悪いことをするべきではない理由
問いを少し修正しよう。
なぜ悪いことを「してはいけないのか」
ではなく、
なぜ悪いことを「するべきではないのか」
に。
悪いことをするべきでない理由は、悪いことをすれば、そのとき人は人生を「悪い人」として生きているから。
悪い人として生きた時間は、悪い時間である。
悪い時間を過ごしているあいだは、悪い人生である。
つまり、悪いことをすれば、人生が悪くなる。虚しいものになる。
決して良くはならない。必ず悪くなる。
自分の生きる意味が悪いものになってしまうのだから、悪いことをするべきではない。
悪いことを「してはいけない」問題
悪いことを「してはいけない」と言う人もいる。
してはいけない。
それは自分に対しての言葉なのか、自分以外の誰かに対しての言葉なのか。
どちらにしても、「してはいけない」は規制の語である。禁止の語である。
したがって「してはいけない」が悪いことをしない理由なのであれば、「してもいい」と許可がおりれば、しなかったこともするようになるかもしれない。
たとえば、麻薬を使用してはいけない、と禁止されていたものが、してもいい、となったら、人は麻薬を使用するようになるかもしれない。
もしそうなのだとしたら、その人にとって、しなかった理由は何だったのか。
あるいは、人の物を盗んではいけないとされていたものが、盗んでもいいとなったら、人は盗みをするようになるかもしれない。
盗みは認められていることだから、と言って、盗むようになるかもしれない。
もしそうだとしたら、虚しいものである。
「してはいけない」の論に感じる違和感はそこにある。
禁止されているからしないのであれば、禁止が解ければするようになる可能性は十分に考えられる。
思考の基準は自分の内になく、外にあったということ。
それは「したいけど、できない」というような心境に近いもののようにも思える。
禁止されようが、されまいが、自分はしない。
それが悪いことをしない根本的な理由でなければ、おかしな方向へいってしまいはしないだろうか。
「してはいけない」という言葉には、少しだけ危惧をする。
悪いことが返ってくるから「しない」
悪いことをしてはいけない理由として、自分に悪いことが返ってくるから、ということが言われたりもする。
仏教では因果応報を説いており、悪因があれば悪果があると説く。
だが、これをもって悪いことをしてはいけないとするのは、自分に損害が及ぶからしないほうがいい、という意味に近いのであって、もし損害が及ばないのなら、悪果が訪れないのなら、してもいいのでは? という発想に結びつく。
この場合も結局、思考の基準は自分の外側にあるということになる。
これで本当にいいのだろうか。
自分自身が基準を持つのではなく、外に基準をおいて、それで本当にいいのだろうか。
山岡鉄舟の「しない」理由
幕末から明治時代を生きた剣の達人、山岡鉄舟に、悪事に関する興味深い逸話がある。
ある日、山岡鉄舟が剣術を指南する道場に通う門弟の一人が、鉄舟にこんなことを言った。
「私はこの道場に通う道すがら、毎日のように神社の鳥居に小便をひっかけているのですが、一向に罰が当たりません。やっぱり悪いことをすると罰が当たるなんてのは嘘なんですね」
これに対して鉄舟は次のように答えた。
「お前は馬鹿か。鳥居に小便をひっかけるなんてのは獣のすることだ。人間であり武士であるはずのお前が獣と同じことをして平気でいるということは、お前はすでに獣になっているということだ。それが罰であることがわからんのか」
秀逸の諭しである。
獣として生きるとき、人はすでに獣となっている。
悪いことをして生きるとき、人はすでに悪い人となっている。
あとから悪いことが起こるからではなく、禁止されているからでもなく、それが人として相応しいことでないから、しない。
ただの否定としての「しない」でなければ真でないというのは、鉄舟のような思考に基づくものである。
道元禅師の「しない」理由
鎌倉期、永平寺を開いた道元禅師にも、悪事に関する興味深い言葉がある。
「諸悪莫作」という言葉の解釈に関する言葉だが、道元禅師はこの諸悪莫作という言葉には3段階の理解があると『正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻で述べている。
まず、この言葉をはじめて聞いたときは、
「もろもろの悪をなすことなかれ」
(諸の悪を作すこと莫かれ)
と、悪事の禁止を謳った一文に解釈できる。
しかし、修行を続けるなかでもう一度この一文を聞くと、
「もろもろの悪をなすことなし」
(諸の悪を作すこと莫し)
と、単なる否定形のように感じられるという。
さらに悟りを開いた後には、
「もろもろの悪すでに作られず」
(諸の悪すでに作られず)
と、悪事をなすことなどできようはずもないと受け取ることができるというものだ。
悪をなしてはいけない。
悪をなすことはない。
悪をなすことなどできるはずもない。
道元禅師は単なる否定の、さらに次の一歩まで示された。
「できるはずもない」
そんな心境にいたれば、外から自分を規制する禁止の語に、意味など感じなくなってしまうことだろう。
おわりに
抑止力ということで法を整備して「してはいけない」という側面から行動を規制することに意味がないとは言わない。
むしろ、実際には法には極めて大きな影響力がある。
しかしながら、そのような自分の外側にあるものによって自分の行動の基準を決めるというのは、やはりどこか人として寂しい。
もし最後まで自分のなかに基準がなかったなら、そんな人生どうなのか。
自分の行動を自分で決定できなかったら、虚しいと感じはしないだろうか。
山岡鉄舟のように、道元禅師のように、行動の意味を深めてこそ、自分の人生を真に主体的に生きることにつながっていくのではないだろうか。