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ブッダが最初に説法した意外な相手 ~五比丘より先にブッダの教えを聞いたウパカ~

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ブッダが最初に説法した意外な相手


ブッダが悟りを開いたあと最初に説法をした相手は、かつて苦行をともにした5人の修行仲間だった、というのが仏教の常識です。この最初の説法は「初転法輪(しょてんぽうりん)」と呼ばれ、ブッダ史における重要な出来事の1つとなっています。


しかし厳密に言うと、悟りを開いたあと最初に説法をした相手は別にいるんです。ふふふ、ご存じでしたか? まあ、それが内容的に「説法」だったのかどうかは、ちょっと怪しいところではありますが……。


原始経典である阿含経を読んでいると、たまに意外な話に出会うことがあります。今回はブッダの最初の説法に関するちょっと面白いお話をご紹介しましょう。



ウパカとの出会い

ブッダは悟りを開いたあと、人々のために教えを説くことを決意します。しかしブッダは、誰もが自分の言葉を理解してくれるとは毛頭考えていませんでした。理解できるだけの素地、少なくとも人の言葉から学ぼうという意識のない者には理解できないだろうと。では一体誰なら自分の教えを理解できるのか。


そこで思いついたのが、出家してから最初に師事したヨーガの達人であるアーラーラ・カーラーマ先生。しかし、このときアーラーラ・カーラーマはすでに亡くなっていました。ならば次に師事したウッダカ・ラーマプッタ先生に説こうと思いつくのですが、残念なことにウッダカ・ラーマプッタもすでに亡くなっていました。


自分の悟りを理解してくれるであろう2人はもうこの世にいない。どうすればいいのか。ブッダは考えた末に、かつて苦行をともにした5人の修行仲間なら理解してくれるのではないかと考え、あの5人こそ最初の説法の相手として相応しいと、彼らのいるバーラーナシーの都へと向かいます。


しかしじつは、5人のもとへと向かう最中に、ブッダは最初の説法(会話?)をおこなっているのです。その相手というのが、道で偶然出会ったウパカという男


このウパカという人物、道でブッダの姿を見るなり高潔な美しさを感じ取って、近づいてブッダに問いかけます。


「あなたはとても浄らかな姿をしているが、誰のもとで出家したのですか。誰に師事しているのですか。誰の教えを大切にしているのですか」


するとブッダはこう答えます。


「私は一切に勝る者。私は一切を知る者。
どんな言葉にも惑わされず、執着を捨て切って悟りを開いた者。
自ら悟りを開いたのであるから、誰が師であるとは言えない。
私と肩を並べる者はいない。
この世界に私と比べられる者はいない。
私は人々から供物を受けるに足る者。無上の師である。
私は一人悟りを開き、浄らかにして静かな心を得た。
今、その教えを説こうとバーラーナシーへと向かっている。
真っ暗闇にも似たこの世界に、救いの太鼓を打ち鳴らす者である」


自信に満ちた言葉のオンパレード
するとウパカはこう訊きます。


「今あなたの言われたことが真実なら、あなたはこの世界で何者にも勝ると言っても過言ではないように思うのですが」


ブッダが答えます。


「もし人が煩悩を滅したなら、私と同じ勝れたる者と言えよう。どんな悪にでも勝ることができるから、ウパカよ、私は勝れたる者なのである」


するとウパカは、


そうですか。それはよかったですね


とだけ告げて、頭を振りながら去って行きました。


ウパカとの会話が仏典に残されている意味

この話、一般にはあまり語られることのない部分で、ブッダの最初の説法として有名な5人への説法ともあまり関係のないトリビア的なもの。ですが、ある意味非常に面白いエピソードなんです。何が面白いのかというと、ブッダが説法に失敗したエピソードである点


いや、別にブッダの失敗を面白がっているのではありませんよ。人の失敗をほくそ笑んでいるわけではなくて、失敗したエピソードをちゃんと教えとして後世に残している点が面白いなあと感じるのです。


このエピソードが仏典に残されている理由って何なのでしょう。そう考えると、もしかしたら同じ轍を踏まないために説法に失敗した原因を留めておいたようにも思えてくるのです。


というのも、ここでブッダがウパカに語った内容というのは、一言で言えば「俺スゲェ」に尽きるでしょう。説法というより自慢話。ブッダにその気がなくても、ウパカにはそのように感じられたのではないかと思うのです。ウパカの最後のそっけない言葉と、頭を振って去って行ったという記述は、ブッダの言葉がウパカには届かなかったことを如実に物語っていると思えてなりません。


こうした出来事があったのち、ブッダはバーラーナシーで5人の旧友と再会をはたします。そして教えを説いて、5人はブッダの弟子となっていきます。ここではブッダの言葉が5人の胸に響く様子がちゃんと記述されていることから、ブッダはウパカとの会話を通して説法の難しさを知り、自慢話に聞こえるような話し方をしないなど、説法に修正を加えたのではないかと推測することができるわけです。


いずれにしても、人に話をするというのは難しいものです。真実を言えばそれで事足りるかといえば、そうではありません。相手にわかるように、伝わるように、誤解なく、嫌味なく、気を付けることを挙げればきりがありません。そうした説法の難しさを端的に示したエピソードとして、このウパカとの会話が仏典に記されているのではないかと、勝手に思っています。


ブッダも人間ですからね。最初から万事上手くいったわけではなかったことでしょう。試行錯誤を重ねながら説法を続けたのではないでしょうか。そうして80歳で亡くなるまで、45年にも及ぶ布教の生涯を送った。そう考えると、天才というよりは努力家といったイメージのほうがしっくりきます。


どのような方だったのか、叶うなら実際にお会いしてみたいものですね。