禅の視点 - life -

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便利な社会になっても幸せになるとは限らない理由

便利と幸せ

たとえばこんな質問を投げ掛けられたら、あなたはどう答えるだろうか。


「年間に死者が3000人ほど発生する機械があります。その機械は個人と社会の在り方を極めて便利で効率的なものへと変えます。しかし、それには3000人という人命犠牲が伴います。この機械を社会に導入するべきだと、あなたは考えますか?」


自動車と、それによる死亡事故死者数の話である。


ようやく、と言うべきなのか。交通事故による年間の死者数がはじめて3000人を下回ったそうだ。警察庁によれば、昨年令和2年における交通事故死者数は2839人。これは警察庁が統計を開始した1948年以降で、最小の交通事故死者数であるという。


随分長いこと3000人の壁を下回ることができないでいただけに、「やっと」という思いが先立つかもしれない。ただ、それでも年間に2839人。依然として多くの方々が交通事故により命を失っている事実を思うと、出かけたはずの言葉が喉の奥で霧散する。


3000人を下回ったから何だというのだ、と、怒り混じりの声が飛んでくることだってあるかもしれない。事故によって大切な人を失った人にとってみれば――。


自動ブレーキなどの安全性能の向上や革新、事故防止の啓発活動など、地に足を付けた努力が日々積み重ねられており、それらの成果は賞賛されるべきである。しかし、喜ぶにはほど遠い現実が未だ厳然として目の前にあるのも事実。痛ましい事故は絶えない。


自動車の存在によって私たちの暮らしは至極楽なものとなった。そのことに疑いの余地はない。田舎に暮らす私のような者には必需と言っていい。移動手段が複数ある都市部に暮らしている方は、自動車の必要性についてそれほど実感が湧かないかもしれないが、田舎に暮らす人にとってみれば自動車は「必要か不必要か」などといった選択の余地なく、なければ生活ができないものに該当する。「車がなかったら、夕食の材料をどうやって買いに行くの?」「どうやって仕事に行くの?」多くの人にとって、生きていく上で欠かせないものとなっている。


自動車という機械が発明されたからこそ、速く大量に人や物が移動できるようになった。速く大量に移動できれば、その分の時間が生まれる。これで人間は楽になるはずだった。


もちろん、実際に楽になっている部分は多い。しかし、すべてがそうばかりでもなかった。自動車で移動することで新たに生まれた時間。この生まれた時間を、人々は再生産に充てた。要するに、浮いた時間でまた働いた。


結局、働く時間が短くなって余暇に費やすことのできる時間ができたのではなく、たくさんの仕事をこなすことができるようになっただけで、やっぱり人は以前と同じように働き続けたのである。


それによって生産力は上がっただろう。しかし、幸福にはなったかと言えば、そうとは限らない。幸せであるかどうかは、便利で効率的な世の中であるかどうかに関わらず、自分が実際に幸せと感じているかどうかに依るからである。ちなみに仏教ではこの内的な幸せも最終的には棄却するが、まあ、その話はここではとりあえず置いておこう。


便利でなくても幸せだということは当然に生じる。場合によっては、便利でないほうがよかったと思うこともあるだろう。便利さは、悪用するにも便利であるという悲しい事実だ。


便利になったら、社会はその便利さを活用して、さらに多くの仕事をこなして多くの儲けを得る方向へと舵を取った。企業にとっては自然な流れなのかもしれない。便利になったからその分、読書をしようとはならなかった。


私たちはなんとなく、便利になることで社会が成長しているように感じている。成長という言葉にはプラスのニュアンスが帯びているから、便利な世の中になれば幸せな未来が待っていると信じて疑わない。そんな保証はどこにもないのに、なぜか、便利になることは幸せになることと同義だという前提のもとで生きている。


しかし、現実はそうではない。効率化と合理化によって生産性を限りなく高め、高まった生産力のもとで仕事をし、それで実際に自分は幸せになったか。自問してみれば、おそらく各人の胸裏に答えが見つかるはずである。便利であることと幸せであることは別の話であると、誰だって気付くはずである。


恐いのは、一度手に入れた便利を、人は手放せなくなることだ。便利であればあるほど、それ以前の状態へは戻れなくなる。後戻りのできない道を進むのは慎重にならざるを得ないことであるはずだが、便利への道は幸せに続く道であると信じて疑わないことから、「正しい」という根拠なき前提のもとで歩を進めることにどうしても懸念を覚える。ふと立ち止まって、気付いたときには、淵が見えていた。そんなことにならなければいいのだが。


幸せって何だろうと考える。幸せだと思っていた具体を、一度疑ってみる。便利によって生じた時間を、そのような思索の時間に充てられるなら、便利であることが真にありがたいことになるのだけれど。。。