に戒名を授けているのかと不思議に思われるかもしれません。これにはいくつか理由があるのですが、仏さまというのは仏道を歩む者であり、仏道を歩む者に戒が授与されていないのはおかしい、といった理由が根本でしょうか。だから葬儀ではまず故人に戒を授けて出家させて仏さまの仲間入りをしてもらい、それから故人を仏さまの世界へ送り出す儀式をしているんですね。葬儀のなかで故人を出家させていることも、世間にはほとんで知られていないでしょうけど。


生前戒名の授与式(授戒)は、もちろん戒名が授与される式ではありますけど、授与されるもののメインは戒名じゃあありません。さっきも同じこと言いましたけど、大事なのでもう1回言いますね。授与されるメインは「戒」です。戒を授与されるから、その証しとして戒名も授かるのであって、主役はあくまでも戒。ここのところを理解せずに、生前に死後の自分の名前をもらえるらしいからもらっておこうとか、その程度の安易な気持ちで授戒を受けるというのは到底おすすめできません。


クリスチャンネームが欲しいから洗礼を受けるとか、おかしいでしょう。そんな人います? スーパーのお菓子売り場になぜか仮面ライダーの人形が売られていて不思議に思って手にとったら、ラムネが1つくっついていて、ギリお菓子コーナーに陳列してOKくらい主従逆転の裏技ですからね、それ。


今回のお手伝いに行く前に生前戒名の現状をネットで事前に調べてみようと思いましてね、そしたら首をかしげたくなる情報があまりに多くて不安になりました。戒が授与されることについて述べている記事がほとんど見当たらないんですよ。ほんとに大丈夫ですかねネットの情報って。生前戒名で戒名だけ授与されるなんてことありえませんよ? 必ず戒を授かって、戒とともに生きていくというのが生前戒名ですから、そこのところをくれぐれも間違えないで。


戒を授かるというと、「なんか生活が窮屈になりそう」「行動が禁じられるとか嫌だな」と思われる方も少なくないかもしれません。戒律という言葉に対して良い印象を持っている人はほとんどいないでしょうし。ただ、戒というのはそういうものじゃあないのです。「戒とは何か」という話はかなり重要なので、最後に戒についても少々述べておきましょう。


戒の語源はサンスクリット語のシーラという言葉で、このシーラという言葉が中国に伝わった際に「戒」と漢字で訳されるようになりました。ちなみにシーラは音訳もされてまして、音訳の場合は「尸羅しら」と書かれます。授戒会のことを尸羅会しらえとも呼ぶのはこのため。


で、シーラを意訳した「戒」と、もともとのシーラという言葉には少々ニュアンスに違いがありまして、というのもシーラという言葉には「習慣」とか「性格」といった意味合いが含まれているんです。戒という言葉から習慣や性格といったイメージは浮かばないでしょう? ここがちょっと問題でしてね、「シーラ」と「戒」は同じものを指示してはいるんですけど、光を当てる場所が違っているんです。


どういうことかと言いますと、たとえば十重禁戒じゅうじゅうきんかいという10条の戒の1つに「嘘をつかない」という戒が含まれています。「嘘をつかない」という戒ですから、当然嘘をつかない生活をするわけですね。戒という言葉は、「嘘をつかない生活をしましょう」という意味と受け取れるわけです。しかし、シーラという言葉が意味するのはそれだけではなくて、嘘をつかない生活を続けると、人は嘘をつかない生活が習慣となり、やがては嘘をつかない性格になっていくという、「その後」も含めた言葉になっているんです。守ることが主眼ではなく、守るとどうなるのか、という観点に焦点を当てた言葉になっていると言ったほうがより適切でしょうか。


「守らなければいけない」と考えると生活が窮屈になる気がするでしょうが、戒の本来の意味はそこではなく、守ることで自然とそのような人間になっていくということが言いたいのです。嘘をつかないことが当り前になれば、守ろうと意識しなくたって嘘なんてつきません。そうなれば、あえて戒を守るという意識だってもうありませんよ。だから窮屈どころか自由そのもの。習慣となり性格となれば、戒はもはや守るべきものではなく身についたものとなっているわけですから。これが戒、つまりはシーラという言葉の主意です。


とは言うものの、習慣化されるまで守り続けられる自信がないという方もいることでしょう。でも安心してください。仏教ではそもそも戒が破られることが想定されていて、月に2回懺悔さんげの日が設けられているんです。面白いですよね、人間味があるというか、人間をわかっているというか。布薩ふさつっていうんですけど、過ちを反省する日が最初から設けられているんです。ちょっと安心しません?


また禅の世界には「発心百千万発ほっしんひゃくせんまんぱつ」なんて言葉もありましてね。何度挫けてしまったとしても、そのたびにまた何度も発心すればいいじゃないかという考え方もあります。一回の発心で最後までいければいいですけど、そんな強靱な精神の持ち主ばかりじゃないですからね、人間。というかそんな鉄人みたいな人は稀でしょう。初志貫徹よりも七転び八起き派でいきましょう。999転び1000起きも可。


こうしたことを理解していただいた上で、戒を授かって仏教の篤信者として生きていこうと志す方には、戒とともに戒名が授けられます。それが生前戒名ってなもんです。戒を守って、習慣化して、そういう人間になっていくという話ですから、ネットにあるような「自分で納得できる名前がつけられる」とか「費用が安くすむ」とか「死後よりも生前のほうがメリットがある」とかいう理由で生前に戒名を授かろうなんざ、ちゃんちゃらおかしな話ですわ。そんなふうにして戒名を授かっても何の値打ちもないですよ。もし私の寺院で授戒をおこなって生前に戒名を授けるということがあっても、戒を授かる意味を履き違えている方に戒なんて授けられません。


ネットで簡単になんでも調べられる時代ですけど、簡単だからこそ落とし穴もそこらじゅうにボコボコと掘られているようで。皆さま変な穴に落ちないようお気をつけください。