【図に乗る】身近な仏教用語の意味
「図に乗る」という言葉は、もとはお経の唱え方にちなんだ仏教用語なのだが、僧侶以外でこのことを知る人はまずいないと思われる。
通常、お経というものには音階がなく、節も付けずに一本調子で唱えられることが多い。
『般若心経』などでも
「カンジーザイボーサーギョウジンハンニャーハーラー……」
と、棒読みというのか、一本調子で唱える。
どう聴いても唄うという感じではない。
同じ高さの音階をキープして唱え、高くなったり低くなったりといった音階はつけないのがお経の一般的な唱え方であり、たぶんほとんどの人にとってお経といえばそんなイメージが定着しているのだと思う。
音階のあるお経
だが、ごくまれに一部のお経では、音階や節をつけて唱える特別な作法というものが存在する。
それが「声明(しょうみょう)」や、「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれる読経である。
これらの独特なお経の唱え方は、仏の徳を讃える法要において用いられる場合が多い。
音階や節を用いることが徳を讃えるということを意味しているからである。
うちのお寺でも年に一度だけこのような法要を行うが、それくらい稀なお経であるため、正直なところ唱えるこちら側としてもなかなか慣れない。
そのため、この法要は経本を見ながら行うのが常となっている。
経本に記された音階や節回しを見ながら、それにそってお経を唱えるのだ。
つまりが、仏教版の楽譜である。
ただし楽譜といっても五本線の上にオタマジャクシみたいなのが置かれている西洋の譜面とは似ても似つかず、お経の横に音階の変化や節の調子を表す図(模様・記号)が描かれているだけにすぎない。
知らない人が見れば、とても譜面には見えないことだろう。
知っている人が見ても相当にアバウトな譜面に見えるのだから。
それでここからが重要なのだが、経典に描かれたこの図を見ながらお経を唱え、図のとおりに上手く唱えることができれば、「図に乗れていた」と誉められることがあった。
つまり「図に乗る」とは褒め言葉だったのである。
それくらい「図に乗る」ことは難しく、これが「図に乗る」という仏教用語の本来の意味であった。
お経の右に描かれている線や丸の記号のようなものが「図に乗る」の「図」。
この図に従って節と音階をつけるのだが、歌と一緒で一朝一夕では身につかない。
如来唄と呼ばれる特殊な図。ここまでくると、もはや完全に図でしかない。
プラスからマイナスの意味へ
しかしながらこのようなお経の唱え方の表現も、年月を経ることで意味合いが徐々に変化していった。
「図に乗る」ことは素晴らしいのだが、乗りすぎて天狗になる者もいたようで、
「図に乗りすぎていい気になるなよ」
という意味合いが、暗に「図に乗る」に付加されることとなったのである。
そしてやがて、「つけあがること」というマイナスの意味が、「図に乗る」という言葉の主たる意味としてのさばるようになってしまった。
「図に乗る」と「調子に乗る」は同じ意味だが、ついつい調子に乗って失敗してしまった経験のある人も多いだろう。
失敗してもどうにかなるような失敗ならいいが、どうにも取り返しのつかない失敗というものもある。
車の事故などでも、やはり調子に乗って気を緩めたときに起こりやすい。
電話しながらでも大丈夫。ちょっとよそ見したくらいで事故は起こらない。眠いけど、大丈夫だろう。
本当にちょっとした油断から思わぬ事故は起こる。
教習所で車の運転の仕方を習って、「図に乗る」という仏教用語の本来の意味での運転(ルールに沿った運転)ができるようになるのが第一だが、「図に乗る」ことができるようになったら、今度は図に乗りすぎないことが肝要というわけだ。
自分のこととして振り返ってみても、やはり免許の取りたてのころは危なっかしかった。
図に乗ったほうがいいのか、乗らないほうがいいのか、なんともまあややこしい話だ。
結局のところ、
「図に乗るのはいいが、乗りすぎるな」
ということになるのだろうが、そのように自分で自分にブレーキをかけることができれば「図に乗る」という仏教用語は誉め言葉のまま現代でも用いられていたはず。
それが難しいから、意味が変化したのである。
それくらい欲というのは抑えがたいし、自分で自分を律するということも容易ではないということなのだろう。
人間の驕りに従うように意味合いを変化させた、少々哀しい仏教用語である。
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