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墓じまいに精通する勝桂子さんの講演で印象に残った言葉5選

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墓じまいに精通する勝桂子氏の講演で印象に残った言葉5選

先日、僧侶の研修会に参加した際、講師として勝桂子(すぐれ・けいこ)さんが登壇され講演をされた。
勝さんは行政書士でありつつ、葬祭カウンセラーとしての顔も持ち、墓じまいや寺院と檀家との軋轢など、終活分野全般から寺院にまつわる問題にまで精通するスペシャリストであるとのこと。
僧侶としては、このプロフィールだけで俄然興味が湧いてくる。



ちなみに、この日の演題は「地域寺院の布教 ~コミュニティの核として~」。
全体として寺院・僧侶の在り方を問う内容となっていたが、墓じまいなどに対する一般の方々の率直な思いも耳にすることができ、示唆に富む講演であった。
批判的な声というのはなかなか聞けないものだから、寺院問題にまつわる人々の「本音」を多く知ることができたのも、非常に貴重であった。


勝さんは一見おしとやかそうな女性に見えるが、なんのなんの。話し口は舌鋒鋭利。
本人は「控えめに話している」感覚とのことだが、歯に衣着せない物言いで核心をグサリだ。
しかし言葉に嫌味も批判もまったく含ませていないから、カラッと晴れた夏の日のようにその鋭さがむしろ心地いい。
梅雨のようなジメジメとした嫌な感じがまったくない。


たぶん、勝さんは僧侶にエールを送っていらっしゃるのだと思う。
頑張ってください! と。
激励であるから、少しくらいは辛味があっていいのである。大根おろしの辛味のように。
そのほうが、変に気を遣って言葉を濁らせるよりも、聴いていてはるかに面白い。


そんな勝さんの講演のなかで、「なるほどなぁ」と印象に残った言葉がいくつかあったので、5つ選んでご紹介したい。
僧侶の研修会での言葉であるから、基本的には僧侶向けの内容となっている点は如何ともし難いが、それでもまあ日々寺院問題等に悩む方々の相談にのっているところからはじまっているわけだから、一般の方にとってもある程度興味のある内容なのではないかとは思う。
「これ、わかるわ~」
というような共感できる内容がきっとあるのではないか。


それでは、内容に移っていこう。

1.墓じまいを決意する一番のきっかけは、住職の人間性

初球からど真ん中のストライクで核心をグサッと一突き。
なんとなくわかってはいたが、外部の方からはっきり指摘していただくと、清々しさを覚えるほどにすっきりする。
原因は、住職の人間性
実際に勝さんが受けた多くの相談に鑑みるに、お金の話しかしない、あるいは、高圧的で信頼できない住職と接することによって、墓じまいを決意するパターンが一番多いのだという。
特に、通夜や葬儀の前後での住職とのやりとりに疑問を感じて決意した、という人が多いとのこと。


まあ、そりゃそうだと思う。
大切な身内を亡くし、悲しみに暮れる余裕もないなかで慌ただしく通夜と葬儀の準備をすすめ、そこで住職に何か相談した際に聞かされる言葉が「金」「叱り口調」だったとしたら、うんざりを通り越して呆れる。
私だったら、端的に、こりゃだめだなと思う。
さっさと墓じまいをして縁を切りたいと考えるのは、むしろ流れとしては自然ではないか。


代々先祖が眠る墓を改葬してしまっても良いものかと考える場合も当然あるだろうが、それなら同時にこうも考えるはずだ。
この住職のもとで供養を続けて、本当に故人は幸せなのだろうか
……やはり、墓じまいは時間の問題であるように思う。


2.信心があるからこそ墓じまいをする

終活全般に精通している勝さんのもとへは、墓じまいに関する相談もよく舞い込む。
そこで勝さんが相談者の話を聞いていると、墓じまいの相談をしてくる人の多くは、墓を心のよりどころとしているような印象を受けることが多いという
意外な話だ。
  

普通、墓じまいというものに対するイメージは逆ではないだろうか。
墓じまいをするということは、伝統も歴史も先祖も供養もどうでもいいから、きれいさっぱりおしまいにしたい。
だから墓じまいをするのだと。
どちらかといえば信心がないから墓じまいをするようなイメージでいたが、勝さんによればそうではないらしい


そもそも墓じまいとは「墓石の処理」を意味するのであって、必ずしも「供養の終了」を意味しない。
墓じまいをした方で、別の場所に納骨しなおすといったケースは多く、したがって供養は墓じまい後も続いているのである。
つまり墓じまいとは改葬。供養の場所を移すことを意味しているのだ。


供養は続けたいが、いろいろな事情があって墓じまいをしなければならない状況に陥ることは十分にありえる。
たとえば子どもがおらず、なおかつ転居せざるをえない状況になり、遺骨も転居先の近くにある納骨堂へ納めるなど。
信心があるからこそきちんと墓じまいをして、新しい場所で供養を行いたいと考えるのであって、信心がなければ放ったらかしのままだってあり得る。


我々僧侶は墓じまいという現象をもっと宗教的側面からみて肯定的に捉えそこにどのような協力ができるのかを考えていかなければいけないのかもしれない
勝さんは、頼れる親族がいない方の場合には、住職が死後事務を引き受けてはどうかと提案された。
危篤の知らせを受けることから、火葬から納骨、ライフラインの解約、その後の供養など、死後事務を受任するのである。
そうした働きかけがあってはじめて、墓じまい以外の道が開けてくるのだと。


なるほど、確かに考えればできることはあるかもしれない。
少なくとも、墓じまいと聞いて離檀金と結びつけるだけの発想しかできなければ、墓じまいの流れは止まらないだろう

3.墓石の意義を説明できなければ新しい葬送形態には勝てない

たとえば人気の樹木葬では、故人が早く自然に還るという良さを、人々は無条件に受け入れることができる。
大自然の中で眠ることができるというのも大きなウリの1つだろう。
同様に、海への散骨であれば、美しい海のなかで眠ることができるとアピールできる。
駅から近いビル内の納骨堂であれば、いつでも楽にお参りすることができる。雨でもまったく問題ない。
新しい葬送形態には、それぞれに明瞭な利点がある。


こうした状況にあって、「なぜ墓石がいいのか」を説明できなければ、徐々に墓石は選ばれなくなると勝さんは予想する。
勝さんの言葉を借りれば「思想のある墓でないと売れない」ということだ。
そして墓石が選ばれなければ、必然的に墓じまいも増える。


これは要するに、変革の時代にあっても人々のニーズに耳を傾けることなく、あぐらをかいていた寺院にツケが回ってきているということではないか。
今までそうだったから、でこれからも通用するとは限らない。
むしろ通用しなくなってきていることを、多くの寺院が痛感しているのではないだろうか。
変革をピンチと捉えるか、自らを変えるチャンスと捉えるか
もしかしたら、そこが未来まで存続していく寺院の運命の分かれ道なのかもしれない。


4.僧侶の法話は上滑りしている

僧侶の話はつまらない。抹香臭い。説教臭い。
僧侶の話というと、どちらかといえば世間的にはあまり良い印象をもたれていないイメージであるように思う。
もちろん素晴らしい話をされる方もいるが、一般論として印象はよくないのではないか。
勝さんによれば、残念ながらそれは思い過ごしではないそうだ。
ずばり、僧侶の話は上滑りしている


上滑りとは、心の奥に響かないことをいうのだろう。
なぜ響かないのか。
言葉が表面的であるからだ。
なぜ表面的なのか。
人の苦悩に触れていないからだ
僧侶の話は深く響く可能性を秘めているのに、実際には深味がない。重みがない。
勝さんはその理由を、生老病死に触れていないからと分析する。
苦の現状に関わっていないからだと。


宗教者として社会に関わる接点はいくらでもある。
不登校、病、障がい、貧困、自死。
悩みを抱えている人、支援を必要とする人は大勢いる。
そうした人々と関わることで、実際に人が苦しんでいる「苦」の実態をはじめて知る
だからそれらに触れずして「苦」を説こうとしても、言葉に重みがなく上滑りしてしまうのは当然であるように思う。


苦の現実、苦海に飛び込むのは難しくないが、覚悟は必須だ。
人の苦悩に真正面から向き合うとき、こちらがいい加減な気持ちであれば害を与えることしかできない。
自分も人の苦しみに触れるからこそ、その痛み苦しみが多少なりわかるようになる
そうした経験を経て発せられる言葉だから重みがある。心に響く。
バックボーンなしに言葉が深まらないのは、悲しいが当たり前のことだろう。

5.イチゲンさんお断わりの檀家寺から、地域(多数)の相談所へ

これが今回の講演の締めの一言である。
と同時に、今後の寺院の未来を占う一言でもある。
檀家制度に頼りきって宗教者としての本分を忘れた寺院はいずれ廃れる
もはや時代は「家」を単位とせず「個」を単位とする時代へと変わっているからである。
時代錯誤のなかに居座り続けているようであれば、遅かれ早かれ廃れてゆくのは間違いないのではないか。


そのような中で、勝さんは今後の寺院が目指すべき在り方を「地域の相談所」とした。
何のことはない。仏教の生みの親であるブッダと同じように人々の苦しみを聴き、寄り添い、アドバイスをして生きるという道である。
仏教の本流に戻ろうという意味であるのだろう。


これが重要なのもまた当然である。
そもそも仏教とは「仏の教え」であり、仏の教えとは畢竟、人生をいかに生きるか、という点に集約される。
幸せとは何なのか。苦とは何なのか
人生の根源にありながら、なかなかその実態を摑むことができないそれらを生きている間にしっかりと摑むことが仏の教えだ。
そこに重点を置き直すという判断は、あまりにも正統であるといえる。


勝さんは言う。
人の苦悩と向き合うことを何よりも大切にすれば、もしかしたら檀家は減るかもしれないが、信徒は増える。
宗教者として進むべき道はどれか。
人々の苦悩に向き合うことこそ宗教者の役目でないのか。
そしてこの言葉が今回の演題とも重なり合ってくる。
「地域寺院の布教 ~コミュニティの核として~」
まさにコミュニティの核となることが、今後の寺院に求められる形態の1つなのかもしれない。


あえて辛辣な言葉を投げ掛け、寺院の未来を憂いてくれているのだから、勝さんは仏教界にとっては稀有な存在だ。
しかもその言葉は単なる個人の意見ではなく、多くの方々から相談を受けて徐々に明らかになってきた事実に基づく見解である。
杞憂と断じることはできない。


おそらく近い将来、お寺は選ばれる時代になるのではないかと勝さんは予想する。
単位が「家」ではなく「個」となりつつある現代であれば、自分を縛るものは以前よりはるかに少ない。可能性は十分にある。
来たるべき変革と淘汰。
それは仏教界にとって「必要なメス」なのかもしれない。