禅の視点 - life -

幸福とは? 自分とは? 自由とは? 人生とは? 心を満たす入口探し、禅エッセイ

精進料理は菜食を意味するのではない ~仏教における肉食の解釈~

f:id:zen-ryujo:20180523170841j:plain

精進料理は菜食を意味するのではない ~仏教における肉食の解釈~

精進料理」といえば、普通「肉類を使用していない野菜中心の料理」を思い浮かべるのだと思う。
いわゆる菜食のことであると。
精進とは、菜食の別名のようなものだと。


辞書で「精進」を引いてみると「肉食せずに菜食すること」とあるものだから、「精進=菜食」という認識は間違いではないのかもしれない。
けれども、仏教的な立場からすればやはり、それは正しいのでもない。


事実、辞書に書かれている「肉食せずに菜食すること」という意味は、精進という言葉の2番目の意味となっており、1番目ではない。
では1番目にはどのような意味が書かれているかというと、こう書いてある。
修行に励むこと
そう、精進という言葉の意味は「修行に励む」なのである。


精進という言葉の原義は「勇気」であり、仏教一般では「正しく仏道を歩む」ことを意味する言葉として使われている。
要するに精進とは修行の意味なのだ。


したがって精進料理とは、仏道修行をする者に対して施される、励ましの意を込めた食事を指しているのであって、肉類を避けた野菜中心の料理を指しているわけではない。
修行者に施す食事が精進料理なのである。


肉食と不殺生戒

が、しかし、仏道修行に精進するということは戒律を守るということでもあり、戒律の第一には不殺生戒がある。
不殺生戒とは、生き物を殺さないこと。
だから修行者に施される食事は自ずと肉類を避けたものになりがちになり、結果、精進(修行)のための食事は菜食中心となることが多い。
つまり結果的に、精進のために施される料理は菜食になりがちなのである。


こうしたことから、精進料理という名前と菜食はワンセットであるかのように思われるようになり、精進料理とは菜食を意味するのだという認識が定着してしまった。
この認識がまったく間違っているとは言えないかもしれないが、上記のような過程を考慮すれば、精進と菜食は間接的に関係するものであり、直接イコールとしてつなげてしまうのはやはり正しくない。
精進とはあくまでも修行という意味だからである。

仏教では肉食を禁じていなかった?

肉食する僧侶に対して「生臭坊主」などと批判的な言葉が投げ掛けられることがあるが、意外なことに、そもそも仏教では肉食自体を禁止してはいなかった
仏教における食事の原則は、「施された物をいただく」であって、「肉類を食べない」ではない。
托鉢を行うなかで肉を施されれば、その肉を食べることが大切な修行なのである。


しかしながら、戒律の第一に不殺生を掲げる僧侶が、いくら施されたからといって肉をばんばん食べるのも、それはそれで考えもの。
ということで、仏教教団では3つの取り決めが作られることとなった。
3つの条件のすべてをクリアしていれば、施された肉を食べても戒律を破ったことにはならないと考えたわけである。
これを「三種の浄肉」という。

三種の浄肉

托鉢などで施された肉のうち、食べても問題ないと判断される基準となった3つの条件は、以下である。

  1. その動物が自分のために殺されるところを見ていない
  2. その動物が自分のために殺されたと聞いていない
  3. その動物が自分のために殺された疑いがない

以上の3つの条件をクリアしていれば、施された肉は浄肉と判断され、食してもよいと考えられていたのである。


この条件に照らし合わせると、次のように判断することができる。

  • 僧侶の目の前で動物を潰して施した。

 →①に抵触するのでダメ

  • 「僧侶が托鉢に来ると思ったので、鶏を潰して料理を作りました」と聞いてしまった。

 →②に抵触するのでダメ

  • 托鉢をしていたら、家の裏手から鶏が絶命する声が聞こえ、その後その家から鶏を施された。

 →③に抵触するのでダメ

  • 肉料理を作ったら余ってしまったので、托鉢に来た僧侶に施した。

 →僧侶のために殺されていないので食べてOK


3つの条件のすべてに「自分のために」という一文が入っていることから、自分のために動物が殺されればそれは不殺生戒を破ることにつながり、自分のために殺された動物でなければ、自分が不殺生戒を破ったことにはならないという理屈と受け取ることができる。


現代日本の感覚でいくと、「自分で殺さなければいいものなのか?」という疑問は残るが、そこは時代や国柄などの違いもあるので一口に是非をいうことはできない。
まあ、当時の仏教教団はそう考えたということである。


托鉢と乞食

そもそも托鉢とは不要なものをいただく乞食としての性格も有しているのであって、そうであるなら余り物をいただくことが一番ふさわしい。
僧侶が身にまとっている袈裟も、要らなくなって人々から捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作るのが本来の姿である。
なぜかといえば、要らなくなった布には何の執着も含まれていないから。
だから袈裟はパッチワークのようにいくつもの布が縫い合わせられて作られている。
(現代では1枚の布で作った袈裟も多いが……)


絹で作るとか、何万も何十万もかかる袈裟を身につけるのは、本来の在り方から考えれば真逆の行為と言わざるをえない。
高価なものを欲するとは、それ自体が煩悩の最たるものだからである。
袈裟の本質は、煩悩の含まれていない清浄な布、だ。


肉食において「自分のために殺されていない」ということを重視しているのは、おそらくこうした考え方によるもので、あくまでも施主が不要とするものであったら食べてもいいということなのだと思われる。

禁葷食

精進料理において禁止されると考えられているものは肉類のほかにもう1つある。
それがネギ類
そのネギ類のことを(くん)といい、これを禁じるのが禁葷食(きんくんしょく)である。


寺院の入口にはよく「不許葷酒入山門」と彫られた石塔が建っている。
訓読すると「葷酒の山門より入るを許さず」となり、葷や酒は山門から中に入ってきてはいけないと忠告しているわけだ。


なぜ入ってきてはいけないかと言えば、修行の妨げになるから。
酒は人を酔わせ、葷は精をつかせるため、というのが主な理由である。
どちらも修行には不要であるということだが、まあ、確かにそうかもしれない。
元気であるがゆえに力が余って悪い方向へと過ぎてしまうということが、ないわけでもない。


葷は昔から五葷(ごくん)と呼ばれてきた。
時代によって5つの内容は若干異なっているが、代表的な五葷は次の5つ。
ネギ、ラッキョウ、ニンニク、タマネギ、ニラ。
たしかに、どれもパワーがつきそうなものばかり……。

おわりに

精進という言葉が菜食とイコールであれば、葷は野菜類に含まれるから禁止される理由はない
しかし通常、精進料理といえば菜食だけでなく禁葷をも意味している。
このことからも、精進という言葉の意味が菜食ではないことがわかる。


精進とはあくまでも修行の意味であり、修行する者に施すには問題のある食事として肉類と葷があげられる。
だから精進する者に施される食事には肉類と葷が入っていなかった
それを精進料理と呼ぶものだから、精進とはてっきり菜食と禁葷を意味するものだと思われがちだが、それは一歩過程を飛ばしてしまっている。


修行と精進と菜食・禁葷。
精進料理において重要なのはもちろん、修行の部分である。