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天上天下唯我独尊の本当の意味【身近な仏教用語】

誕生仏,天上天下唯我独尊
作:仏像彫刻師 真野明日人「釈迦誕生仏像」
出典:仏像彫刻 MANOWORKS http://www.manoworks.com

天上天下唯我独尊の意味とは?

仏教を説いた創始者であるブッダには多くの伝承が残っている。
そうした伝承から生まれた仏教用語が社会一般の言葉として定着し、現代においてもごく普通に使われているというケースも存在する。
たとえば「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」という言葉もそのうちの1つ。
これは、もともとはブッダの出生にまつわる伝承から生まれた仏教用語なのである。


じつはブッダには、生まれた直後に自らの足で7歩歩いたという驚きの伝承が残っている。
四つん這いでのハイハイではない。足で大地を踏みしめて歩いたらしい。
サバンナなどに生きる野生動物なら出産直後に歩くことも可能だろうが、いくらなんでも生まれたばかりの人間の赤ん坊には無理だろう。
まあ、仮にハイハイであったとしても不可能であることに違いはないだろうが……。


しかもその伝承には続きがあり、経典によればブッダは7歩歩いたその先で、今度は右手で天を指さし、左手で地を指さし、「天上天下唯我独尊」としゃべったという
歩くだけでなく、言葉まで発するとは……。スーパー赤ちゃんだったのか?
その際のブッダの姿は「誕生仏」として、仏像のモチーフとしてもよく使われている。冒頭の画像(作:真野明日人「釈迦誕生仏像」)がそれである。



超人的伝承の意味

このような記述は、師であり祖であるブッダを「普通でない存在」として崇めたいがための後世における脚色であって、額面どおりに受け取るべきものではない。
ブッダという人物は神のような超越的な存在ではなく、我々と同じ悩める「普通の人間」であった。


しかし後世、ブッダを神格化しようとする動きがみられ、年月の経過とともに経典には神格化の影響を思わせる記述が増えていった
その影響はブッダの出生にも及び、「ブッダほどの聖人が普通に生まれたはずがない」という思考からか、上記のようなにわかには信じがたいエピソードが経典に残されることとなったというわけである。


つまりこのような伝承は、「人間なのだけれどもただの人間ではない」という意味合いを持たせたいがゆえのフィクション、作り話である。
間違っても、経典に明文化されているから真実であると盲目的に受け取るべきものではない。
ブッダ本人も『大パリニッバーナ経』のなかで、人から聞いた言葉を鵜呑みにするのではなく、よく考えてから受け取るべきであるという旨の言葉を弟子たちに残している。


しかし、本当に重要なのはフィクションかノンフィクションかという点ではなく、そのエピソードに込められた意図にあると考えた方がいい。
フィクションであることと、意味がないということはイコールではない。
小説というフィクションのなかにちりばめられたいくつもの真実に感銘を受けることがあるように、重要なのは「その話自体が真実かどうか」ではなく、「その話が真実についての話かどうか」である。


私たちが仏教と呼んでいるブッダの教えというのは、基本的にブッダの死後数百年を経てからようやく文字として残されるようになったのであって、それまでは口伝によって弟子たちの耳と脳に記憶されているのみであった。
いわば壮大な伝言ゲームの末に生まれたのが私たち僧侶が日々読経する経典なのであり、したがって経典に書かれている文章のすべてが本当にブッダが語った言葉だとは限らない。
経典の作者の思いが反映されているかもしれないし、伝言ゲームのあいだに言葉が変化したかもしれない。
実際、明らかにブッダの思想と異なる内容の経典というのも数多く存在している。
そもそも大乗仏教自体が、ブッダの教えとは少なからず異なっている。

天上天下唯我独尊の通俗的解釈

天上天下唯我独尊という言葉は、一般的には「この世界で自分が一番だ」というようなニュアンスの言葉として使われることが多い。
自分こそがもっとも偉く、そうした傲慢な在りようを重々しくした表現した言葉であると思われがちだが、実際の意味はそうではない。

天上天下唯我独尊の例
出典:『スラムダンク』29巻 集英社


上の漫画『スラムダンク』の中で使われている用法が現代では一般的であるが、それは通俗的な解釈であって仏教用語としての真意ではない。
天上天下唯我独尊とは本来、自分が一番だと言っているのではなく、世界に存在する人は1人ひとりみな尊い存在であるという感興の言葉である。
誰かと比べて尊いのではなく、比べなくても皆尊い。そういう意味の言葉だ。


天上天下唯我独尊という言葉では、「とうとい」という言葉に「」の字が使われている。
しかし「とうとい」という言葉にはあてはまる漢字が2つあり、1つが「尊い」、そしてもう1つが「貴い」である。
この2つの漢字の違いが重要でもあるのだが、両者の違いを一言で示すなら、それは、比較をして優秀だったほうを「とうとぶ」のが「貴い」で、比較をしないでも「とうとぶ」のが「尊い」であるといえる。


たとえば貴族というのは平民と比べて上位の立場にある存在と位置付けたいから「貴い」を使った貴族と呼ばれるのであって、比較なしで「尊い」わけではない。だから尊族とは表記しない。本来的な尊者ではないのである。
あたりまえの話だが、人に本来上下の貴賤などあるはずがなく、貴賤の概念は人間の頭のなかだけにある虚構か妄想でしかない。
比較をしない真実は、人間そのものに上下など存在しないというものであって、その真実を言った言葉が天上天下唯我独尊というわけだ。

カースト制度と仏教の独自性

これは仏教という教えの方向性を示す言葉でもある。
インドに仏教が発生したころ、社会にはカーストという身分制度が当然のように敷かれていた。
人は生まれながらに上下の区別があり、貴賤という概念が当然のごとく存在していたのである。


そんな時代にあって、仏教の説く内容はその逆であった。
人は生まれによって何者かになるのではなく、行いによって何者にでもなる
それがブッダの説いた教えであり、仏教の方向性であった。
そうした方向性、仏教の独自性をはっきりと示すのが、ブッダの出生に関する不思議な伝承、天上天下唯我独尊のエピソードなのである。


尊敬という言葉は、人を尊び敬うことをいう。
しかしAさんとBさんを比べて、Aさんのほうが勝れていたからAさんを尊敬する、とは普通いわない。
人が尊敬という言葉を使うとき、その対象となる人物は、ほかの人とくらべて勝れていたからではなく、その人自身がすばらしいから尊敬されるにいたるのである


同じ「とうとぶ」でも、「尊」と「貴」は真逆といってもいいほどの違いがある。
この意味の違いを理解したうえで、くだんの言葉「天上天下唯我独尊」を読んでいただきたい。
我、唯だ独り尊ぶ
そこで尊ばれているのは、命の不思議さとでもいえる尊さではないだろうか。


自分と誰かをくらべて貴い人であると言っているのではなく、比べることをしなくても人はそれぞれに尊い存在なのだと、ブッダの生涯のはじまりを借りて仏教は説いているのである。